と壁と》第十五章 最期

第十五章 最期

「しっかりしてくれよ。二、三時間くらい頑張れば、お前が本當に帰りたいところに著くからな。」

「ええ、何かあったら、あたしが見てるから、とにかく急いで運転を続けて。」

鈴木先生が、強く言ってくれたのが心強かった。

「サービスエリアとか、近づいてきたら、聲かけるからな。休みたくなったらすぐ言えよ。」

「はい。」

弱弱しく返事が聞こえたので、運転席の富子は、スピードアップさせて首都圏中央連絡自車道の日之出インターにはいった。

「とりあえず、最短ルートの首都圏中央連絡自車道と、國道四號を使うルートで行くけど、かなり飛ばすから、気を付けてね。どうか、渋滯しないといいんだけど。」

「こればかりは予測できないからね。とにかく行きましょう。」

黒いエスティマが、日之出料金所を通り抜けた。

「よし、検問突破だ。とにかく第一関門は突破したことになる。急げ、とにかく行こう。」

本當は、後部座席をフラットモードにして走るのは通違反である。でも、そうしなければ裕康を運ぶことができないことが判明し、口論した上にこうして走ることにしたのだ。ETCであれば、料金所も人はいないし、もし誰かに聞かれたら、布かなんかをかぶせて、箏とか釣り竿とかそういうものだと言ってごまかし、逃げ切ってしまうことにした。裕康の肩幅は、十七絃とほぼ変わらないし、それに、裕康はマンションを出ようとして、數歩歩いただけで止まってしまったので、こうして運んでいくことにしたのである。こうなると未年者をアウトローにさせてはいけないということになり、房恵は同行しなかった。

友蔵は、房恵の家族に預かってもらった。

幸い、高速道路は混雑していなかった。富子が、とにかく追い越し車線をひたすら運転して、貓に追いかけられるネズミのように車を飛ばし、とりあえず五霞インターを出て、五霞料金所から出られたときは、ルイも富子も鈴木先生も、大きなため息をついた。

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そのあとは春日部古河バイパス(國道四號)である。ここでは高速道路程スピードは出せないが、とにかく許されている最大限のスピードを出して黒いエスティマは道路を走って行った。國道四號線から県道264號線方面へ出る出口を出て、その延長上の264號線にり、やがて結城市の標識が見えてきたとき、裕康がせきこんだ。鈴木先生が隣で背中をたたいたりしてくれたが、どうしても止められず、コンビニの駐車場で道草を食った。鈴木先生が用意していた丸薬で、なんとか治まったが、この道草は40分近く要した。

再び走り出して數十分後。

「ついたわよ!」

と、富子の聲と同時に黒いエスティマは止まった。後部座席のドアがガラガラと開いた。

「ま、まぶし、、、。」

なぜかその日は、秋らしくない晴れ方だった。

「おい、著いたぞ。シート、ばれないうちに戻すからお前は先に出ろ。」

裕康は立とうとしても立てなかった。

「もう、仕方ないんだから!ほら、乗れ。」

ルイは、裕康を自分の背に背負った。

「ど、ど、どこ、、、?」

「お前が帰りたいと言っていた結城市!ここはもうそこなんだ。」

正確には、結城市のとある有料駐車場の中だったのである。

「ここ、、、?」

「そうだよ。」

周りは、すっかり変わっていた。商店街だったところは、いつの間にか変な名前の百貨店になっている。

「じゃあ、しばらく歩くぜ。」

三人は、地図を頼りに歩いた。しばらく行くと、ホームセンターの前を通過した。

そこに丁度大通りがあった。そこから住宅街が広がっていた。

「川ちゃん。」

不意に裕康が言った。

「何!」

「駅が見える。」

確かにその大通りを直進していくと結城駅にたどり著くことになっている。

「當り前だい。駅は駅のまま、いつまでもあそこに立ってるさ。そういうもんじゃないか。」

「そうなんだね。」

なぜ、こんなことを発言したのか、だれも理由がわからなかったが、なぜかこの、駅が見えるという言葉が頭に殘った。

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「もうちょっとだから頑張ってくれよ。あとしで、天川店長にも會えるからな。そうしたら、お前はゆっくり休め。」

