と壁と》第一章 恵子が腹を立てる

と壁と

第一章 恵子が腹を立てる

小川恵子は、行くところがなかった。

と言っても、出勤するところがないとか、帰る家がないとか、いわゆる宿無しで無職の生活をしているわけではない。むしろ、學校の先生をやっていると聞けば、誰でもうらやましがるところだろう。でも、行くところがないのだ。

どうして、學校の先生になんてなろうと思ったんだろう。

大學生までは、そんなこと一度も思ったことはない。學校の先生になって、いろいろな生徒がいて、彼ら、彼たちがそれぞれの道に進んでいくための、お手伝いをしよう。それができれば本。恵子はそう考えていた。

恵子は運が好きだった。もともと勉強というはあまり好きではなかったが、育の時間に様々なスポーツをして、同級生たちと流を持つことが何よりも好きだった。勉強で得られない、協力すること、チームメイトとコミュニケーションをとること、それが蓄積して、最終的に勝利というが得られる。これが何よりもスポーツの魅力だと思った。それに、國や人種を超えて流をはかることができたり、あまり好きでない人とも積極的に話をするきっかけになって、その人の別な面を発見することもできるので、世界平和にも貢獻していくものであると、確信していた。小學校から、には珍しいサッカーを始めて、中學校も越境通學でサッカーの名門校に通った。高校も、偏差値こそないので進學先がないのではないかと心配されたのだが、そのサッカーのうまさから、サッカーで名の知られている私立高校へ「引き抜き」と同じようなじで進學することができた。高校の三年間も、サッカーにひたすらに打ち込み、最終的に主將にまでなって、彼は、サッカー生活を満喫した。小學校から中學校までは、本當にプロのサッカー選手になるのだと豪語していたが、高校で三年生の時に初めて全國大會に出て、予選敗退した時に、自分にはそのようなことは無理だと確信した。ではどうしたらいいのかと考えた時に、サッカーを通して、仲間を得るきっかけになったし、チームで戦ってを共有する幸せも味わったし、進路で悩んだときは、サッカーに救ってもらったこともあったから、これをほかの人に分けてやることが、自分の使命ではないのかと思った。そこで彼育大學に進むことにして、育教師になることを決めたのだ。最も自宅から近かったのは、日本育大學であったが、偏差値がしばかり足りなかった。そこで、彼はサッカー部を引退した後、猛勉強を重ね、日本育大學に進學した。彼が進學したことを、多くの教師は「奇跡だ」と揶揄した。それほど彼は學業績が悪かったのである。そんなことはまるで平気で、彼は日本育大學でサッカーをさらにきわめて、同時に學業にもきちんと打ち込んで無事に教員免許も取得し、教育実習もしっかりやって、無事に教員免許を取得した。

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そんなわけで念願だった育教師となったのである。そして、彼は生まれ故郷の東京都渋谷區にある、都立高校に、教師として赴任した。本來彼は私立高校で働こうという意思が強かったが、彼の両親が公立のほうが、待遇が良いとして反対したために、都立高校に「就職」することにしたのだった。

しかし、ふたを開けると、真実が見えてきた。真実は、真実はこれほどつらいものか、と言えるほどつらかった。同僚の教師にこの悩みを打ち明けたところ、あまりにもサッカーに打ち込みすぎて、世間知らずすぎた自分の責任だと言われて馬鹿にされた。それに、育教師であれば、進學率に直接かかわることもないので、そんな贅沢な悩みなど聞いている暇もない、と罵る教師も多かった。そうやって、他の教師からは、業務上の事でない限り、ほとんど口もきいてもらえない、窓際族に追いやられてしまった。

