《彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版》第十一話 政編その1
「殿下、お金がありません」
「はい?」
 
まるで母親にお小遣いはありません、と言われたときのように有無を言わせぬ口調に思わず俺は疑問形で言葉を返してしまう。
それでもデュラムはいっさいの容赦なく同じ言葉を繰り返した。
 
「――――お金がないのです」
「いやいや、沒収資産とか獻上品とかいろいろあったはずだろう?」
「殿下の常備軍は金食い蟲ですから」
「うっ」
 
常備軍とは単に常時稼働が可能な軍であるという意味ではない。
要するに君主直屬の軍ということなのである。
オスマンの隆盛も、スルタンがイェニチェリを皇帝直屬の軍として活用し、諸侯に対する優位を固めたことが端緒になっていた。
戦になるたびに貴族達の私兵をあてにしているようではいつまでたってもワラキアの中央集権化はし遂げられない。
そのため傭兵達から志願者を募り、正規兵として雇用するとともに先頃戦力化した平民たちを合わせておよそ二千余の常備軍を編することにしたのである。
本來これは圧倒的な経済力を誇るオスマンだから出來ることだ。
もともと貴族たちは君主に対し軍を提供する義務を負っているからこそ領地を與えられているのである。
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その彼らの軍を當てにしないということは彼らに與えた領土が無駄になるということにひとしい。
しかし長い年月を経て君主と貴族はある種の深刻な利害の対立を抱えこんでしまい、非常に使いづらい存在になってしまった。
ならば直屬の兵を養い、反抗的な貴族を粛清してしまえばよいというのが英明をもってなるイェニチェリの生みの親ムラト1世の考え出した結論だった。
フリードリヒ大王やナポレオンによる國民皆兵が敷かれる以前に、皇帝がこれだけの戦力を単獨で抱え込んだのは非常に稀な例であろう。
要はワラキアのような貧乏な小國が所有するには過ぎた戦力だということなのだ。
 
「こ、これでも數はなめに抑えたんだぞ?出來れば三千はしいところだったんだ」
「殿下は國家財政を破綻させるおつもりですか?」
「だから二千で我慢したじゃないか!」
 
やれやれと言いたげにデュラムが気障に肩をすくめる。
でっぷりとえたデュラムがそんな仕草をすると、ユーモラスというよりも馬鹿にされているようで激しくむかつく。
 
「それだけではないでしょう?公都に學び舎を建設するとか、街道を整備するとか。必要とする理由もわからないわけではありませんがない袖は振れませんぞ?」
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「ぐっ……それは…………」
 
いつの世も男というものは財布を握られている人間には勝てないのか。
しかし公立學院と士學校の開校はワラキアの國家戦略の上で欠く事はできない存在である。
軍の掌握と僚組織の充実はワラキアが中央集権國家として生まれ変わるために絶対に必要なものであるからだ。
 
「そんなわけで殿下のランチはこれです」
 
コトリと目の前に置かれたのはライ麥のった酸味の強い黒パンが二つ。
それと塩気の強いハムとチーズがひと塊である。
 
「お前は主君を嘗めとんのか?」
 
あまりの貧相な食事の容に俺は思わず両手でテーブルを叩いた。
こんなんで育ちざかりの16歳の胃袋が賄えると思うなよ?
ただでさえ固くて甘みのないパンとバリエーションのない食事に耐えてるのにこのうえ量まで減らされたら泣くぞ!
 
「まあこれは冗談なのですが?」
「冗談なのかよ!」
「まあ、一年先は冗談ではないかもしれませんが」
 
そう言ってデュラムは表を改めた。
 
「…………実際のところ今はまだ余裕があります。しかしそれはいわば貯金をとりくずしているような狀態です。早急に収を増やさないことには常備軍を維持するのは不可能になりますぞ?」
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粛清した貴族から沒収した資産や、スルタンから軍資金として預かった資金、さらには恭順を誓ってきた中立派貴族からの獻金によって公室経済は好転している。
しかしそれは來年以降も継続して得られる収というわけではない。
早い段階で新たな収源を構築しなければ早晩資金は盡きて常備軍は解散に追い込まれ、結果的にヴラドはハンガリーの再侵攻によって敗北するだろう。
デュラムはそう言っているのだった。
 