店の前の道は狹くて、エスティマがれなかったのである。それだけの理由である。しかし、この道路を歩いているのが、なぜか野麥峠でも歩いているようにじられた。

「おい、見えたぞ。わかる?」

前方に「紬の天川」の看板が見えてきた。それだけが昔としも変わっていなかった。

「帰ってきたんだ、、、。」

「そんな年よりみたいなセリフ、言わないでよ。その発言するのなら、10年早いわ。」

富子は苛立っているらしい。鈴木先生も心配そうだ。さらにもうしばらく歩いていくと、紬の天川の看板が真正面に來た。

何人かの人の聲が聞こえてきて、天川店長は、店の引き戸を開けた。裕康が、ただいまと言ってってくると思ったのだ。

「よう、おかえり!」

天川店長は、明るく言ったが、見る見るうちに顔が変わった。

「おい、おかえりと言っている。返事位しろよ。」

「いや、いい。結城ちゃん、ではないか、ど、どうしてそんなに、」

「立てる!」

ルイがちょっと語勢を強くして言った。

「立てるなら立ってみろ!もう、甘えないで!」

「あんまりきつい言い方すると、かわいそうよ。とりあえずおろしてあげてよ。」

真紀子おばさんがなだめるように言った。

「しっかり立ってね!」

とりあえず店の中にって、売り臺の前に慎重におろしたが、立つどころか、へなへなと座り込んでしまった。

「あ、あたし布団敷きなおしてくるよ。布団を敷いておいてくれと言われたから、二階の空き部屋でいいかとも思ったんだけど、これじゃあ、二階にも上がれないから。」

真紀子おばさんは、そういって住居部分にっていった。きっとここまでとは予測していなかったのだろう。天川さんも困った顔をしている。

裕康は、座り込んでいたが周りを見る余裕はあったらしく、

「店も変わりましたね。」

とだけ言った。

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「まあな。君がここを離れてもうかなり経ってるじゃないか。ちなみに、君がったものは、ほぼ全部売れてしまったよ。」