教師だけではなく、生徒も育というは、あまり重要な科目ではないことを知っている。高校となれば、小學校や中學校ほど授業に打ち込もうという生徒は、よほどのがり勉でない限りない。だから、マラソンをさせようとも、本気でマラソンをしている生徒はほとんどないのである。中には、マラソンなんかそっちのけで、験勉強をしている生徒もいる。そういう生徒がどうやって自分のほうを向いてくれるか、を考えることから始めないといけないので、本當に、気が遠くなる。育なんて、自分の試には関係ないし、疲れるし、何も役に立たないと生徒に言われたら、返す言葉なんて本當にない、というより思いつかない。事実、その通りである。皆の健康を作るためにかすのだと反論しても、それより験勉強のほうが先だと生徒にやり込められてしまうのだ。恵子は、子生徒の擔當であったが、子生徒であっても、自分よりの大きな生徒はいくらでもいるから、注意しておかないと、大変なことにもなりかねないからである。

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そうかといって、育の授業が円にできないと、他の教師からは能力がない教師だと言われて、また馬鹿にされる。特に、英語とか數學などの重要科目の教師からは、一層馬鹿にされた。音楽とかなどの教師の中には、優しい人もいたが、恵子がいつまでも悩んでいるので、彼らも散ってしまった。

そんなわけで恵子は行くところがなかったのだ。

サッカーを通して、いろんなことを教えていくのが自分の使命だと思っていたのに、そんなものは、とっくにどこかへ飛んで行ってしまった。毎日高校へ通い続けるうちに、いつの間にか彼は、生徒を授業のほうへ參加させること、他の教師に馬鹿にされないこと、これに、終始していた。

ある日、恵子が、高校への勤務を終えて、自宅へ帰ろうと、バスに乗り込んだときだ。前の席に、真新しいブレザーを著て、チェックのスカートを履いた二人が座っていた。二人とも、「國語」と書かれた教科書を持っていたから、明らかに學生であった。しかもその教科書は、自分たちの高校で使っているものと、全く同じもの。それでは、彼たちの著ているものは、制服か。しかし、見たことのないものだ。どこの高校だろうと一生懸命首をひねって考えたが、全く思いつかないのだ。

その時、の一人が、持っていた鉛筆を落とした。鉛筆は、後ろの席に著いた恵子の足元へ転がってきた。恵子はそれを拾い上げて、前に座っていた、の肩を叩いた。

「これ、落としではありませんか?」

と、驚いたことに、制服を著たは、すでに三十歳を超している。

「あ、ありがとうございます。」

禮儀正しくそういう彼は、明らかに20代の恵子より年上で、著ている制服にちょっと違和じる。彼は、鉛筆をけ取って、また熱心に勉強を始めた。

「ねえ、ちょっと聞いてもいいですか?」

恵子は勇気を出してそういってみた。彼たちは、後に振り向いた。

「二人とも、どちらの高校なんですか?」

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「はい、緑高校です。」

緑高校?聞いたことのない高校だなと恵子が考えていると、

「今年、開學したばかりで、私たちは一期生なんです。」

もう一人のが答える。

「ちょ、ちょっとまって。緑高校ってどこにあるんですか。私、聞いたことないわ。そこは公立?それとも私立?」

「私立ですよ。渋谷駅の近くのオフィスの中にあります。」

「は?そんなところに高校なんかあるわけが、、、。」

「それがあるんですよ。通信制なので、月に一度か二度くらいしか登校はしない子が多いんで、広い教室も要らないんですよね。もちろん、熱心な子は、毎日通っている子もいますけど。」

通信制の存在は知っていたが、こんなすぐ近くに進出するとは思わなかった。

「で、でも、待ってくださいよ。お二人とも、一般的に言ったら、もうすでに就職して、結婚している年齢でしょう?それなのに高校へ?」

「よく言われるよね。一生懸命若作りしてもだめね。まあ、確かにそういう年齢ですよ。私たち。事実、四歳の息子もいます。私は、家が破産してしまって、高校を辭めて働いていたんですけどね、でも結婚して子供ができてからは、やっぱり親として高校だけは、行こうかなと思って、學させてもらいました。」

「私は、やっぱり高校の時に、すごいいじめがあって、私が辭めるしか解決方法がなかったのですよね。結局やめて、長く引きこもってしまいました。でも、この年になって、やっぱり高校には行きたいと思うようになって、緑高校にらせてもらったんですよ。」

