《と壁と》第四章 川ちゃん現れる
第四章 川ちゃん現れる
數日後の事だった。
恵子はまた、なかなか客の來ない店の中で、ぼんやりと外を眺めていた。東京のように、頻繁に車が走ってくるわけでもなく、電車が走っているわけでもないので、本當に一日中変化のない、退屈な町だった。しまいには眠くなるほどだった。すると、どこからか草履の音が聞こえてきた。
「こんにちは、」
と、キーのやや高い、細い聲がした。
恵子はこれを聞いて、パッと目を覚ました。
「あれ、結城ちゃんどうしたの?今日は特に呼び出しもなかったんだけど?」
天川さんの言う通り、やってきたのは裕康であった。天川さんは、ちょっと不思議そうな顔をしている。
「ああ、今日は著の話ではなくて、恵子さんにお禮がしたくて來たんです。」
「あ、なるほどね。」
天川さんは何か考えていたようであるが、すぐに理解したらしい。実は、この間のことは、天川さんには伝えていなかった。ただ、スーパーマーケットに寄ってきただけと言っておいただけだった。でも、今の顔から判斷すれば、天川さんは、すべてお見通しの様だ。恵子が、怒られるかと思い、どうやって誤魔化そうか一生懸命口実を考えていると、
「あの後、しばらく寢てましたけど、ニ日すれば歩けるようになりました。ありがとうございました。」
と、裕康が言ったので、恵子は、もう観念するしかないなと思った。
「本當は、病院に連れていくべきだったかしら。ごめんなさい。」
やっとそれだけ発言した。
「いえ、いいんです。病院に行ったら、またお醫者さんに怒られるだけですし、それに、たぶん東京のすごいところに行けとなるでしょうから、それだけは絶対嫌なので。」
裕康は、恵子を擁護するように言ってくれた。天川さんは、怒りそうなじではなく、むしろ仕方ないなと取ってくれたようだ。
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「うん、確かにそれは嫌だろうが、は大事にしてくれよ。ここから東京行くと、すごい時間がかかっちゃうし、診察にいくだけで疲れちゃうから、まあ、気持ちはわからないわけでもない。でも、それならなおさら、無理をしないのが大事だよ。そうならないためにも、日ごろから、気を付けてくれよ。」
確かに東京に出るには、電車が一時間に一本しかないわけだから、電車に乗るまでだけでもイライラする。恵子だったら、それだけでも疲れてしまいそうになる。そのために悪い結果になったら、病院に行ってもよくしてもらいに行くどころか、かえって悪くしてしまいそうだ。
「はい。本當にこの間はすみません。あの時、恵子さんにさんざん手伝ってもらったので、お禮でもしなきゃなあと思ったわけですが、うちにはお禮として差し上げられるようなものは何もないので、あまり布でカバンをってきました。」
そう言って、裕康は風呂敷包みを開けた。取り出したのは、結城紬の、著の袖の部分を改造したと思われる手提げかばんで、裁を仕事とする人であるから、こんなものは朝飯前なのだろう。非常に丁寧に製されていた。すべて手いであった。
「あ、ありがとうございます。」
と言っておきながら、恵子は、であるのだから、赤とかピンクとかそういうであればいいのになあと思った。カバンは灰で、とても恵子くらいの年齢の人には似合わないであったのである。
「まあ、役に立つかどうかわかりませんが、買い袋にでもしてください。」
「は、はい。」
恵子は、仕方なくそれをけ取った。
「結城ちゃんも誠実だね。お禮を持ってくるなんて。」
天川さんがそういうのはなるほどと思った。東京であれば、禮なんてまずしないし、しても宅急便で送る程度だろう。と、いうよりそういう行為自、年齢が低くなればなるほど、しないことが普通であるから、非常に珍しいというか、煩わしい印象があった。
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「この辺りは、宅急便の営業所もないじゃないですか。それに、うちから近いわけですから、宅急便を使うわけでもないし。」