紬の天川は、店のレイアウトが大幅に変わっていた。容も紬ばかりではなく、訪問著とか、小紋とか、いろんな種類の著がところ狹しと置かれている。

「古いものにこだわっていたら、何も売れないからねえ。」

「そうですか、いつの間にやら、皆変わってしまったんですか。」

裕康はちょっと悲しそうに言った。

「僕だけが、何も変わらなかったんですね。」

「いや、変わったのはそっちだよ。人をだましておきながら、そんなセリフが言えるか。全く、なんかしてないで、こっちに目を向けてほしいよな。」

再び、富子がルイのをつねった。

「結城ちゃん、あ、違うのか。布団ができたよ。」

真紀子おばさんが、戻ってきた。

「おばさんの部屋を貸してあげるから、橫になりな。二階はさすがにきついでしょ。」

足の悪くなっていた真紀子おばさんは、一階で寢起きするようになっていたのだった。

「でも真紀子、お前はどうするんだ。」

「いいよ、あたしは何とかするから。最悪、臺所で寢てもいいわ。」

なんだかおばさんのほうが、強くなっていた。

「じゃあ行くか。じゃあ、もう一度聞くけど立てる?」

裕康は売り臺につかまって立とうと試みたが、失敗し、売り臺に乗っていた著がばらばらと落ちた。

「しっかりしろ、しっかり!」

「もう一度頑張って!」

裕康はもう一度立とうとしたが、二度目も失敗した。

「もう一回背負ってあげて。」

「はいよ。」

天川さんの指示でルイが裕康をまた背負った。

「どこへ連れていけばいいですかね、おばさん。」

「こちらです。」

おばさんの後について、ルイは居住部分にっていった。富子も心配な顔をして中にっていく。

「それにしても、どうして東京で生活していた間に、あそこまで悪くなってしまったのだろうか?」

天川さんは、頭をひねって考えている。

「あの、すみません。」

鈴木先生が、天川さんに聞いた。

「私、こういうものですが、」

鈴木先生は、名刺を一枚渡した。そして、天川さんと一緒に何か深刻な話をし始めた。その會話は、一時間近くかかった。

その間に、真紀子おばさんは、裕康たちを部屋に案した。

「まあ、化粧品のにおいが充満してるけどごめんね。」

おばさんはそういったが、それほどでもなさそうだった。

ルイは、裕康を布団の上におろした。裕康は座っている力もないらしく、布団に倒れこむように橫になった。

「あったかい布団じゃないけどさ、とりあえず、橫になって頂戴。こんない布団しか用意できなくて、申し訳ないね。」

「いえ、かまいません。普段はもっといですから。」

裕康はここまで來て、初めてほほ笑んだ。

「こればっかりは、本當だな。」

ルイのこの言葉の通り、久しぶりにらかい布団に寢ることができてうれしいのだろう。裕康は大きなため息をついた。

「まあ、ゆっくり休んで頂戴ね。」

おばさんはそれだけしか言えないようだった。

「はい、ありがとうございます。」

裕康はそれだけ言って、やっと安心した表になり、もう一度ため息をついて、うとうとし始めた。

「そうですか。そうなっていたんですか。」

鈴木先生は、腕組みをした。

「そうなんです。いつか必ずああなるとは頭にっていましたが、もっと遅くなってからと思ってました。まさかこの年で、あの有様を見ることになるとは。」

天川さんは別の意味でため息をついた。

「しかし、どうしてそのまま放置していたんです?彼のご両親は何もしなかったんですか?」

「まあ、本當によく聞かれるんですけどね、、、。その辺は本人の話ですと、父親と確執があって、できなかったと聞いています。」

「そうですけどね。誰でも自分の子供であれば、何とかしてやろうとか、そういう気持ちになるのではないでしょうか。それなのに、なんでああなるまで放置したんですかね。」

「私もわかりません。もしかしたら、経済的に不利だったのかもしれませんな。何しろ、東大病院でも年に一度あるかないかしか癥例が見つからないと聞きました。」

「そうかもしれませんが、彼を雇ったときに、健康診斷させるとか、何かしたでしょうに。なくとも、雇用契約を結ぶときはそういう事をするものでしょう。それに、雇用主として、雇う前に手をして出直して來いとか、そういう事を言って當たり前だと思うんですけどね。」

「すみません。確かにこちらも、職人が本當に必要だったので、そういう事をほとんどしないで彼を雇ってしまったことは、間違いでした。こちらも、とにかく人が足りなかったのと、本當に優秀な職人でもありましたので、知らず知らずのうちに彼に頼りすぎたのもまた事実であり、私も、雇用主としては失格だったかもしれません、、、。」

「まあ、そんなことを言っても仕方ありません。それより、今後の事を考えないと。このままですと、本當に最悪の事態に陥りますよ。それだけは、何かしてでも避けないといけませんから。」

「そうですなあ、、、。しかしこの結城市には、彼を専門的にみてくれるところなど、果たしてあるでしょうかね。たぶんもう一度、東京まで行かないと、、、。そのような力は果たしてあるでしょうか。」

「そんな悠長なことは言えませんよ。力のあるなし関わらず、東大病院のような権威のある所へ行かせないと、いけないんじゃないですか。」

「そうですね。わかりました。私の責任です。數日後に彼をどこか有名な病院に行きましょう。」

「ええ、そうしてください。このままですと、分畫した肺が力を失わせるばかりで、彼の衰弱を早めることになります。もし、日付が決まったら、私も一緒にいきますから、電話をくださいませ。」

「でも、先生はお仕事が。」

「このまま、放置しておくわけにはいきません。それに、車をフラットシートにしたまま高速を走るなんて、こんな法律違反はしたくありませんから、次はちゃんとした介護業者を連れてまいります。」

鈴木先生は、いつの間にか醫療従事者の顔になっている。

「では、日付が決まり次第連絡しますので。」

「わかりました。私は、仕事があるので、一先ず帰ります。ここから、タクシーはよんで頂けますか?結城駅まで送っていただけないかしら。」

「ああ、そういうことなら、富子さんに、小山駅まで送るようにさせますよ。レンタカーも返さないといけないですし。」

「わかりました。ありがとうございます。」

天川さんは、軽くため息をついて、富子を呼びに行った。鈴木先生は、富子の運転するレンタカーで、小山駅へ向かい、東京に帰っていった。小山駅に鈴木先生を送り屆けると、ルイと富子もとりあえずは、自宅に帰っていった。