たちは、そうやって話していても実に生き生きとして、楽しそうだった。

「こんな年で高校にってよく言われるけど、あたしたちは、今勉強ができるんだから幸せよね。」

「そうですか、、、。」

やけに生々しいだった。彼たちの笑顔をみて、恵子は自分が大學時代に求めていた生徒の顔が、まさしく彼たちの顔だと思わざるを得なかったのだ。それに比べて、自分の通っている高校の生徒たちの顔はどうだ。勉強ができるから幸せなんて、百叩きをしても、口にする生徒なんていないはずだ。ほんとうなら、こういう顔をしている生徒を、學校はほしいはずだ。しかし、そういう生徒は、通信制に盜られてしまったか。恵子はまず落膽した。

「何か、進學とかそういうは考えているんですか?」

ここまで設定することはないだろうと思った。

「そうですね。息子もいるから、ちょっと普通に大學に通うのは難しいけど、今は通信制の大學というのもあるから、そこへ行こうと思っていますよ。長く働くことを強いられて、やっぱり知識が必要だなあと思うし、親として、子供に何も教えられないのでは恥ずかしいし。それに、もし、息子が將來躓いてもこういう風にすれば解決できるよって伝えられるし。」

「あたしは、高卒の資格取ったら、心理學系の資格とか目指したいかな。將來は、困っている子供の役に立てる仕事に就きたい。そうすれば、引きこもったことも、無駄にはならないって、先生が言ってた。」

二人はちゃんと、將來の目標も決めていた。しかも、そのようなアドバイスをしっかりしてくれる先生がいるとは驚きだ。恵子が知っている進路指導の先生は、自分たちの進學率しか頭になくて、生徒の希とか、そのようなものはどこ吹く風で、気にらない生徒は、まるでやくざの親分のように怒鳴りつけて、無理やり上級學校へ進學させる、という先生である。

それに、生徒が自主的に進路を決めているというのも驚きであった。目標なと見つからないでただただ親の期待に応えようとしている生徒か、親の事をただうるさいとしかみなさずに、遊びほうけている生徒しか見たことがない。

まもなく、車アナウンスが鳴った。

「あ、もう降りなきゃ。先ほどは、鉛筆、ありがとうございました。じゃあ、ここで降りますので、失禮いたします。」

が、バスの停止ボタンを押したので、まもなくバスは止まった。彼たちは、學割と書かれた定期券を運転手に提示して、バスを降りて行った。

恵子は、彼たちに、完全に負けたと思った。

全日高校に勤める自分が寂しかった。

その次の停留所でバスを降りて、自宅に帰ったが、その時何を考えていたのか、全く覚えていない。ただ、涙をハンカチーフで拭いたことだけは覚えている。気が付いたときには、自宅の玄関前に立っていた。

「ただいま。」

ガチャンとドアを開けて、恵子は家にった。

「おかえり、恵子。」

母が迎えてくれた。恵子がまだ20代だから、父も母も定年はしていなかった。二人とも仕事をもち、近くの職場で働いている。恵子には兄弟がなかった。今時だから珍しいことではないが。

「どうしたの?」

母はいつも優しかった。

「ううん、何でもないわよ。」

無理やり笑顔を作ろうと思案したが、それはとても無理な話で、逆に彼の顔は崩れてしまった。

「どうしたの!いいから早く上がりなさい。ほら、お茶でも飲みなさい!」

「はい。」

崩れた顔で、恵子は家にった。もう、我慢などできる狀態ではなかった。

「今、お父さんがご飯を作っているから、待っている間に、お茶でものんで話をしてご覧。」

恵子の家では、父がご飯をしたくするのは珍しいことではなかった。母は夜勤も多かったが、父はそうではなかったから、自的にそうなってしまったのだ。

母に連れられて、食堂へ行くと、なんとなくカレーのにおいがしてきた。

「おう、恵子か。もうちょっとで、食べられるからな。し待ってろよ。」

父は、料理をしているのがとても楽しそうである。恵子は母に促されて椅子に座った。

「それで、何があったの?校長先生にひどいことでも言われたの?」

「そんなんじゃないわよ。」

「じゃあ、生徒さんと、ぶつかってしまったとか?」

母は、話が上手だ。長年介護職をしていればそうなるのだろう。

「黙ってないで、言ってごらんなさい。人間、ストレスはためこんでしまうのが一番よくないのよ。」

「お母さん。」

恵子は、涙を流しながら、問いかけるように言った。

「あたし、教師なんてなるもんじゃなかった。もう、人生失敗したような気がする。同僚の先生も、生徒にも馬鹿にされて、あたしが本當にやりたいことは、みんな緑高校に盜られてしまって。」