「腹案はある。俺も金のありがたみはに浸みてわかっているさ」
「ならばお早くお願いしますぞ?でないと殿下の食事がどんどん貧しいものに………」
「冗談じゃなかったのか!?」
 
ことさらデュラムが冗談に紛らわそうとしているものが俺にはわかった。
串刺し以來落ちこんでいる俺を勵まそうとしているのだ。
あえて俺に対して冗談を仕掛けることで、ことさら暴な君主ではないことを知らしめようとしている。
同時に自分が決して俺を恐れるようなことはないのだと―――――。
 
正直涙が出るほどありがたかった。
やらなければならないと思っていても、やはりあの串刺しは肺腑に重くのしかかるものがあった。
まだまだワラキアは弱く、その力を蓄えるためには時間が必要である。
そのためにしばらくの間反逆を躊躇するだけの恐怖を貴族たちに與えておくことは絶対に必要だった。
ヴラドの怨念からではなく、俺の意志でそれを行うことを決意したとき、俺は串刺し公ツェペシュの名を自らけ継ぐことを決めた。
デュラムだけでなく、ベルドもネイもゲクランもタンブルも、一切態度を変えることなく俺に仕え続けてくれる。
もしも彼らに恐怖の視線で見られたら果たして正気でいられたかどうか………。
 
「私の節減にも限りがあります。腹案があるのなら資金のあるうちに早くお願いいたします」
「任せておけ。生まれてきてよかったと思うくらいの儲け話を作ってやるさ!」
 
 
 
 
デュラムが退出するのとれ替わるようにしてゲクランが現れた。
俺のもっとも信頼する軍事顧問でもあるゲクランは新たに作られた士學校の校長を任せている。
言葉遣いは悪いがこれでなかなか博識で面倒見のいい男なのだ。
実戦経験富な上に俺の話す未來の軍事理論をあっさりと理解してしまうあたりは彼が一種の天才であるからかもしれない。
 
士學校は小隊長クラスの元傭兵50名と人質でもある貴族の子弟200名で編されている。
今後拡充が予定されているワラキア軍の規模を考えればこれでも士の數はまったく不足している狀態だ。
そのあたりはおいおい追加していくよりほかはないだろう。
 
士學校の基本的なドクトリンとしては16世紀の軍事革命の立役者として名高いオラニエ公マウリッツのドクトリンを採用している。
といってもそれほど俺にとっては目新しいものではない。
むしろ常識の範疇にるものだ。
まず第一に給料をキチンと払うこと。
そんな當たり前のことをと言うことなかれ。
戦いが終わってしまえば兵士はむしろ邪魔者となることもあり、そんな奴らに給料を払ってやる必要はない、と踏み倒されることがままあったのだ。
兵士たちが戦場で略奪に走るのもそれが大きな要因であったらしい。
給料の支払いが安定すると兵士たちの士気とモラルは目に見えて向上したという。
第二は戦略単位を連隊ではなく大隊とした。
これはワラキアという小國での戦略単位として連隊は規模が大きすぎるということがあげられる。
的には橫25列に縦10列の長槍隊を配し、両翼に縦10列橫5列の火縄銃隊、そのさらに両翼に縦10列橫10列の火縄銃隊を配置してこれをひとつの戦略単位
としたのである。
とはいえ今はまだそれほど火縄銃を揃えることが出來ず、弩で代用しているが。
指揮と士の數が圧倒的に不足しているワラキアの現狀ではこのあたりがちょうどの丈にあっており、現実に戦的機力は倍以上にはねあがった。
第三は指揮命令系統の確立である。
當時の戦場では指揮もまた戦場にいたれば馬を降り、一兵卒として剣を揮うのが常識であった。
これでは戦局を見た効率的な部隊運用など出來るはずもない。
指揮は馬を降りず戦闘にも加しない。ただ、部隊の把握と指揮に専念させることが必要なのであった。
また、指揮を失った部隊が烏合の衆と化すことを防ぐため大隊には三人の中隊長がおかれ、席次によって指揮を引き継ぐことになっている。
士が増えればその下にさらに九人の小隊長を置くことも決められていた。
第四は行様式の細分化であった。
マウリッツが執筆した教本ではただ銃を撃つことにさえ、數十の段階にわけて詳細な説明がなされていた。
當時小國であったオランダが大國スペインと渡り合うためには寡を持って衆を制する戦いかたが絶対に必要であった。
その論理的帰結として、より集団としての度を高めることが要求されたのである。
結果スペイン軍が千名を整列させるのに一時間を要したところ、オランダ軍は倍の二千名を二十分で整列させられるまでになってたという。
また、それを可能とするための日々の軍事訓練は傭兵たちに國家という共同への帰屬意識を植え付けるという二次的な効果もあげていた。
これに関してはすでに傭兵と平民兵の間でしずつ効果が出始めているとゲクランは報告していた。
これで貴族の馬鹿息子たちがしは心をれ替えてくれれば助けるのだが…。
理想とするのはイングランドのような貴族の義務ノーブレスオブリージを現してくれる貴族だがその道のりは遠いと言わざるを得ない。
 