天川店長が住居部分に戻ると、臺所で真紀子おばさんが夕食を作っていた。

「裕康君は?」

「ああ、気持ちがいいみたいで、よく眠ってます。」

真紀子おばさんの顔は悲しそうだった。

「久しぶりに眠れたんだろう。」

「そうかもしれないわね。布団がらかいと言って、すごく喜んでいましたよ。」

「なんだか、責任をじないわけでもないな。」

店長は、めずらしく肩を落とした。

「でも、恵子ちゃんたちはどうしているのかしらね。誰にも相談しなかったのかしら。福生には、良い病院もなかったのかしら。」

「きっとよくなかったんだよ。」

「そうかもしれないわね。」

店長と真紀子おばさんは顔を見合わせた。

「とにかく、恵子ちゃんとうまくいかなかったのだろう。昔であれば、仲人とかそういう人がいて、すぐに相談に乗ってくれる環境もあったが、今はそうではないからね。」

「かわいそうだわ。」

「そうだね。それは確かにそうだ。でも、恵子ちゃんみたいな人には、本當に難しい相手だったんじゃないのかな。」

「そうね。でも、そのせいで、犠牲になっちゃうのもまた悲しいことだわね。」

おばさんは、涙をポロリと流した。

「とにかく、あいつを何とかして一日でも長くこっちに居てもらうようにしよう。さっき鈴木先生も言っていたけど、本當は東大病院とかそういうちゃんとした醫療設備があるところへ連れて行ったほうがいいんだよ。しばらくここに居させて、力がある程度回復したら、もう一度東京に連れて行って、もっと権威がある病院に行かせたほうがいい。」