「恵子、あんたはまだ先生になって時間がたってないんだし、そのうちに慣れてくるわよ。」

恵子はしイラついた。

「じゃあ、どうすれば慣れるの!」

「時間がたつのを待つしかないでしょ。」

「そんな悠長なこと言ってられないわよ!だって、上の先生方には逆らえないし、生徒には、下手なことをすれば、変な不信を抱かせちゃうし。それに、生徒の親だって、今はモンスターペアレントという言葉だってあるくらいだから、うんと慎重に言葉を選ばないと、、、。」

「まあ、今はちょっと大変な時なのかもしれないわね。誰でもそういうときはあるわよ。それを乗り越えればまた強くなれるの。」

「そんなかっこいい言葉を使わないでよ!そのせいであたし、どれくらい苦しんだと思ってるのよ!じゃあ、的にどうすれば慣れるの?」

「それは、人によって違うわよ。リラックスする方法は、お母さんと恵子ではそれぞれ違うでしょうし。」

「お母さんは、教員なんてなっていないから、そんなきれいごとが言えるのよ!そうやって、偉そうに言うけれど、本當は答えを知らないんじゃないの!それなのに、そうして綺麗な言葉で誤魔化そうとするなんて卑怯よ!」

「だって、本當にそうじゃないの。人によって、好きなも嫌いなものも違うんだから。それくらい恵子だってわかるでしょ?」

「わかれば質問などしないわ!やっぱり、肝心な答えを求めれば、そうやって逃げようとするのね!」

「だって、答えってのは他人が出すものじゃなくて、」

「うるさい!」

と、恵子はテーブルをどしんとたたいた。

「そうやってすぐに自分でやれ自分でやれっていうけど、自分でなんか何度でもやってるわよ。それで、功した試しがないから、お母さんたちに聞くんでしょ!質問するのはそんなにいけないわけ!そうか!じゃあ、いくらやっても答えを出せない人間は、ダメな人間で、もう死ぬしかないのか!」

「恵子!それだけはいうもんじゃないわ!」

「どうして楽にさせてくれないのよ!もとはと言えば、あんたたちのせいでもあるのよ。私が、私立學校へ就職したいって言ったとき、公立のほうが、安定した暮らしができるからってさんざん反対したのは誰!そのおかげで私は、こんなにひどい生活をしているんだから、

それじゃあ、責任とってもらいたいものだわ!」

「恵子、隣の家に聞こえるわよ。靜にしてよ。」

「うるさい!私より世間のほうが大事なのだというのなら、もう、本當に死んでやるわ!」

恵子は、調理臺のほうへ行って、まな板ある包丁をとろうとしたが、父がその腕をしっかりとつかんだので、それはできなかった。

「邪魔しないで死なせてよ!」

「いや、それだけはできない!」

父の顔は厳しかった。

「こんなにつらい生活をさせるために、娘である私を産んだのなら、ちゃんと、私が幸せになる、責任をとってから、産んで頂戴ね!」

「恵子!」

父は、顔こそ厳しかったが、口調だけはやさしかった。父は、そういう人だ。顔だけ見ると厳しそうな人であるが、実際は気さくで優しいので、會社の部下からも慕われている。今思うと、彼はそんな父がうらやましいを超えて、憎らしくなっていた。

「お前、し疲れているよ。」

「疲れていたら、仕事はできるはずがないわ。」

「いやいや、疲れていなければ、死にたいなんて言葉は口にしないさ。きっとお前は軽いうつ病になっている。まあ、今の時代鬱になることは、頭がおかしくなったわけではないということはすでに証明されているから、あまり恥ずかしいことではない。隠してしまうのが一番悪いんだから、逆に怒鳴りつけてくれたおかげで、早く発見することができてよかったとお父さんは思っている。発見できたんだから、次はどうすればよいかを考えればいい。」

