と壁と》第十二章 白鳥

第十二章 白鳥

「おりください。」

ドアを開くと友蔵が、出迎えた。彼を警戒している様子はなさそうだ。

「お邪魔します。」

正代は、急いで靴をぎ、丁寧に踵をそろえて、土間に置き、中にった。

裕康も草履をいで中にり、四畳半のふすまを開けた。

「どうぞ。」

裕康が他人に仕事場を公開したのは、初めてだった。

「はい。」

正代も四畳半の中にった。中には大量の反と、直している途中の著が丁寧に整理されて置かれている。よく見ると、著は皆同じ形であるのだが、全を通して柄がっているもの、下半のみのもの、肩と裾にかけて集中しているもの、全く柄のないものまで実に様々だ。

「すごい。著って、みんな同じなのかなと思っていたけど、柄の位置が違うんですか。」

「ええ、それによって著用場所を変えるんですよ。」

「そんなことがあるんですか。私、何も知りませんでした。」

「気にしないでなんでも聞いてください。わからないことは聞かないと解決できませんから。」

「ありがとうございます。本當に著って種類があるんですね。ちょっと、手に取ってもいいでしょうか。」

正代は、一枚の著を手にとった。

「ああ、それは訪問著ですね。読んで字のごとく、目上の人や他家を訪ねるときに著るんですよ。」

なるほど、それでは改まったときに使うのか。

「じゃあ、全的に柄のあるのはなんていうんですか。」

別の著を手に取って、正代は聞いてみた。

「小紋です。小紋は、食事とか、演奏會とか気軽な時に使うんです。」

なんだか訪問著よりかわいらしいものもあるが、かわいらしいからと言って、何でも使っていいかという考えは浮かばなかった。きっと、そういうルールは、古くからあるだろうから、やたら無視していいと考えてはいけない。

「へえ、、、すごいですね。」

「よかったら、いろいろ見ていただいていいですよ。皆、僕が仕立てたものなので。後で片付けますから、広げてくれてかまいません。」

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正代は、目を輝かせて、積んである著たちをじっくりと観察し始めた。裕康はその間に、お茶を淹れるために臺所へ行った。

しばらく観察していると、部屋の隅に機のようなものが置いてあるのを見つけた。しかし、機として使うには幅が狹すぎる。それに、足がなんだか変な風に曲がった形をしている。高さは、椅子に座って使うには低すぎで、正座をしなければ使えないくらい低い。別珍の布がかぶせられていたが、一何に使うんだろう?

「お茶、淹れましたけど、飲みます?」

裕康が臺所の方でそう言っている。まさかこの機でお茶を飲むのだろうか?

「あの、すみません!」

正代は思い切っていってみた。

「これ、お茶を飲むにしては幅が狹いような機、、、。」

「ああ、機じゃないんですよ。それは楽なんですよ。」

裕康が、臺所から戻ってきてくれた。

「機ではないんですか?」

「はい。まあ、僕が結城市に住んでいた時、し習わせてもらっていたんです。こっちに來るとき、捨てるわけにいかなかったんで、持ってきたんです。もしよかったらカバーをとって、ご覧になってくれてもいいですよ。」

裕康がそういうので、正代は謎のの上にかかっている別珍の布をとった。すると、120センチくらいの大きさの一枚板に、一本の絃をっただけの訶不思議な楽が目の前に現れた。

「こ、これは、なんという楽ですか。」

「一絃琴です。」

「いちげんきん?」

またしても驚きだ。そんな楽、名前どころか存在すら知らなかった。

「まあ、の方が知らなくても仕方ないです。今でこそ奏者も多いですが、かつては男の楽でしたので。」

なるほど、そういう事か。まあ、そういう歴史をたどった伝統分野は多い。でも、音を聞くことくらいはできるはずだ。

「ちょっと聞かせていただけませんか。」

「ああ、いいですよ。最近弾いていないので、ものすごく下手ですけど、それでも良ければ。」

そういって裕康は、桐たんすの引き出しを開けて、左手の中指と右手の人差し指に、白い菅のようなものを付け、一絃琴の前に座った。この楽には洋服より著のほうがふさわしくじられた。し考えて、両手を一つしかない絃に付け、左手中指の管で絃を抑え、右手人差し指の管で絃をはじいて何か弾き始めた。