「でも、倒れた後なのに、歩いてくるのは大変じゃないのかい。車ではなんでもないと思うけど、歩くのはかなり距離あるよねえ。」
天川さんはそんなことを言った。「倒れた後」というのが、もうばれている。これではだめだ。恵子は、後で自分が叱られるだろうと思った。
「そうですね。でも車の免許を持ってないし、タクシーもすぐに來てくれる地域ではないし、近くにバスの停留所もないので、歩いてくるしかないです。」
「まあ、そうなんだけどさあ。無理をさせるというわけにはいかん。調良くないときは、ちょっとばかり遅れてもいいからタクシー使って頂戴よ。」
天川さんは、ちょっと叱っているように言う。単に頭ごなしに叱ってはいないのはよくわかる。それだけ心配なのだろう。と、いう事は何か重たい事があるんだなと恵子はじ取った。それも、きっとものすごく重大な事なのだ。ああ、自分は何をしたんだろう。これは、確実におじさんに怒られるだろうな、しっかり話しておくべきだった。
「でも、店長さん。倒れた後と言いますけれども、あれは僕が自己管理をしっかりしなかったせいなので、恵子さんのせいではありませんので。」
裕康がそんなことを言うので、恵子はまた面食らってしまった。
「すぐ君は自分のせいにするが、それはよくないよ。かえって損をすることもあるし、何よりも、君自も辛いだろう。そういう時はね、素直に助けを求めてもいいんだよ。」
「いいえ、仕方ないじゃないですか。恵子さんは何も知らなかったんです。ちゃんと伝えておく方が先決です。」
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「そうだけどね、あんまり自分が悪いとか、自分のせいだとか、そういう事ばっかり言っていると、本當に何も得をしないし、経歴持っていても、意味がないよ。」
「まあそうですけど、誰のせいとかにしていたら、一向に解決できはしませんから。一度、どこかで斷ち切ることも必要でしょう。」
「やれやれ。いくら言ってもこれなんだよね。どこかで斷ち切るは、君にとっては自分を責めるということなのに、気が付かないのか。」
天川さんは、大きなため息をついて、裕康を困った顔で見た。恵子は、救ってもらったというか、かえって悪いことをさせてしまったというか、複雑な気持ちになった。それについて何も言えず黙ってしまった。
「じゃあ、僕、帰ります。また、お客さんがいらしたら、連絡いただければ。すぐにそちらにいきますので。」
「あれ、お茶でも飲んでいけばいいのに。し休んでいったら?」
「いいえ。今日は、夜にちょっと予定がありまして。」
「あそう。全く、あんまり予定を詰め込むと、また悪くなるよ。そうなったらこっちも困るんだから。できるだけ、良い狀態を保てるように頑張ってくれ。」
「はい。本當にその節はすみませんでした。僕も気を付けます。じゃあ、今日はこれで。」
「待って!」
急に恵子が発言したので、天川さんは驚いたようだ。
「あたし、送ってくわ。そのほうが安全でしょう。こんな辺鄙なところだもん、歩いていくには大変よ。それに、こないだのことも、申し訳なかったし。」
「ああ、じゃあ、そうしてくれる?恵子ちゃん。俺も心配で仕方ないからさあ。」
天川さんがそういったので、恵子は急いで車を出しに行った。裕康がとりなしてくれたことに、お禮と謝罪がしたかった。
「すみません、なんかわざわざ、恵子さんまで。」
「いや、いいんだよ。結城ちゃんはそれよりも、まずはを何とかして、なんでも自分のせいにしてしまうのをやめろ。でないと、本當にダメになってしまうぞ。」
天川さんが、ちょっと不服そうに言った。
「わかりました。じゃあ、お言葉に甘えます。本當に、いろんなことで迷をかけっぱなしで、すみません。」
「謝ってばっかりじゃ、ダメなんだよ。」
「ごめんなさい、悪い癖で。」
「あのね。」
天川さんは、この癖さえなければ、という顔をしている。裕康もそれ以上言ってもだめだと判斷して、軽く敬禮して、裏口へ向かっていった。
裏口では恵子が軽自車に乗って、すでにエンジンをかけていた。
「すみません。今日もまたよろしくです。」
裕康も助手席に乗り込んだ。恵子は、裕康がシートベルトを締めたのを確認して、車をかし始めた。
