《彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版》第十五話 政編その5
「こ、この羅針盤は……………」
 
商人であり、船乗りでもあるジョバンニにはそのものの価値が十分すぎるほどにわかっていた。
これは世界をかしかねないほどの発明である。
しかも技的にはすぐにも量産できるほどに簡易なものであるというところが素晴らしい。
現在ヴェネツィアも諸外國も水を張った容に方位磁石を浮かべる形の羅針盤を使用しているが、この羅針盤は荒天下で水が荒れると役に立たなくたるという欠點があった。
羅針盤を揺らさないために靜粛に船をるのが一人前の船乗りの條件であったと言っても過言ではない。
ところがこの羅針盤ときたらどうだ?
左右から宙吊りにすることによって常に水平を保つことを可能にしている。
どうして今までこの発想ができなかったのか!
昨日までの自分を毆りつけたい衝にジョバンニはかられた。
 
「お気に召したようですね」
「それどころではありません、これは――――新たな世界の扉を開くものです。我がヴェネツィアはこの贈りによって百年の栄をつかむでしょう」
 
すでにポルトガルのエンリケ航海王子によるアフリカ進出によって大航海時代の幕はあげられているが、それでも航海技は従來の近海航法から離れることはなかった。
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何の目印もない海のうえで必要以上に陸地から離れることに船乗りたちが並々ならぬ抵抗をしめしていたからである。
考えても見てしい。
荒天になれば水面に浮いた舊來の羅針盤は何の役にも立たなくなり、當然天候が悪化しているのだから星で方向を探ることもできない。
そんな狀況で數日も漂流したら、いったいどれほど沖に流され、戻るのにどれほどの苦労と幸運を必要とすることか。
全く方角もわからない暗闇の海上に閉じ込められて、日毎になくなっていく食料と飲料水の重圧に耐えて航海するというのは當時の船乗りに要求できるレベルを明らかに超えていた。
 
しかしこの羅針盤があれば劇的に環境は変わる。
なくとも大西洋の橫斷に挑戦しようとする命知らずが幾人も出てくることは確実だった。
もちろん犠牲者が出るのは避けられないだろうが、それでもいつか誰かが新たな航路と市場の開拓に功するだろう。
――――――その誰かとは誓ってヴェネツィアでなくてはならない。
 
ヴェネツィアの將來を擔う人間として十人委員會という重責にあるジョバンニはヴェネツィアの弱點を知している。
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エンリケ王子がアフリカ大陸を南下し、後年バルトロメウ・ディアスが喜峰を発見する原力となったのは、もっとも貴重な商品となりうる香辛料がオスマンをはじめとする
イスラム國家を通じてしか手にれることができなかったためだ。
異教徒であるイスラム教國家に大金を支払って香辛料を輸しなければならないのは金の浪費であり、屈辱であると考えるものは多かったのである。
香辛料の主な輸出元はインドと中國であり、ならばインドへイスラム圏を通らずに直通の航路を開拓しようというのが大航海時代が立したもっとも強い機であった。
世界に冠たる海軍力と資金力を持つといえども、その実態はイタリア半島のごく一部を支配する都市國家にすぎないヴェネツィアとしては海外貿易の主軸が地中海から離れ
イングランドやポルトガルが大西洋貿易を獨占するのを阻止しなくてはならなかった。
なくとも最低限、大西洋からの新貿易航路が開発されるならばその主導権をヴェネツィアが握らなくては、やがてヴェネツィアをはじめとするイタリアの都市國家が衰弱死を免れないのは明らかであった。
來るべき新時代に対する漠然とした怖れが、今逆に最大の好機としてジョバンニの眼前に提示されていたのである。
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ジョバンニは今こそ自分が歴史に名を殘す瞬間に立ち會っていることを自覚した。
 
「今日は何度驚いたかわかりませんがこれはとびきりです。果たして船乗りでない殿下にこの驚きと喜びがわかるかどうか………」
 
実としてはともかく想像ならできる。
なにせ人類の三大発明のひとつに數えられるものだからな。
 
「ジョバンニ殿にそこまでお喜びいただけたのなら栄だ。だがしばらくの間は信頼のおける仲間以外には伏せておいていただきたい」
「我がモチェニーゴ家の名譽に誓って」
 
羅針盤は砂糖やザワークラウトと違って完全な戦略商品である。
敵対國やジェノバのような商売仇に知られては逆にこちらが遅れをとらないとも限らない。
それは同時にワラキアとヴェネツィアの両國が戦略的パートナーとして協力しあうことを意味していた。
ジョバンニとヴラドはワラキアとヴェネツィアの最恵國待遇による貿易の確保と、それに伴う両國の國際政治における同盟関係を確認した。
 