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曲のタイトルも作曲者も全くわからない曲であったけれども、西洋音楽にはない、厳かさと靜けさは十分じられて、引き込まれる要素は十分持っている。

かなり長い曲であったが、飽きさせることは全くなかった。むしろ、一本の絃だけでどうしてこんなにも表現力があるのだろうか。はじめのころは何ができるんだと心思っていたけれど、そんな気持ちはどこかへ消し飛んでいった。

弾き終わると、裕康は手拭いで顔を拭いた。正代は思いっきり拍手をした。

「あ、ありがとうございます。久しぶりに弾いたので、かなり間違いをしてしまいましたが、何とかできました。」

「なんていう曲なんですか。」

「ああ、六段の調べですよ。箏曲の寫しです。」

そんな曲、存在すら知らなかったが、とにかくよいものであることは間違いなかった。何も知らないのがかえって恥ずかしい気がした。

「本當に、すみませんね。間違えてばっかりで、、、。」

「いえ、そんなことないです!私が、弾くのよりずっとかっこいいです!」

「じゃあ、これ、できます?」

急に裕康がそういって、ある曲の最初の部分を弾いた。タイトルはすぐにわかった。正代はそばに置いてあった、マンドセロのケースを急いで開けて、楽を取り出し、演奏用のピックを手に取った。

「お願いします。」

「はい。じゃあ、最初から行きます。」

裕康が冒頭部分からもう一度弾いたので、正代はそれに乗って、旋律部分を奏した。一般的に言って、合わない組み合わせと思われるが、意外にそうでもなかった。二人は、どこかの宇宙船に乗って、宇宙を放浪しているような気持で、サンサーンスの「白鳥」を奏でた。弾き終わって地球に生還した時は、なんとも言えない名殘惜しさがあった。

「なかなかうまいじゃないですか。」

今度は正代のほうが涙を流す番だ。この名殘惜しさというか、この楽しさを、すべて手放さなければならないのか。やっぱりそれだけはどうしてもイヤだ!

「私、、、。」

「はい。」

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「私、、、。」

「他言はしませんので、言ってしまったらどうですか。」

裕康が助け舟を出してくれたので、よし、この際だからと決斷し、一気にこういった。

「私、東大生にはなりたくありません!このままこの楽と一緒に音楽を続けてまだまだ音楽の事を勉強していきたいと思うんです!そしていつかは演奏する楽しさとか音楽を共有する楽しさとかを伝授していけるような人になりたいんです!」

「いいじゃないですか。ぜひ、そうなってくださいよ。きっと、好きでもない勉強を東大なんかでやり続けても、何もに付きはしませんよ。それよりも、何でも好きなことを思いっきりやったほうが道は開けますよ。なんでもそうだけど、若い時に充実させておかないと、そのあとの後悔というは、本當にいつまでたっても消すことはできませんので。」

「でも、無理なんですよね。もう。だって私、親にも、學校の先生にも、東大へ行かなきゃだめとさんざん言われてきてるから、今更変更なんて、、、。」

「いや、どうなんですかね。なくともご両親は応援してくれるんじゃないですか。もしかしたら、本當にやりたいことを主張してくれるのを待っているかもしれませんよ。その証拠というと変ですけど、マンドセロを破棄しろと言われたことはないでしょう。」

正代はその言葉を聞いてはっとした。

「僕も、おんなじだったんです。行きたくもないのに東大へ行って、その上の上級學校まで行かされて、毎日毎日いくら泣いても足りないくらい泣かされて、もう、悲慘な生活そのものでした。あんなひどい目にはもうあいたくありません。東大というところは、ある意味では水戸黃門の印籠と同じ効果があるので、それを求めてを削って皆さん行きたがるんですけど、その渦中にどういう事を被るかを周りの人は誰も気が付かないし、信じようともしないからおかしくなるんです。本當に、東大というところはね、本人でも家族でも、一人でも反対者が出たら行くべきところではない。もっともっと、ご自の気持ちを考えてあげてくださいね。」