「相當悪かったみたいね。今の、おじさんとの會話を聞いていたら、本當はこんな不便なところには住めないのではないかと思ったわ。もっと、通の便が良くて、病院もたくさんあるほうが良いのでは?」
「いや、それを言うなら、東京のほうがもっと不便ですよ。確かに大學と、大學院の間だけは東京に住んでましたけど、どうしても馴染めなかったですし。」
へえ、大學にいっていたのか。
「どこの大學行ってたの?」
「文京區ですよ。」
そういう意味で聞いた質問ではないと、恵子は訂正したかったが、裕康は、大學の名稱は話したくない様子だったので、それ以上は聞かなかった。
「じゃあ、大學にいってた時は、まだ元気だったわけ?」
「ああ、の弱かったのは生まれつきです。」
生まれた時からということは、何かしら対策が取れるはずなのに、何もしなかったのだろうか。しかし、大學出というのに東京に殘らず、こんな辺鄙なところに帰ってきたという點もまた変だと思った。
「何か事があったの?ほ、ほら、東京の大學へ行くとさ、ほとんどの子は、東京で就職して、地元に帰る子はないじゃない。まあ、家でよほどの事があるとかなら別だけど。」
「いや、単に、大學院時代から、東京はもうこりごりだと思うようになって、帰ってきたんですよ。」
「もうこりごりなんて、変な人。今時珍しい。」
「よく言われますけど、僕が行った大學は、あまりにも古かったので、あんまりバリアフリー設備というものが良くなかったんですよ。名は知れているかもしれないけど、中にると、古い時代そのままの建造が、たくさん建っていますので。」
そうなると、余計になんという名前の大學なのか気になるところだが、それはいけないのだろうか。それを聞こうと思ったのと同時に、アパートについてしまった。
「あ、ありがとうございました。今日は一人で帰れますから。本當に、この間はありがとうございます。天川店長に、今日は申し訳なかったとお伝えください。」
恵子が車を止めると、裕康はそういって助手席のドアを開けた。
「だめ。今日もあなたが心配だから、私も中にる。」
「ほかに用事があったりしないんですか?」
「あなたと違って車だからすぐに帰れるわ。それにどうせ店に戻っても、客なんてほとんど來ないわよ。しばらくこっちに居たって、何も問題はないわ。おじさんにはちゃんと言うから。」
「そうですか。じゃあ、お茶でも飲んでいかれますか?」
「いいわよ。」
恵子も、ドアを開けて車から外へ出た。裕康は外へ出るとを抑えて咳をしたので、恵子は余計に心配になったのである。それでも、今回は座り込んでしまうことはなく、すぐに元に戻って、歩き出したのでし安心した。
階段を上るときも恵子は、非常にはらはらしたが、スピードは遅いものの、途中で止まることもなく、部屋までたどり著いた。
「あたし、開けるから。」
裕康から鍵をけ取って恵子は部屋の鍵を開けた。鍵を差し込んだはいいものの、回し方が複雑で、開けるのにはちょっと手間のかかるつくりになっていた。しばかり苦労をしたが、何とかして鍵を開けた。
「るのにも一苦労なんて大変ね。不便なアパート。」
「防犯のためには良いのではないですか。じゃあ、どうぞ。」
と言って裕康は草履をいで部屋にった。今日は上がり框で躓くことはなかった。安心してしため息が出た。
「お邪魔します。」
恵子も靴をいで部屋にった。部屋は相変わらずきっちりと片付けられてはいたが、飾りも何もなく、殺風景なままだった。
「まあ、座っていてください。」
恵子はその通りにちゃぶ臺の前に正座で座った。
「どうぞ。」
その前に、灰の湯呑が置かれた。中に茶の茶がっていた。
「いただきます。」
と、恵子は湯呑をもって中を飲んでみたが、驚くほどまずい茶であった。
「あ、すみません。ドクダミはまずかったですかね。」
ドクダミ?そんな茶があったなんて、全く知らない。恵子のいう茶と言ったら、緑茶か紅茶である。と、いうよりこんなまずい茶を客に出すなんて、どうかしている。には確かによさそうだが。
「生憎、今これしかお茶がないので、、、。」
「あ、いいわよ!どうせ健康茶なんでしょうから。」