「今日は殿下に紹介したい男がおりやして」
「マルティン・ロペスと申します。お初に意をえます、殿下」
 
折り目正しく腰を折るその気品ある作は彼が正しい教育をけた貴族であることを告げていた。
肩幅の広い堂々たる軀で金髪碧眼ではあるが特に青年というじではない。
むしろ大きく角ばった顎や太い首が彼が筋金りの武人であることを主張しているようだった。
 
「いずこから參った?」
 
「ブルガリアでございます。先祖がスペインより十字軍としてエルサレムに向い、その帰路にブルガリアに土著したものと聞き及んでおります」
 
なるほど、ブルガリアか……………。
1394年だから今から53年前にオスマンに滅ぼされたワラキアと同じビザンツの文明圏にある國家である。
ヤーノシュとオスマンの死闘が繰り広げられた要衝ヴァルナのある場所でもある。
もともと王権が弱く、後年のワラキアやモルダヴィアと違い自治を許されなかったためオスマンの征服後は舊支配階級の數多くが路頭に迷ったという。
マルティンの父もそうして傭兵にを落とした沒落貴族の一人であったのかもしれない。
 
…………これは思わぬ拾いものになるかもしれんな………。
 
軍人として彼が有能なのはゲクランが推薦した以上疑いのない事実であろう。
それ以上にいずれオスマンを敵に回したとき、ブルガリアの地理を知悉したものがいるといないとでは大きな差が出るはずであった。
しかも今なお縁者がブルガリアにいるならば離反工作の手間もはぶけるかもしれない。
 
「こいつとぁ、三年前のヴァルナで一緒に戦いやしてね。戦の腕が立つのは勿論なんだが……ひとつ珍しい特技がありやして」
 
「…………なんだ?それは?」
 
「銃の扱いに長けておりやす。100m先の的でもはずしやしません」
 
銃!銃か!
正直から手が出るほどしい武なのだが如何せん數がない
発速度、威力ともに弩を上回るそれは遠くない未來に世界を変えるはずなのにだ。
 
だからといって銃の価値が我が軍で低いということはありえない。
可能なかぎり増産させ実戦部隊に組み込む方針は決まっているが裝填や撃に非常なスキルを要求されるため教育を任せることのできる人材はから手が出るほどにしかった。
 
「マルティン、この私に仕える気はあるか?」
「殿下のごを賜るならばこの非才なるの全力をあげて」
「よかろう!ゲクラン、お前にこの者を預ける。士學校にれた後、卒業後は銃兵の教導に當たらせろ!」
「意」
 
ゲクランの人脈の富さには本當に頭が下がる。
実際のところワラキア國軍に殘ることを決めた傭兵たちの半數以上はゲクランの人によるものだろう。
まだまだ歐州は戦の巷であり、戦場に彼らが不足するということはないのだから。
 
「ところで貴族の馬鹿息子どもはどうしてる?」
「そりゃまあ殿下、一割も殘れば上等ってもんでしょうよ…………」
 
やはり訓練の厳しさやゲクランたち傭兵に教えられるということに耐えられない者が続出しているらしい。
まったくどら息子どもめ……………。
 
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