《彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版》第二十九話 バーゼルの罠その1
ハンガリー王國との講和をし遂げたオレはここで天然痘の種痘に関する報の販売に踏み切った。
ヘレナの輿れの祝い替わりにコンスタンティノポリスに既に報を提供していたからだ。
遠くない將來の報の洩が避けられぬなら今が商売の売り時というやつだった。
取引の窓口にはヴェネツィアのジョバンニがあたっているので呆れるほどの巨利を上げてくれるだろう。
同じくジェノバのアントニオにはコレラの治療法の販売を委託していた。
十九世紀末に日本を含め世界的に大流行したコレラだが、意外にもその歴史は古く紀元前三世紀には既に歴史書にその名が記されている。
コレラの治療法は単純である。コレラの死因は大量の下痢と嘔吐による水分と電解質の減からくる水癥狀なのだから、それを補ってやればよいのだ。
的に言えば経口補水塩のように水にデンプン(ブドウ糖)と塩を溶かしただけのもので十分だった。
これを常時補給させてやるだけで、大半の患者は死を免れることが出來る。
早くも醫聖などという聲が上がり始めているらしいが、現代人のオレにはこそばゆい名前だと思わざるをえない。
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「それにしてもいったいどうやってそんなことを知りえたのだ?我が夫よ」
「………夢で見たのさ」
ヘレナのマリンブルーの瞳が湖水のような靜謐なを湛えて興味深そうにオレを見つめるが真実を話すつもりはない。
どうせ信じてもらえぬに決まっているからだが………どうやら未來から來ただけの平凡な歴史オタクだとヘレナに知られたくないという妙な気持ちもあるらしい。
我ながら度し難いものだ。
「こんなにしい妻に隠し事とはけしからぬな?我が夫よ」
「………しい妻は知らんが可い婚約者なら目の前にいるな」
「……うにゅっ………その可い婚約者はおかんむりだぞ?」
「では……ご機嫌をとるとしようか」
ふにゃりと顔を緩ませてヘレナが膝の上にとび乗ってくる。
このところヘレナは膝のうえに抱かれて俺とキスをわすのがひどくお気にりだ。
こうなってしまうとくすぐったそうに微笑んでけたようにすぐご機嫌になってしまう。
オレは気にってないよ?らかくて暖かい溫とか、生得の甘い香りとか気になったりしてないですよ?本當ですYO?
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レマン湖の北にひときわ高く聳え立つ聖堂がその威容を誇示していた。
ゴシック建築の傑作とされるこのノートルダム大聖堂はフランスのそれには及ばないが世界産にも指定された文化産であり、現代においても世界一高いパイプオルガンや貴重なステンドグラスを所有することで、スイスの観名所として親しまれている。
しかし1449年を迎えたこの時期、ローザンヌの中心に位置するノートルダム大聖堂は特殊な政治的地位を所有していた。
すなわち、そこは対立教皇フェリクス5世が君臨していたからである。
この時代の混沌とした教會の権力爭いは複雑怪奇だが、ことの始まりはアヴィニョン捕囚によってローマからフランス王國のアヴィニョンに移されていた教皇庁を1377年グレゴリウス11世がローマに再び帰還させたことである。ここで既事実がなし崩しに認められれば問題はなかったのだろうがグレゴリウス11世は翌年に逝去。次代の教皇にはウルバヌス6世が選出されたのだが、フランス國王の意向をけたフランス樞機卿たちがこれに反発。クレメンス7世が獨自に選出されここに教會はアヴィニョンとローマに分裂した。
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さらに1409年、この分裂狀態を回避しようとピサ教會會議が催されるが両者を統合するために選出されたアレクサンデル5世を両教會が認めなかったために、3人の教皇が並び立つという前代未聞の事態が現出した。
この分裂は1417年、マルティヌス5世が選出されたことでようやく終わりを告げるのだが1431年からローマ帝國の正教會との合併をめぐって開催されたバーゼル公會議において再び教會は會議派と教會派に分裂する。
1437年教皇派が會議のフェラーラ移転を決めると、會議派は教皇の廃位を決定、獨自にサヴォイア公爵アマデウスを教皇として擁立する。これが最後の対立教皇とよばれるフェリクス5世である。
最終的に會議派は1449年に解散し、フェリクス5世自も1449年4月7日に退位においこまれることとなるが、サヴォイア家の當主でもあるフェリクス5世は同時に優秀な世俗君主であり、後にイタリアを統一するサヴォイア家の基礎は彼によって築かれたと言われている。
「公自が足を運ばれるとは意外でしたな」
教皇というにはいささか質素な僧服にを包んだフェリクスは面白そうに目の前の人を見つめた。
「聖下にお會いできるならばこのフニャディ・ヤーノシュいくらでも犬馬の労を厭いませぬ」
フェリクスの前で恭しく跪いてみせたのは誰あろうハンガリー王國宰相フニャディ・ヤーノシュであった。
「もう誰も見向きもしなくなった零落の教皇にヤーノシュ殿ともあろうお方が何の用でしょうかな?」
フェリクスはすでに規定路線となったバーゼル公會議の解散と自らの退位を前にヤーノシュが來訪した理由を捉えかねていた。
ハンガリー王國とは國境を接しているわけでもないし、まさか優秀な政治家でもあるヤーノシュが今さら會議派に肩れする理由もないはずであった。