恵子はわざとそう言ったが、しかし、何はともあれ、まずい茶であった。
「もらいものですけど、柏餅。」
柏餅の乗った皿が恵子の前に置かれた。なるほど、確かにこれでは、東京はこりごりというのかもしれない。恵子の考えで言えば、こういう時にはケーキとか、クッキーのようなものを出すだろう。それもないとは、本當に現在の認識からは、ずれていると言わざるを得ない。
やっぱり、この人はどこか変なひとである。ああ、やっぱり帰ろう、と思った。
柏餅とドクダミ茶を前にして、恵子は一生懸命帰る口実を考え、
「あ、今日店で、おじさんに、用事があるって言ってなかった?」
とわざと言った。
「ああ、どうせ、まだずっと先です。夜になってからでないと來ないと思います。」
誰か來客があるのか。よし、邪魔になるといけないと言えば、帰らせてくれるだろう。
「もしかしたら、仕立て直しのご依頼かしら?邪魔だといけないわよね。」
「いえ、違います。ただのおせっかい焼きというか、、、。」
そう言って、裕康は苦笑いした。
「そういう人がいたのねえ。」
この人に友人なんて全くないと思っていたので、恵子はし驚いた。訪れてくる友人ももしかしたら認識がずれている人だろうと思った。
「何て名前の人?」
「川口。」
「じゃあ、柏餅はその人にあげてよ。私、迷になるから帰るわ。」
「ああ、かまいません。食べちゃってください。柏餅は、もう一個ありますので。」
結局そうなるのか。こうなったら仕方ない、急いで食べて帰ろう、と思って柏餅を手に取ると、突然、玄関のドアをたたく音がした。この部屋にはインターフォンというはついていなかった。
「あれ、何だろ。宅急便でも來たんですかね。まだ指定時間ではないのですが。」
「裕康、いる?」
太い男の聲である。とても宅急便の配達員の口調ではなかった。裕康もすぐにわかったらしく、すぐに返答した。
「なんだ。もう來たの?」
「そうだよ。來ては悪いか?」
あれ?と思われる響きがあった。地方の人であったとしても、ちょっとありえない、変なところへアクセントが付いている。
「一人來ているが、それでも良ければりなよ、川ちゃん。」
その間に恵子は、柏餅を置いて、急いでカバンをとり、帰り支度を始めたが、裕康が言い終わらないうちに、ドアが開いてしまい、「川ちゃん」なる人がってきてしまったらしい。廊下を歩いてくる音がして、ふすまが開いた。
「えっ!」
恵子は、「川ちゃん」を見て、思わず素っ頓狂な聲を出してしまった。
「ど、どなたですか?ほ、本當に川口さん?」
「そうですよ、川口ルイさん、僕は略して川ちゃんと呼んでいますけど。」
裕康が當たり前のように言う。しかしその川ちゃんと呼ばれた人は、まるで川口という苗字には全くふさわしくなく、長は裕康より30センチ近く高くて、目は見事な青、髪のも金だった。
「こ、こんにちは。じゃないのか、Helloと言ったほうが良いのかな、ああどうしよう、えーとえーと、」
恵子は、しどろもどろにあいさつしようと試みたが、英語の績は最悪であったから、なんていえばいいのか、全くわからなかった。
「違いますよ。まあ、あえて言うなら、HelloではなくBonjourというべきじゃないんですか。でも、僕、日本にきてもう十年は経ちましたから、大わかりますよ。」
「あ、ああ、えーとそうですか。ほ、本當にごめんなさい。」
「いえいえ、かまいません。僕も、実は未だに敬語の使い方ってあんまりよくわかってないんですよね。それに、日本人が外國人と聞いて真っ先に思いつくのはアメリカでしょうからね。」
確かに流ちょうであるが、ところどころのアクセントが変なところにあったので、まだ完全に習得したとはいいがたかった。まあ仕方がない。フランス語と日本語は、文法的にも発音的にも習得が難しいといわれる。
「川ちゃんもそこへ座ってよ。今お茶だしてくるから。」
「はいよ。」
と、川ちゃんこと川口ルイは、恵子の隣に正座で座った。よく見ると左手の薬指に金製の指がはまっているので、川口という苗字はそこから來たのかと恵子にもわかった。