その裕康の発言は、正代の決斷を決定させた。

「ありがとうございます!あたし、もう意思を曲げないことにしました。これからは、自分の気持ちを大切にして生きていくことにします!」

「ええ、そうしてくださいね。なくともそうしたほうが、充実した人生を送れますよ。」

「はい!今日のことは、一生忘れないようにしますから!」

「大事なのは、ご自で気が付いたことの方なので、僕に謝する必要はございません。ただ、お願いがあるんですが、くれぐれも他言はしないでください。」

「わかりました!」

しっかり頷いて、正代は言った。

「今日はあたしにとって、一番大事な日になったかもしれないので。」

「僕も、正代さんが若い人らしくなってくれて、うれしかったですよ。」

裕康も、顔を拭きながら苦笑いした。

いつの間にか、友蔵が部屋にってきて、正代のマンドセロのケースのそばに座っていた。

翌日。正代が、いつも通り授業をけに學校にやってくると、恵子が下足箱のところで待っていた。

実は恵子も今日こそはと意気込んでいた。今日こそ正代の首を縦に振らせる。そうしなければ、もしかしたらという雰囲気が職員室のなかにある。彼を何とかして、東大進學にもっていかせないと、もしかしたら強手段に出るという。幸い校長が反対してくれて強手段は中止されたが、いつまでも平穏というわけにもいかない。すぐにまた反発が飛び出してくるだろう。

「おはようございます。」

正代は、いつも通り稽古に挨拶した。なぜかいつもより顔が桜っぽいな?と恵子は思った。

「正代さん。考えてくれた?」

恵子は、自分ではそのつもりはなかったが、しばかりしかりつけるような口調になっていた。

「恵子先生。私、東京大學は験しません。」

正代も、喧嘩を買うようにいう。

「どういう、こと?」

「だから言ったでしょ。私は、東京大學には行きませんから。昨日家族にも話しました。家族は、本來であればそうしたほうがいいと言ってくれたので、私はそうすることにしました。」

そう言って、彼は恵子を押しのけて下足箱に靴をれ、上履きに履き替えた。

「もう、この學校も単位さえとれればそれでいいことにしました。私は、マンドセロの勉強に行きます。今日は、授業が終わったら、父に音楽大學の先生のところへ連れて行ってもらう予定です。」

「ちょっと待ちなさい!」

なぜか、裏切られた気分がして、恵子は言った。

「私の許可もないのに?」

「許可もないのにって、先生が私の事を決めるわけではないでしょう?」

「なんで、私には何も相談しなかったの?どこで決斷したの?」

「ええ、昨日、公園でマンドセロを練習していて、そう思いついたのです。」

「誰が決めたの?」

「私が決めました。それではいけませんか?」

まあ確かに最終決定権は本人にあるが、彼の決定権を作ったのは、決して彼一人ではないなというのは恵子も察することができた。

「恵子先生、早く教室にらないと、授業が始まってしまいます。」

「いいえ、まだ、15分あるからもうし待ちなさい!正代さん、今の話、自分で決めたわけじゃないのよね。誰が決めたの?お父様かお母様?」

「だから私、言いましたよね。私が決めたって。」

「噓はだめよ!あなたが、そういう決斷力があったとは、どうしても思えないんだけどな。先生は。誰かが、そうしろといったんでしょう?」

「いいえ、私が決めたことです!」

「あなたにそんな能力なんて、あるわけが、、、。」

と、言いかけて恵子は黙った。そういう言葉は、生徒に対して口にしてはいけないと、校長から厳しく注意されている。他にも止されている言葉はたくさんある。それのせいで愚癡ばかりらす教師も多いのだが、厳しい処分が下されることが多い。

「恵子先生が、そのような口の利き方してはいけませんなあ。だめですよ。」

通りかかった男子生徒が、恵子をからかうようにいった。恵子は、頭がカッと熱くなって、思わず怒鳴りたくなったが、それをするのはやめようと必死でこらえていた。

「恵子先生。もう時間ないので、教室にらせてください。」

正代は、そういって教室のほうへ行ってしまった。

まるでやいほいと逃げていく悪賢い狐の様に、恵子には見えてしまった。

恵子は、頭を金づちで毆られたような気持ちで、職員室に戻った。

「先生、どうでしたか?篠田正代、なんて返事をしましたかね。」

比較的彼に年の近い男教師が、恵子に聲をかけた。

「それが、」

「それが何でしょうか。」

「篠田正代さんは、東京大學を験する気はないそうです。」

恵子は、それだけ言うのがやっとだった。

「ああ、そうですか。それは殘念ですね。まあ、それをしてくれれば、うちの高校も生徒が増えてくれると思ったんですけどね。」

その教師はそういってくれたがすぐに隣の席に座っていた、中年男教師が彼に聲を掛けた。

「それは違うよ、君。確かに進學率で學校を売りものにすることも必要だが、それは、大変な人権侵害でもある。生徒が、行きたいと心から思っているのなら別だが、私たちが名譽を上げるために生徒を使ってはいけない。生徒は、人間であって道ではないのだからね。」