「それはどうかしらね。たぶん、ここから離れることは嫌がると思うわよ。きっとここへ帰ってくることを本當にんでいただろうし。」

「しかし、ここには醫療設備は何もない。市民病院では、れてもらえないと思うし。」

「確かにそうかもしれないわね。今は昔と違って、往診に來てくれる醫者もいないしね。」

「筑波大學の付屬とかはどうだろうか。」

「國立はやめたほうがいいわ。東大いっていたのをすごく嫌っていたんだから。とにかくね、あたしは東京のごちゃごちゃしているところへ戻すのは反対。」

「でも、そこへ行ってよくしてもらえるのなら、」

「たぶん、そういう事はもうないんじゃないのかな、、、。」

真紀子おばさんは、慨深く言った。

「そ、そうだな。」

天川さんの口ぶりは、同意しているのかしていないのかよくわからなかった。

と、同時にキッチンタイマーがなった。

「ちょっと待ってて。あたし、ご飯食べさせてくるよ。」

真紀子おばさんは、タイマーを止め、ガスコンロの火を消した。

「いったい何を作った?」

「ああ、彼の好きだったお芋の甘煮。」

裕康が特定の食べを好んだということは見たことがなく、基本的に何でも食べていたが、確かにサツマイモをうまそうに食べていたことは、天川さんも記憶していた。

「そういえばそうだった。芋は詰まるからな、なるべく小さく切れよ。」

「わかってるわよ、そんなこと。」

真紀子おばさんは、鍋の蓋を開けて、サツマイモの甘煮を深鉢型の皿に盛り付け、それをお盆の上に乗せた。

「じゃあ、あげてくるから、しばらく待ってて。」

お盆をもって、真紀子おばさんは部屋へ行った。その姿は気丈で、足が悪いとはじさせなかった。

おばさんが、ふすまを開けると、裕康は気持ちよさそうに眠っていた。

「ご飯できたけど食べる?」

聲をかけると、うっすらと目を開けた。

「ほら、大好きなお芋の甘煮。ちょっとこだわって、はちみつで煮てみた。」

「そこにおいといて、、、。」

弱弱しく返事が聞こえてきた。

「いいよ、無理して起きなくても。あたしが手伝うよ。」

おばさんは、お盆を枕元に置いて、手早く枕の上にビニールの風呂敷を乗せた。そして、割りばしを割って、小さく切りにした芋をつかむと、

「ほら、食べな。というか、食べて頂戴。」

と、気丈な口調で口元へもっていった。裕康はそれを口でけ取った。もしかしたらと思い、吸い飲みも用意していたが、それは使用せず、一人で芋を飲み込んだ。

「なんだ、食べられるじゃない。じゃあ、もう一個。頑張って。」

もう一度芋を口元へもっていくと、エサに食いつく金魚みたいにそれをけ取った。このときも吸い飲みは使用しないで飲み込むことに功し、

「おいしい。」

と、一言口を継いで出たので、真紀子おばさんもし安心した。

「よかった。食べられるのなら大丈夫。食べられたら食べて元気つけなきゃね。もう一個。」

また芋を口元へもっていくと、おいしそうに食べてくれた。

それを、七回か八回ほど繰り返し、皿の中の芋は全部なくなった。最後に吸い飲みにった緑茶を差し出すと、ニ三回に分けてそれを飲みほした。

「あ、よかった。食だけはあるのね。」

本當はもうだめかと思っていたが、これだけでも希は持てるかもしれなかった。

「ほんとは、ドクダミのほうが好きだったよね、緑茶よりも。」

不意にそんなことを思い出した。

「ええ、まあ、そうです。でも緑茶でも十分です。」

口調こそ弱弱しいが、自の嗜好品についてそう言えるのであれば、まだ何とかなるかもしれない。

「わかったよ。明日、買いに行ってきてあげるから、もうしばらく辛抱して頂戴ね。あと、明日店長から、ちょっと話があると思うから、その時はちょっと頑張ってね。」

「あ、わかりました。本當に今回はすみませんでした。ほんとに何から何までやっていただいて。」

「いいのよ、謝らなくても。とにかく、まだ若いんだし、もうちょっと頑張らなくちゃ。」

「そうですね。」

裕康は、三度ため息をついた。

「じゃあ、おばさん戻るけど、とりあえずは、よく休んで頂戴ね。」

「わかりました。本當にすみません。」

「すみませんじゃないでしょう。そういう悪い癖はどこへいっても治らないのね。それを言うならありがとうでしょ。」

「ありがとう、、、ございます。」

その一言がやけに重々しかった。というより、何か特別なことが隠されていそうなしゃべり方だった。真紀子おばさんは、それを無視して、枕からビニール風呂敷をとると、

「今日はもう休んでいいから、明日また話しましょ。」

と言って、布団を整えてやり、盆と風呂敷を持って、部屋を出て行った。

完食された皿を見て、天川さんもし安心したようだ。もうしばらくたって、天川さんが部屋をのぞいてみると、裕康は安心したらしく、すやすやと眠っていたので、天川さんは、よかったと一言つぶやいて、そっとふすまを閉めた。

翌日。

澄んだ青空の広がるいい天気、と言っていた天気予報は大外れで、土砂降りの雨の朝となった。

天川さんが、朝食を食べに食堂へやってくると、臺所では真紀子おばさんが味噌を作っているところだった。

「やれやれ、土砂降りか。」

「家の中には関係ないわよ。」

「ま、そうなんだけど、ちょっと気分が落ち込むな。」

「あら、あなたがそういう事口にするなんて珍しい。ねえ、味噌くらいだったら、何とか食べるかしらね。」

「そうだなあ。昨日あれだけの芋を食べられたんだから、食べるんじゃないのか。」

「そうよねえ。じゃあ、ご飯と一緒に持っていくわ。いずれは、こっちに來て食べてもらうようにしたいわね。まだ、寢たきりにするのは、早すぎるというか若すぎるわよ。」

「うん。確かにそうだ。向こうへもっていくのは、今日か明日くらいまでにしておこう。食べられればそのうちに、立つこともできるだろう。ご飯食べたら、布団の上に居させるのではなく、ソファにでも座ってもらうようにするか。寢たままでは東京にも連れていかれないから。」