「――――教皇庁の工作はお任せください。こちら側に取り込んでいる樞機卿もおりますので」
 
懸案のローマ教皇庁による政干渉もジョバンニの力を借りてどうにか排除が可能らしかった。
切り札をきっただけの果は確かにあったようだ。
だが、俺がヴェネツィアに接近した理由はただローマ教皇庁に対抗するためだけではない。
 
 
「両國がともに未來に手を取り合える関係を築けたことは誠によろこばしい。だが――――――」
 
なぜかラドゥの無垢な濁りのない笑顔が脳裏をよぎった。
これから自分がすることがラドゥにどんな影響をもたらすのか―――いや、まだその結論を出すには早い。
今は將來の布石を打つことこそが重要なのだ。
 
「ここからは裏の話をさせていただこうか」
 
 
 
 
ヴラドの纏う空気が変わった。
さきほどまでが政治家であったとするならば、今の空気は戦場で武人の纏うそれに近い。
自らも海賊相手に戦闘経験を積んだジョバンニだからわかる空気の変化であった。
 
「ジョバンニ殿はオスマンの長をどのように考えておいでだ?」
 
ヴラドの吐いた言葉の持つ意味にジョバンニは戦慄した。
あれだけの切り札をきっておきながら、その実ことの本命はこれだったというのか―――――?
まさか最初からヴェネツィアと対オスマンの軍事同盟を畫策していたと?
 
「現時點では有力な取引相手です。しかし將來においては………」
「地中海の覇者を脅かす競爭相手というわけですな?」
「ご賢察のとおりです」
 
香辛料のみならず、薬剤や寶石にいたるまでオスマンとの取引額は莫大なものにのぼっていた。
これがヴェネツィアがオスマンとの全面戦爭に躊躇するもっとも大きな原因である。
もしもヴェネツィアがオスマンとの易を止されたならば、それだけでいくつもの商家が首をくくるはめになるだろう。
だがこのままオスマンの長を放置すればいずれわれらの海たる地中海が彼らによって躙されることも目に見えていた。
今はまだかろうじてボスポラス海峽の突端にある、コンスタンティノープルが健在であるが、それも風前のともしびであることをジョバンニは知っていた。
 
「ジョバンニ殿はオスマンがコンスタンティノープルを諦めていないのをご存じですね?」
「どうして殿下がそれを!?」
 
ワラキア國ならばともかく、國際政治においてヴェネツィアの報収集力はワラキアのそれを遙かに上回る。
まだジョバンニと同じ十人委員會の一員であるバルバリーゴ家には、スルタンメフメト2世がコンスタンティノープルを狙っていることを記した文書が殘されていると言う。
海千山千の海の男であるジョバンニがその事実を知らないはずがなかった。
 
「今は退位したとはいえ前スルタンメフメト2世は決してコンスタンティノープルを諦めません。あの帝都が落とされればもはやオスマンの地中海進出を阻むことは不可能となるでしょう」
 
それに関してはジョバンニもまったく同意見であった。
それでも數十年は粘れるだろうし、海戦では負けないかもしれないがあまりにも國力が違いすぎる。
オスマンは損害を省みず、海と陸の両面からヴェネツィアの拠點を攻撃できるのだ。
一時的には勝利しても結局ジリ貧に追いやられていくのは目に見えていた。
史実においても73代元首アゴスティーノ・バルバリーゴの時代にはヴェネツィアは完全にオスマンに敗北し、植民地ダルマティアやレパントの拠點を失い地中海の王の座から転落するのである。
 
「しかし陥ちますか?あの難攻不落の城塞都市が?」
「すでに陥ちたことのある都市がどうして陥ちないと思えるのかそのほうが余には不思議です」
 
コンスタンティノープルは確かにテオドシウスの三重防壁を擁し世界最大の城塞都市でもあったが第四回十字軍によって一度は滅ぼされた都市でもあった。
メフメト2世の侵攻に対し、都市を防衛できるかどうかは海外各國の支援次第であるといっても過言ではなかった。
 