「さすが、元大學教授の先生ですね。僕は、そういうことは気が付きませんでしたよ。これから、そうならないように気を付けます。」

「まあ、確かに君は、もともと予備校で教えていたそうだが、予備校とこういう學校は違うんだということを早く理解しなさいよ。」

恵子は一瞬、支援學校の進學率が低いというのは、こういう階級の教師が存在するということも、裏事としてあると思った。それなのに、生徒の不満がないのも、その教師のせいだろう。

「まあ、いいじゃないですか。東大に行きたがる生徒が出たら、その子に一生懸命指導してやれば。」

と、初めの男教師が言った。

「そうそう。多求不満になるかもしれないが、我慢してくれよ。そういう學校ではないんだからね。」

「はい、わかりました。頭の中に叩き込んでおきます!もともと僕は予備校の指導なんかできないんですから、早くこの高校にもなれないと!」

「ははは。若い人は良いね。そうやって何でも明るく解決ができるんだからね。まあ、これからも、生徒たちが自分に自信をもってくれるようになることに、力を注ごう。」

二人の男教師はそんなことを言っていたが、恵子は二人のようにすぐに納得する気にはなれなかった。それよりも、今まで篠田正代を一生懸命説得しようと、努力してきたのが、全部水の泡になったのが悔しかった。正代を説得するための文書を作するのだって、どれだけ時間をかけて考えてきただろうか?それだけでも、本當に悔しかったから、すぐに切り替えることなど、できるはずがない。

何よりひどいと思ったのは、恵子のことをめてくれたほかの教師は一人もいなかったことである。ほかの教師たちは、このことが知れ渡っても、ああそうですか程度しか言わないで、すぐに日常生活に戻ってしまったのだ。皆、恵子に正代をしっかり説得してくれと、頼み込んできたのではなかったか?それなのに、結果が出てしまうと、説得できなくても、次があるよとか、今回はごめんとか、そういう言葉をくれる人は誰もなかった。そのような教師たちを見て、生徒にはあれだけ優しいのに、教師同士では、平気でひどいことをするのかと、失した気持ちになった。

そんなある日のことだった。年に數回ある単位認定試験が終了し、生徒の績が數字化される、通信簿作りが行われる季節になっていた。

「恵子先生、ちょっと校長室に來てくれます?」

急に校長が職員室にやってきて、恵子に言った。恵子は何事だと思いながら、校長室にった。すると、一人のが校長室に來ている。この高校に在籍している、石井凜子の母親だった。

「何ですか、校長先生。それに、石井さんのお母さんまで、、、。」

「石井さん、もう一度今のことをおっしゃってみてください。」

校長の顔は厳しかった。

「はい。先生が見えたので、もう一度言います。なぜ、うちの凜子が育の績を10點以上も落とさなければならなかったのですか?」

と、凜子の母は言う。

「え、ええ。先日行いました、保健育の試験の績があまり良くなかったからです。」

恵子は、理由をしっかり話した。

「そんなことないですよ。だって、凜子の話では、回答用紙に間違った答えを書いた覚えはないというのですよ。それなのになぜ、罰が付いているのか、理由を聞かせてほしいと凜子は言っていました。それに、凜子が、あまりに授業態度が悪かったとも、私はとても思えないのですが?」