「そうね。そうしてもらわなきゃね。じゃあ、あたし、ご飯を持っていくわね。」

真紀子おばさんは、昨日のお盆にご飯の茶碗とみそのお椀、そして割りばしを乗せ、それを持って、部屋へ歩いて行った。

部屋へ歩ていく音と、ふすまを開ける音がした。そこまではいつも通りだった。そこまでは。

急にガチャン!と何かが落ちた音がして、わっと泣き出すの金切り聲。

「おい、どうしたんだお前!」

おじさんが慌てて部屋の中に飛び込むと、おばさんが亡骸に被さって泣いていた。

この訃報を聞いて、ルイは朝食など食べるのを忘れて紬の天川に飛び込んだ。富子も、その日の邦楽のレッスンをすべて取りやめにして、ずぶ濡れのままやってきた。改めてみた裕康のは、苦しそうな様子もどこにもなく、この上なく満足したような、そんな表だった。すぐに葬儀の事とか、埋葬の事について話し合いが行われた。特に參列すべきが結城市にいるわけでもなく、裕康が儀式的なものを大変に嫌う格であったことを考慮して、葬儀は一番簡素な直葬という形で行うことにした。しかし、その骨をどこへ埋葬するかに関しては、激しい議論が起きた。生前、非常に仲の悪かった父親と同じ墓にれてしまうのは、あまりにもかわいそうだと、歐米人らしくルイは主張した。それなら散骨しようかという提案も出たが、それでは、あまりにも寂しすぎるし、散骨業者は悪質であることも多いという富子の意見で沒になった。納骨堂へれるというのも、戦災孤児と同等にするのは嫌だという真紀子おばさんの意見で沒。じゃあどうしたらいいんだと平行線の議論を続けていると、天川さんが知り合いの仏壇屋さんに電話して、檀家ではなく誰でもれてくれる寺院を見つけてくれた。これで一先ず一安心ということになって、

手っ取り早く段取りを組んで、翌日に直葬が行われた。納棺した葬儀屋さんは、の通常ではありえないほどの痩せ方と、その左腕に描かれた桐紋を見てかなり驚いていた。

裕康が逝ったという知らせは、鈴木先生を通して、房恵にも知らされた。房恵は、知らせをけた當日は、ご飯も食べられないほど泣いた。それをみて預けられた友蔵も、主人が亡くなったことを知ったのだろう。しばらくの間エサを食べなかった。しかし、友蔵と仲良くなっていたコロは、まるで自分がここにいると言いたげに友蔵のそばにずっといた。犬同士で會話が行われるのかどうかはわからないけれど、友蔵もそれに呼応したらしく、數日後にエサを一緒に食べるようになり、さらに公園で一緒に遊ぶようになった。犬は、をなめたり、ったりして直にふれあいができるものであるから、立ち直りが早いのであろうが、人間はそうはいかない。房恵はいつまでも落ち込んだままだった。それを見た鈴木先生が、裕康の埋葬された寺院の場所を問い合わせてくれて、房恵は教えてもらった寺院に行ってみることにした。

福生市から結城市までは、電車で二時間以上かかった。特に小山駅で水戸線を30分以上待ったのは堪えた。それでも、電車は亀くらいのスピードで彼を結城駅まで連れて行ってくれたし、タクシーの運転手のおばさんも、親切に話しかけてくれながら、裕康の墓のある寺院まで連れて行ってくれた。

寺院墓地と言っても、墓石の形も自由なので、伝統的な石塔ではなく、中にはウルトラマンの形をしたものもある。その一番隅に裕康の墓が立っていた。

確か、一番小さいと鈴木先生が言っていたが、その代り、花立にはあくしばが大量にっているし、お供えが大量に置かれている。所沢を代表する名である狹山茶のパックや、所沢人形と呼ばれている武者絵をかたどった羽子板が置かれているだけでなく、高等學校卒業程度認定試験の合格通知書といった、通常、お供えとしてはあり得ないと思われるものまで置かれていた。この大きさではとても足りないと思われるくらい。房恵は、持っていた花を花立にれようと思っていたが、とてもらなかったので、墓石の上に置いた。墓石は、勝利の花を頭に乗せたように見えた。それだけではまだ、気が済まなかったので、房恵は、寺の本堂へ行って塔婆を一枚買わせてもらい、自分の名を書いて、墓石の橫に立てかけた。すでに、二枚先客がいて、一枚は川口ルイ、もう一枚は河野史子と名前が記されていた。二枚ともまだ新しく、三枚目を並べても不自然な顔はしないで、新しい仲間を暖かく迎えてくれた。房恵は、長らく裕康の墓のほうへ向けて、黙禱をささげ、改めてもう泣かないと誓いの言葉を述べた。目の前の所沢人形が、優しく聞いてくれたような気がした。

しかし、小川恵子という名はどこにもなかった。どこを探しても見つからなかった。そこだけが不服であったけれど、房恵はあえて聞かず、帰ることにした。

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