「お父さんのそういうプラス思考というか、前向きなところ、おじいちゃんにそっくり。ああ、こんな時におじいちゃんが現れてくれたら、うまくやってくれるのにな。」

母も、そんなことを口にするようになったのだから、かなり年を取ったと思った。ちなみにおじいちゃんとは、父の父だが、よく親戚で仲人を任されていたから、その新夫婦のトラブルで相談に乗ることが多かったため、非常に前向きで話をするのがうまい人として、近所では有名だった。

「まあ、おじいちゃんのことは関係ない。どうだ、恵子、し環境をかえて休んでみないか?」

「そんなことしたら、生徒が、、、。」

「だってお前は、窓際族に追いやられたそうだし、それに育なんてどうでもいい生徒ばかりなんだろう?それなら、わざわざ飛んで火にいる夏の蟲になることはない。お前がいなくても、生徒は勝手にやっているし、學校側も代理の先生を立てるとか何とかするよ。それに、今、お前が學校に行ったら、余計に荒っぽくなって、本當に自殺してしまうことだってあり得ない話でもない。それをされたら非常に困るから、し、自然のたくさんあるところに行って、休んでこい。」

「でも、戻ったときに余計に生徒に馬鹿にされるんじゃない?鬱になった教師って。」

「いや、かえって、先生が鬱になったとして、考え直してくれる生徒もいるかもしれないぞ。」

「そんな生徒なんかいるわけが、、、。」

「お前はそう思っているかもしれないが、人が人を決めつけることはまずできないぞ。とにかく、お前が死んでしまう事だけは、お父さんもお母さんも、どうしても嫌だから、その元兇となっている學校に行かせることはどうしても嫌だ。」

「それにね、もしものことがあっても。」

母が優しそうに言った。

「まだ、あんたは26なんだから、やり直しはいくらでもできるわよ。若いってのはそういう事でもあるんだから。年を取ってから、それをするんじゃいろいろ問題が出るけれど、若い時ってのは、そういう事が発生しにくいときでもあるのよ。だから、いっそのこと別の道を行くっていう手もあるのよ、恵子。」

「できることならそうしたいわ!でももうできないわよ!」

「できる!まだあんたは、26年しかこの世で活してないのよ。それに比べたら、殘っている時間のほうがよっぽど多い。だから、一度の就職先がすべてになるわけじゃないし、一度の失敗で人生がつぶれることもないの。」

「そうそう。それに、こういう追い詰められたことっていうのは、逆に方向転換をするためのチャンスでもあるんだぞ。神様が、そうやって苦しませることで、お前に違う方向へ行けと合図しているのかもしれない。災い転じて福となすという言葉だってある。お前がした経験は、決して無駄にはならないから!そのためにも、休むことが必要な時期もあると思いなさい。そして、それが許されたときは、今は休む時なのだと思って、思いっきり休んでしまいなさい。その時に余分なに手を出すと、かえって悪化するからな。」

父は、常に優しく恵子に言った。

「人間というものは、いつでも完璧にけるものじゃないんだよ。時につかれることもあり、時に壊れることもある。でも機械とちがってね、再起するときにってものが得られるから、同じ過ちを繰り替えさないようにしようと考えなおすことができるんだ。それが機械と人間と大幅な違いであると俺は思っている。」

父は、いわゆる電気技師であった。だから、こういう事が言えるのだと恵子はおもった。

「そうね。」

恵子はぽつりと言った。

「でも、休むと言ってもどこで休んだらいいのかしら。神科に院はしたくないわ。」

「大丈夫、その言葉が言えれば院する必要はないよ。お父さんのお兄さん、つまりお前にとってはおじさんが、茨城の結城に住んでいるから、そこで靜養すればいい。確かおじさんの部屋に空き部屋があったはずだ。」