母親はそういう。でも自分が採點した保健育の試験用紙は、間違えてばかりであったことを記憶していた。

「どうですか、先生。彼育の授業でも、そんなに態度が悪かったのですか?點數だけで評価してはいけませんよ。」

校長が重ねて聞いた。確かに授業を怠けるという生徒は、全日制に比べるとないし、凜子は、怠けるような生徒ではない。

「うちの子は、先生の目から見ると、そんなに悪い生徒なんでしょうか?」」

「い、いやあ、授業態度が悪いというわけではないのですが、試験で點數が取れなかったということはやっぱり、、、。」

「ちょっと待ってくださいよ!しっかりやっているのですか?だってうちの子は、間違った答えをそんなに書いた覚えはないと言っているのです!」

「じゃあ、彼が私のところへ申しれるべきですよ。でも凜子さんは、私に採點を間違えているとはいいませんでしたよ!」

「恵子先生。ここにきている生徒は、繊細な子も多いですし、対人恐怖癥に罹患している生徒もいるじゃありませんか。そのような生徒の中には、先生に質問に行くことは至難の業であることも、なくないですよ。お母さん、回答用紙を持って來ていただけましたか?」

校長のいう言を聞いて、恵子ははっとした。そうだ。そういう生徒もいる。中にはほかの生徒や先生を怖がって狹い個室で勉強している生徒もいた。

「でも凜子さんはそのような診斷書はないはずでは?」

「口では言えませんが、別の病名で診斷書を出したんですけど、忘れてるんですか?それに神疾患であれば、人が怖くて質問にいけないと訴えて當り前くらいうちの教師は全員考えていると、私は學前に、校長先生から伺いましたけど、そうではないのですか?」

「ああ、申し訳ございません!信頼して凜子さんをこちらへ預けていらっしゃるのに、裏切るような真似をしてしまい、、、。」

校長は頭を下げている。恵子も、形式的に頭を下げたが、こんな些細なことで頭を下げることは、全日制ではまずありえない話だ。

「とにかく、回答用紙をお渡ししますから、しっかりと真偽を確かめてください!」

凜子の母親は、回答用紙がった茶封筒を恵子に渡した。

「わかりました。たぶん採點ミスはないと思いますけど、明日もう一度來て下さい!」

恵子は強気のまま、それをけ取った。

「はい、明日の同じ時間に來ますから、それまでに必ず確かめてくださいね!では、失禮します!」

凜子の母親は、軽く一禮して、校長室を出て行った。恵子も、早く真偽を確かめたくて、その封筒をもって、校長にあいさつし、校長室を出た。

校長室から出ると、廊下の窓から冷たい風が恵子の顔に當たった。これでは、砂ぼこりが舞って、育の授業はできないとわかった。

「怖いもんか!私確かめてやる!」

恵子は職員室にり、自の機に向かった。怒りに任せて茶封筒をどしんと置いた。その音は、隣の教師がびっくりして、やめてくれといったくらい大きかった。

すぐに封を切って、回答用紙を取り出した。丁寧な字で、石井凜子の名前が出てきた。とても授業を怠ける生徒の文字とは思えないほど上手な字だった。その隣に、恵子が赤鉛筆で記した、53點が書かれていたが、こちらのほうがよほど下手なような気がした。

急いで、引き出しから模範解答を取り出し、その解答用紙と比べてみる。

「あれ!」

確かに罰が付いているが、回答用紙に書かれた答えは、別にどれも間違ってはいない。慌ててすべての回答を照らし合わせてみると、間違えているのは100點満點中20點以で、ほかの答えはすべて正解であることが分かった。つまり、正式な凜子の點數は83點であったのだ。それなのになんでこんなに罰をつけてしまったんだ?でも、これは確かに私の字、、、。

恵子はがっくりと落ち込んだ。

そのまま、恵子は校長に報告に行った。校長は、激怒するというよりあきれていた。教師が、そのような採點ミスをしてどうするんだ、生徒が、これからの將來を決めていく、大事な點數なんだから、おろそかにしたとは何事だと恵子をしかりつけた。翌日、凜子の母がやってきたので、恵子は自分の採點ミスを認め、手をついて謝罪した。校長が、凜子さんはどうしているのかと聞くと、先生が、自分を裏切ったので、そのショックで學校に行くことができなくなっているから、しばらく休ませますという返事が來た。まあ、こういう學校だから、休學という処置をとることも珍しいことではないのだが、それでも生徒が一人減ってしまうことにつながるので、校長は殘念そうだった。母親が、學校について思いっきり罵倒して帰っていくと、恵子は校長から、その責任を取って、一週間の職員室にて謹慎を命じられた。