サヴォイア公國の主としてキリスト教圏の大國ハンガリーと修好するのに否やはないが、余計な爭いには巻き込まれたくないというのが本音であった。
「――――このままご退位あそばしてよろしいので?」
「諸侯の支持を失ったこのには詮無いことです」
すでにバーゼル公會議など名ばかりに形骸化して久しい。
もともと教皇の巨大な権限を掣肘するために諸侯の干渉が容易な會議形式が支持されていただけで、忠誠を抱くようなものは誰もいなかった。
世の流れがローマの教皇に傾いている以上、彼らが離反していくのを止められる道理がなかった。
それはいかにヤーノシュが卓越した國際政治家であっても変えることはできまい。
「聖下は公會議の教皇であるばかりでなくサヴォイア公國に責任のある方。このまま手土産もなくローマに吸収されてはサヴォイア公國の立場もいかがなものか、と」
これは事実である。
フェリクスもしばらくの間は冷や飯を食わされることを自覚していた。
あるいは子の代になればどうにか國際政治の表舞臺に立てるか、というところであるが下手に反抗すれば公國自が滅亡する可能がある以上どうすることもできなかったのだ。
「我がハンガリー王國はローマに伝手もあります。聖下の同意さえいただければローマとの仲介もいくばくかの経済援助も惜しむつもりはありません」
「ふむ、興味深い提案ですな………しかしそれほどのことをして、公は私に何をおみで?」
そう、フニャディ・ヤーノシュといえばヴァルナの戦いで戦したキリスト教國家のなかでも異教徒との最前線に立つ英雄とされている。
そのためかローマ教皇庁にも彼を支持する樞機卿は多く、教皇ニコラウス5世の信頼も厚いと聞くが………どう考えてもわざわざ自分に頼らなくてはならない理由が見つからない。
「私が聖下にむのは――――――」
このところのワラキア・トランシルヴァニア・モルダヴィアの三國の経済発展は目覚ましい。
加工食品やワインの蒸留などの高級嗜好品を中心にした産業の発展は既に農業人口を圧迫しつつある。
人口度の低いルーマニアならではといったところだろうか。
特に陶を使った瓶詰は高溫殺菌など想像もできない歐州各國で発的な売れ行きを示していた。
流石に缶詰をつくるには冶金技が追い付かなかったのだが、とりあえず陶でも代用としての能はかろうじて確保できた。
さらに巨費を投じて各國から技者まで招いた加工業については、とうとう火打石式フリントロック銃の試作に功している
同じフリントロックのなかでも1543年スウェーデンで開発されたスナップハンスロック式である。
もともと構造自は舊來の火縄銃と変わらないため製造は容易であったがそれでも當たり金と火蓋の信頼を確保する必要から量産に難があるのが問題ではあったが。
火縄銃の欠點はまさに火縄を用いることにある。
生の火を使うことから、しめるとよく不発を起こし、雨中ではしばしば使用不可能になるなど、火縄から派生する問題は多かった。
そして以外に知られていないことだが火縄銃の発砲の際には風下にむかって約1mほどにわたって無數の火のがはじけ飛ぶ。
そのため手と手の間隔を広くとらざるを得ず、どうしても銃兵の度は低いものにならざるをえないのだ。
しかし火打石式銃にはそうした問題點はない。
ほぼ長槍兵と同様の度で火力網を形することが可能だ。
火打石式銃には銃剣もまた標準裝備されており、ワラキアの常備大隊が世界に名を馳せる日は近いと思われた。
1449年にりオスマン帝國への貢納金の納が始まったが、もはや二年前のワラキアとは経済基盤が違うので多の支出に不足はない。
既に種は蒔かれていた。
士學校の生徒や大學の生徒がワラキアの新たな僚層を形するまでそれほど長い時間はかからないだろう。
ネーデルランド式の常備大隊も五個大隊五千名に増員することも決定していた。
そう、全ては順調だったのだ。今日このときまでは。
「――――大公殿下に急報がございます!」
「シエナか。どうした?ハンガリーにきでもあったか?」
シエナはごくりと唾を飲み込んでゆっくりと首を振った。
常には揺など決して見せぬ男が、珍しく顔面を蒼白にして焦りのを浮かべていた。
ヤーノシュの侵攻すら顔ひとつ変えなかった男だ。絶対に尋常な事態ではない。
不吉な予がを衝く。
…………いったいオレは何を見過ごしたというのだろう?
「バーゼル公會議の教皇フェリクス5世聖下が十字軍の編を命じられました。ローマ教皇ニコラウス5世聖下は廃位の花道としてフェリクス聖下の決斷を支持するお考えです」
お飾りと化した骨董品が余計なことを。
どうせ退位するから政治的冒険に打って出たってわけか。
それなら失敗してもローマ側の損害はなくて済むからな。
「しかしそれでく國があるか?フェリクスの妄言につきあう義理はないだろ?」
シエナの顔が苦しそうに歪む。
もうし早くこの報を手していればヴェネツィアを介して阻止することも可能だった。
その自責の念がを表さぬシエナをして眉間のしわを深く刻ませていた。
「十字軍戦力の中心はハンガリー王國、さらに今後ドイツ騎士団が合流する予定です。十字軍の総指揮はフニャディ・ヤーノシュそして――――」
完全に出しぬかれた。
このときの屈辱をシエナは後年まで教訓として羊皮紙に刻みに持ち続けたという。
教皇庁対策をおろそかにしたつもりはないが、これが自分とヤーノシュとの間にある経験の差ということか。
「―――――十字軍はオスマンの先兵たるこのワラキアを目指しています」
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