「茨城?なんでまたそんな田舎に、、、。」

「いや、そういうところのほうが、いいんだよ。空気はいいし、うまいものはあるし、何よりもみんな親切だし。」

父の兄については、恵子も聞いたことがある。親しく付き合ったことはなかったが、確か結城市で呉服商をやっていて、妻はいるが、子供はないはずだ。空き部屋というのは、住み込みの職人を雇っていた時に、職人が寢泊まりしていた部屋の事をさしている。

「行ってみなさい。電車も一時間に一本しかないそうだから、うるさくなくていいわ。」

一時間に一本なんて、恵子には信じられないほど不便な本數であった。そう解釈できる母は、ある意味すごいと思った。

「そうするわ。」

恵子は、結論としてはそうするしかないなと思うしかなかった。

「よし、決まれば早く実行したほうがいい。明日、すぐに學校に休職願いを出しなさい。おじさんにはお父さんが電話しておくよ。まあ、苦労の多いおじさんだから、すぐにわかってくれるだろう。そして、早く荷をまとめて、引っ越しの支度をしなければ。」

「引越し?ちょっと極端なんじゃないの?それに必要なものは、向こうで調達すれば、」

「いやいや、恵子。東京とは全然違うところで、駅からコンビニすら歩いていけないんだ。」

父は、ちょっといたずらっぽく笑った。

「でも、何でもそろっているところじゃないから、學べることも多いんじゃないの?」

「お母さんまで、、、。」

「よし、泣いたカラスがもう笑ったな。それなら大丈夫だ。今からおじさんに電話をしてみようね。」

そう言って父は、スマートフォンを取り出した。しばらく、兄弟のごく普通の會話が流れ、やがて、彼を滯在させる依頼の言葉が現れ始めた。會話の容は、終始穏やかで、的になることはなかった。やがて、禮を言う言葉が現れて、電話は切れた。最新型のスマートフォンだったから、相手の聲がれてくることはなく、伯父の聲は聴くことができなかったが、父の発言を聞いていると、伯父は理解してくれたようだ。やがて、聲を立てて笑い、じゃあよろしくと言って父は電話を切った。

「どうだって?」

母が聞いた。

「ああ、気持ちよく承諾してくれた。兄ちゃんも、やっぱり苦労している。それに、恵子のような躓いた子が、一時的に呉服屋に働きに來たこともあったらしい。」

「まあね、確かに、お兄さんのような店は、問題のある子が働きに來やすいのかもね。あまり人通りも多くないだろうし、綺麗な著はあるし、躓いた子が伝統文化に救われた例は多いみたいだしね。」

父と母はそんな話をしている。恵子は、この二人も年を取ったんだなと改めてじるようになった。

「お兄さん、いつから來ていいって?」

「いつでもいいそうだよ。今誰も住み込みで働いている職人はいないからって。」

「でも、どうやって行ったらいいの?その辺鄙な街。」

恵子は、かなり遠いところなのではないかとおもった。

「ここからだと、渋谷駅から、宇都宮線で、小山まで行って、そこから水戸線に乗り換えればいいんだよ。なに、二時間もかからないよ。ただ、水戸線は一時間に一本しか走っていないけど。」

二時間もかからないのでは、大したことはない。飽きたらすぐに帰れると恵子は思った。

「じゃあ、近いうちに行くわ。」

「うん。善は急げだ。すぐに支度をして、支度が出來次第、出発しよう。」

「明日、休職願を出してくるわ。お父さんもお母さんも、さっきは怒鳴りつけてしまって、本當にごめんなさい。」

恵子は、両親に頭を下げて謝罪した。

「いいのよ恵子。こうしなければ、あんたが、それほど學校が苦しい何て、わからなかったんだから。」

母は、そういって、にこりと笑った。恵子は、母がそうやって寛大な態度をとってくれることに謝した。いくら怒鳴っても最後はそういう結論で終わってくれる母のその技は、恵子がに著けるには、まだまだ遠い問い先になりそうだ。

「じゃあ、しばらく離れ離れになるけど、元気でね。自殺なんて、絶対ダメだからね。」

「大丈夫だよ。兄ちゃんは、それは絶対認めない人だから。」

數日後、恵子は、渋谷駅から結城市に向けて旅立っていった。

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