「いったいどこから來たんです?裕康が、家にを連れてきたことは知り合ってから一度もないです。よっぽどの事がない限り、そういうことはしませんよ。本當に頭の古い人だから。」
やっぱり外國人だ。思っていることをなんでも口にする。
一生懸命恵子が返答を考えていると、
「裕康が連れてきたとなると、やっぱり彼さんなんかな。そういう人でなければ、の人なんて、」
「ち、違います!」
恵子は、そう返答するのがやっとであった。
「あれ、顔が梅干しみたい、、、。」
「川ちゃんね、あんまり人の事をずけずけ言うもんじゃないよ。」
裕康が茶を持ってきて、彼の前に置き、自はその隣に座った。ルイは湯呑を持って、中を一気に飲み込んだ。
「やっぱりドクダミはいいよ。紅茶よりも渋みがあってこっちのほうがいいや。」
なるほど、それでドクダミ茶だったのか。しかし、その飲み方は、まるで酒を飲むしぐさに近かった。
「酒は飲めないから、自的に茶を飲むことになるが、その中でもドクダミは一番いいよ。嫌なことがあると、大の人は酒で忘れられるが、僕も、裕康もそれはできないもんなあ。」
と言って、ルイは大きなため息をついた。
「ああなるほど。つまりまたバカロレアの試験に落っこちたんだね。」
「はい、まさしく。もうこれで五回目。今年はそれなりに勉強したつもりだったんだけどね。問題が難しすぎたかなあ。四割くらいでも取れると言われたが、その四割が難しい。」
「いいじゃないの。また來年もけさせてもらえるのならそれで頑張れば。君の奧さんだってそういっているんでしょう。」
「そうだねえ。やっぱり一人で勉強するのは難しいのかなあ。かといってリセに行き直すと、また、痛みが出るのではないかと心配でさあ。」
「あれ、痛散湯を大量にもらったのではなかったの?」
「いやあ、それもどうかなあ。一応それもらって、けるようにはなったけどさ。変な話だけど、お前と違って、本人にも予測がつかないので、、、。」
「誰だって、それは同じだよ。僕もそうだから、彼がここまで來てくれたわけだもの。でもさ、やっぱり獨學でバカロレアの勉強をするのは難しいと思うぞ。リセに行き直すのは難しいのかもしれないけれど、それがだめなら奧さんに相談して、通信教育とか、家庭教師を雇うとか、そういう事をやってみたほうがいいのではないかな。」
二人の會話を聞いて、恵子はすっかり混してしまった。バカロレアとか、リセとか、なんのことを言っているのかさっぱりわからない。
「あの、すみません。バカロレアとは、、、。」
恐る恐る聞いてみた。
「なんだ、知らないのか。と、いう事は、この人も頭がよかったのかあ、、、。日本では、バカロレアをけない人のほうが優秀だと聞いた。」
「まあねえ、日本ではバカロレアというと、馬鹿にしちゃう可能がありますからね。海外では、何にも恥ずかしいことではないんですが、日本ではそうはいかないですよ。バカロレアというのはね、日本でいうところの、高等學校卒業程度認定試験、いわゆる大検のことですね。ちなみにリセとは、日本で言うところの高校の事なんです。」
裕康が恵子に説明してくれて、やっと恵子は理解できた。
「日本の學校は名前が長すぎて覚えられないんだよね。それにどうも発音しにくくてさ。」
ルイはそういって頭をがりがりとかじった。
「裕康と違って、僕は行ったリセと相が悪く、ひと月くらいでやめてしまったので。」
なるほど、つまり高校中退ということなのか。確かにそれでは様々なことに不利である。それは教師であれば、よく知っていた。
「でもね、僕、五回落ちたからと言って、大學を諦めるつもりはありませんよ。日本で思いっきり勉強したいと思ったら、大學へ行くしか方法はないでしょ。そこへ行くためには、リセに行くか、バカロレアをとるかしか方法はありません。僕はすでにリセに行く事はできませんので、いくら落ちてもチャレンジはし続けますよ。裕康みたいに、東大ごときで、もうこれっきりにしてくれなんていう贅沢はしないで、もう飽きるまでとことん勉強してみたいですからね!」
「えっ、と、東大?」
さらにびっくりしてしまった。
「なんだ、彼さんにも言ってなかったの?自分の學歴くらい言っておいた方がよいのでは?」
ルイは、まるであきれた顔をしたが、