一方、そのようなことがあったとは知らない裕康は、今日もを続けていたが、時折針を置いて、左手でを押さえてせき込みながら、うずくまる仕草をすることが多くなった。その都度、立ち直って仕事を再開しているが、それも以前のように長続きはしなくなっていった。隣に座っていた友蔵が、心配そうに彼の顔や手をなめていた。

さらに數日後、二度目の子相撲大會が行われた。

千秋楽出場が決まった時は、わけのわからないうちに勝ってしまったというのが正直な気持ちだ。自分より、さらに大きなの橫綱を目の前にして、絶対に勝てるはずはない、千秋楽に出られたんだからそれでいい、橫綱に、あんまり簡単に投げ飛ばされると恥ずかしいな、、、。房恵はその程度の気持ちしかなかったのだ。行事さんの「はっけよい、のこった!」の聲のあと、橫綱に頭からぶつかっていったときは無我夢中だった。気が付いたときは、わあっという歓聲が響き渡っていて、橫綱のは、土俵の外に出ていたのだった。

いわゆる、平幕優勝だったのである。

はなかったけれど、賞狀をもらった時初めて優勝したんだなあ、という気がした。

の両親もこの一番を見てくれて、お祝いだと言ってごちそうまで作ってくれた。房恵は、家に帰ると、ローストチキンを一羽分平らげて、両親にしっかりお禮を言い、これからもさらに相撲に勵んで強くなると言って、自室にもどった。

自室の機の上には、平幕優勝記念の盾と、賞狀がおいてある。それを見て、自分はこんなに強くなれたのかあと、驚かざるを得なかった。

不意に、これを始めるきっかけを作ってくれた人に、禮を言いたくなった。綱取りになってからでいいのではないかと思っていたが、もっと早くしたいと思った。そういえば、あの人は、どこか悪そうに見えた。いい病院でも探してやれば、喜ぶかもしれない。

翌日、房恵は放課後に保健室に行って、鈴木多恵子先生に、彼のことを話してみた。

「いったい、どこがお悪いんでしょうね。都心に行けば、何か適した病院が見つかるのではないかと思いますけど、、、。」

「そうかそうか。それなら、國立のがんセンターとか紹介したらいいかもよ。」

鈴木先生の口調は明るいが、がんと聞いて房恵はびっくりした。

「國立がんセンター?」

「そう。もう力有りそうなら靜岡のがんセンター。たぶん肺がんではないのかなあ。たぶんね、そのくらい進んじゃうと、かなりステージいっていると思うから、靜岡のほうが確実かもしれない。」

「ええっ、そんな馬鹿な!だって煙草を吸うような雰囲気でもないし、あ、まって、確か生まれつきだと言っていて、、、。」

「それ本當?」

鈴木先生が、そう尋ねてきた。

「ええ。そういってました。」

房恵は、しっかりといった。

「生まれつきかあ。そうなると、肺嚢胞とかそういうものかな。それとも、本當にまれなケースだけど、肺分畫とかかかなあ。肺の中に異常な空間のできるものなんだけどね。」

「肺分畫とはなんですか、先生。」

初めて聞く名前である。肺嚢胞ならなんとなく聞いたことがあるが。

「あ、あのねえ、つまり、一言でいってしまえば、正常な肺は左右合わせて二つだけど、肺分畫だと三つ以上肺組織があるのよ。しかもそれにもちゃんと管があって、一応使えるから困るんだけど。」

「そうなるとどうなるのですか?」

「だから、余分なほうが正常なほうを圧迫して、苦しくなるわけ。肺は固定されているわけだから、正常なほうがだんだん押し上げられて行って、しまいには破れて空気がれたりする。これを気というんだけどね。それ自は、大したことはないともいわれるけど、、、。」

「じゃあ、あまり大変な異常ではないんですか?」

「いや、そうとも言い切れないのよ、ふうちゃん。余分なほうがあまりにも巨大化して、正常なほうが、はみ出そうになっちゃったら、肺というのは、はみ出ることはできないわけだから、発するしかないでしょう。発を、といってね、そうなると、死に至る可能だってあるのよ。」

「そうなんですか!じゃあ、何とかして、助かるようにするには、、、。」

「まあ、余分なところをとる手しかないけれど、東大病院の先生によると、非常に実行例はないし、難しいみたいだからね、、、。」

聞くべきではなかった。

なんでこんなことを聞いてしまったのかと思った。

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