「メフメト2世の野心家ぶりはとうの昔にごぞんじなのでしょう?」
 
メフメト2世――――ヨーロッパ人よりヨーロッパの歴史に詳しかったといわれる征服王。
彼はアレクサンドロスのように、そしてカエサルのように歴史上の偉人として後世に名を殘す妄執に捕われていると言ってよかった。
また一度退位してマニサに隠棲したのちも、ヴェネツィアの所有するネグロポンテに侵攻するなど、ヴェネツィアにとっては非常に非友好的な存在であった。
溫厚なムラト2世が死去し、彼が即位するようなことになれば必ず大規模な侵攻が行われる。
その先は十中八九までコンスタンティノープルであろうというのがヴェネツィアの間諜のもたらした報であった。
 
「確かに彼の國をこれ以上のさばらせておくことは危険です。しかしその屬國であるワラキアにどれほどのことができるというのですか?」
 
ジョバンニは現在ヴラドの掌握している兵力が二千程度にすぎないことを把握していた。
とてもではないが十萬の兵すら員することが可能なオスマンと戦うには力が足りな過ぎる。
商売の相手としてはかけがえのない存在でも、ともに戦場で戦うにはワラキアはまだ信用も実績も足りない小國にすぎないのだ。
 
「今すぐにとは申しません。しかし遠からずワラキアはオスマンに挑むに相応しい力をにつけるでしょう。その際ともにオスマンと戦うそのときには―――――」
 
俺は大きく息を吸った。
羅針盤と同様にこれをジョバンニが決して斷ることが出來ないのはわかっている。
―――――チェックメイトだ。
 
「我が國は貴國にギリシャの火を供給する用意があります」
 
驚愕にジョバンニの瞳が見開かれる。
しかし思わずびだしたいのをジョバンニは自制し、俯いて深く嘆息した。
 
「もうこれ以上驚くまいと思っておりましたが…………」
 
ギリシャの火は現代もなお謎とロマンとともに語りつがれる存在である。
その製法はいまだ謎とされ、空気にれると著火して火炎放機のように使われたという。
本當はどんなものであったのか、様々な仮説がたてられているが硫黃・酸化カルシウム・石油などの原料を大釜で熱し、サイフォンの原理で吸い上げて使われたとする説が一般的である。
非常に高溫で水をかけても消せないため接近戦では無類の力を発揮し、ビザンツ帝國の籠城戦の切り札とされていた。
 
ジョバンニはヴラドの切り札に対する敗北を認めた。
ほとんど渉する余地もない完敗である。
これでヴェネツィアはワラキアの安全保障に対し常にそれを擁護する立場をとらざるをえなくなった。
なんとなればギリシャの火は海戦においてもっともその力を発揮するからである。
木造の船に布の帆を張った船にとって火は最大の天敵であり、さらに水をかけても消えないギリシャの火はほとんど全ての船乗りにとって悪夢以外のなにものでもなかった。
萬が一、ワラキアが占領されその技が流出したとすればたちまちヴェネツィアの海上覇権はその國に脅かされることになろう。
ワラキアが他の國と同盟を結び技を提供した場合も同様である。
 
「私は元首ではありませんがヴェネツィア十人委員會の一人、ヴェネツィアモチェニーゴ家の當主としてお約束申しあげましょう」
 
逆に考えればワラキアの最も頼りとなる盟友となり、最も重要な貿易先となればヴェネツィアの繁栄は約束されたようなものだ。
ワラキアの進んだ先進技を我がものとし、ライバルであるフィレンツェやジェノバに対する圧倒的なアドバンテージを得るためならばこの程度のリスクは許容されてしかるべきであった。
よくぞ元首はこの私をワラキアに派遣してくれた。
この時のために私は生きてきた。
この歴史的決斷を下す使命のために私はこの世に生をけたのだ。
今この瞬間に私という存在は、生は何にも代えがたい無上の価値を得た。
 
「……我が運命はワラキアとともにあることを」
 
 
―――――この決斷に悔いはない。
もし老害の爺いどもが邪魔をするならば、殘らず蹴散らして私がヴェネツィアの支配者になるまでのことだ。
ここで夢を見ないなら男に生まれてきた価値などあるものか!
歴代の元首のなかでは珍しく、自ら戦場で陣頭指揮をとったというジョバンニ・モチェニーゴにとって、あるいは戦って勝ちとったものこそが至高の寶なのかもしれなかった。
 
 
 
切れる札は切りつくした。
隠し札もジョーカーも使いきって手持ちはもうすっからかんだが、どうにか俺は―――――――賭けに勝った。
 
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