「無理だよ。そんなこと言ったら、みんな逃げていくもの。びっくりするのが何よりの証拠だよ。」
裕康はそんなことも言っている。
「不思議だな。日本って。そういうところがわからないな。東大に行ったのがそんなに驚くことだろうか。どこの大學へ行ったのかでまるで人種差別のようになると聞いたが、実際東大に行った人が、逆にいじめられたり孤立したりしている。東大は友達ができないと言っていたが、ヨーロッパの大學では絶対そんなことはあり得ないんだけどな、、、。もうこれっきりにしたいと聞かされて、本當にへんだと思ったんだが。」
確かにそうかもしれない。東大と聞けば、どこの家でもすごいという言葉しか聞かないし、もし、何かつらいことがあっても東大を出ているのだからと言われて助けてもらえないこともあり得る。そうなれば、日本人ではない人でなければ、心通わすことはできないのかもしれなかった。もうこれっきり、という言葉はそういうところから出たのだろうか。
「まあいいや。僕はお前と違うからな。絶対にあきらめないで、大學へ行くから!」
「応援してるよ。」
ヨーロッパでは基本的に個人主義である。つまり、必要なところだけ付き合えばそれでいい、で定著している。どういう事かというと、學歴がすごいとか、いい會社にっているからとかで相手を見ないのだ。もし、日本人同士であれば、このような関係は絶対に立しないだろうなと恵子は思った。
「じゃあ、ここで本題にる。さっき市民センターの前を通りかかったら、面白いコンサートを見つけた。今度の土曜日だ。なんでも場無料でれるらしい。行ってみようぜ。」
ルイはカバンを開けて一枚のチラシを取り出した。
「ああ、なるほどね。しかしこんなところで、チェンバロなんか演奏しても人が來るのだろうか。」
「だからこそ行くんだろ。人がないということは、見れる確率は高くなる。」
「なるほど。川ちゃんの考え方は、いつも前向きなんだな。でも、ここから水戸までどうやって行くんだ。水戸は遠いよ。水戸線だって、友部駅までしか行かないし、友部駅から延長する電車は一日一本しかないだろ。」
「だったらバスで行けば?」
「川ちゃんも世間知らずだな。水戸駅行きのバスは、一日一本しかないんだよ。」
本當に不便なところである。そんなことで、議論をする必要があるのか。東京であれば、全く気にしないで行けるのに。
「そうか、じゃあどうしようかな。」
「だから言っただろ。無理だって。」
「うちのかみさんにでも、頼んでみるか。たぶん頼めば來るよ。」
「あんまり頼んでばかりいるのもどうかと。僕も川ちゃんも運転はできないんだし、頼みすぎるのも悪いよ。」
「そこが、日本人のわからないところだなあ。僕は、相手が悪いとか、嫌だとか言わなければそれでいいと思うがな。」
「いやいや、郷にっては郷に従えだ。相手にはこういう都合があるだろうなと類推することも考えなきゃ。」
「わかったよ。確かにそれは守らないといけないよね。」
恵子は黙って聞いていたが、自分も何とかしなければなと思った。
「あの!」
「どうしたんです、恵子さん。」
裕康が、返答した。
「もし、よろしければ、あたしが運転しましょうか。」
「あ、できるの?じゃあお願いしようかな。」
「でも道を知らないでしょう、川ちゃん。」
「スマートフォンで調べればそれでいいわ。」
「いいじゃん。本人がそういうんだったら、そうさせてもらおうぜ。」
「そうだけど、大丈夫かな。駅からもかなり距離ありますよ。水戸の県民文化センターって。」
「心配しすぎよ。」
「よし、じゃあ行ってみようぜ。よろしく頼みますね。日付は今度の土曜日ね。」
「わかりました。」
恵子は、しっかり頷いた。
「開演は、二時だから、それに間に合えばいいや。よし、それで行ってみよう。」
「じゃあ、土曜日の朝、うちの店に來てくれます?」
「はいはい、わかったよ。じゃあ、裕康と一緒にそっちに行くよ。十時くらいかな。」
「わかりました。道なら、あたしが調べておきますから!」
なんだか急に必要とされた気分だった。
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