《彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版》第三十話 悪魔(ドラクル)

港を一する瀟灑な屋敷の一室でジョバンニは怒鳴り出したい衝をかろうじて抑えつけていた。

まさかこんな急に十字軍が発されるなど彼にとっても想像の埒外であったのだ。

ワラキアの報を統括するシエナのもとにことのり行きを知らせるための早馬を飛ばしたのは誰あろうジョバンニ本人であった。

「―――すまん。だが教會の分裂を一刻も早く解消したいうえに、もとより十字軍で異教徒を駆逐することは教會累代の悲願。それをフェリクス5世が退位の條件とした以上これに反対するのは私にとっても自殺行為であったのだ。わかってくれ」

そう言って樞機卿であるアルフォンソはモチェニーゴ家の當主に深々とその長を折って頭を下げた。

彼が樞機卿の座を止めることができたのも、一介の學僧であったころに學費を負擔してくれたのもヴェネツィアの元老院の後押しがあったからこそである。

だからこそ彼は彼なりにヴェネツィアの利益を代弁してきたのだが、今回のワラキア出兵は彼の工作で防げる範疇を超えていた。

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「――――仮にこの出兵が失敗に終わったとしても、派兵を主導したのはフェリクス5世であると言い訳もできる。さらに功すればフェリクス5世の退位とともに功績を橫取りすることができるとなれば―――わかるだろう?教皇聖下にとってもこれは低下した教會の影響力を取り戻すリスクのない機會であるのだ」

元老院にも名を連ねヴェネツィアの政治を擔うものとしてジョバンニは樞機卿の考えは理解できる。

しかし商人にして、またワラキアの同盟者でもあるジョバンニ・モチェニーゴとしてはとうてい同意することのできぬ話であった。

「この十字軍が功すれば教皇聖下はハンガリー王國宰相フニャディ・ヤーノシュに正式にハンガリー王位継承を認める予定でおられる。いや、そればかりか役に立たぬ神聖ローマ帝國すらヤーノシュに渡してしまいたいとお考えでも不思議ではない。我々に出來ることはヤーノシュが敗北した後の巻き返しを準備しておくことぐらいしかないのだ」

「―――――ヤーノシュが敗北すれば余計な影響は排除できますな?」

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「うむ、西歐の各國が當てにならぬ以上ヤーノシュさえいなくなればもはや十字軍などという冒険に出れる世俗君主などおりはせぬよ」

そういうアルフォンソの言葉に頷いて、苦渋の表とともにジョバンニは當面の十字軍の制止を諦めざるをえなかった。

ヴェネツィアは確かに教皇庁に強い影響力を持つが、それはフィレンツェやミラノのようなライバルも同様であり、迂闊な真似はヴェネツィアの政治的孤立を招きかねぬものであったからだ。

(申し訳ありませんヴラド殿下―――――せめて殿下が勝利なさった後だけでも萬難を排してまとめてみせます――――どうかご武運を!)

カトリックの異端に対する弾圧の歴史は古い。

フランス南部のカタリ派を殲滅したアルヴィジョア十字軍に従軍した司教はこうんだという。

「殺せ!全て1人殘らず殺し盡くせ!あとは神が見分けたもう!」

例え異教徒ではない無辜の民草が中にいたとしても、それは裁きの日に神が見分けてくださる。だから気にせず殺してしまえという暴論であるが、それがまかり通るところがこの時代の宗教戦爭というものであった。

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中世史上に悪名高い、幾百萬の無実の人々を死に追いやった魔狩りは1487年に刊行された「魔に與える鉄槌」によって神學的な裏づけが與えられたことにより15世紀から17世紀にかけて猛威を振るうことになるが、しかしそもそもの起源はおよそ9世紀以前に遡る。

異端に対する近親憎悪的な、ある種変質的な恐怖と敵意はカトリックの宿唖としかいいようのないものであった。

カトリック教會が寛容と慈神をもって異端への蠻行を自戒するにはフランス革命以降の近代合理主義の発展を待たなくてはならないのだ。

後年になるが循環説を唱えたミシェル・セルヴェが生きたまま火刑に処せられたように、ごく真面目な醫學者が異端とされた例も多い。

ましてペストや天然痘の流行を魔やユダヤ人の仕業として大殺を行ってからいまだ半世紀しかたっていないのにオレの教えた種痘法がカトリック教會にれられる可能は低かった。

全ては主の心のままに………彼らにとって運命とはれるものであって、自ら切り開くものではない。

おとなしく従順な仔羊こそ彼ら教會が求める理想の信者の姿なのだから。

しかも衰退しきったローマ帝國を吸収合併する形でとりこもうとしたフィレンツェ公會議から數年、今更ローマ帝國がワラキアの支援をけて息をふきかえすような事態はカトリック教會にとってとうてい歓迎しえない痛恨事でもあった。

俺がやろうとした正教會の権威復興はカトリック教會側から見ればオスマン以上に忌々しい獅子中の蟲であったのである。

教皇のけのよいハンガリー王國と戦し、さらにフス派殘黨のヤン・イスクラと結んでいることからも信仰上の敵と言われかねない要素はすでに出揃っていた。

ただ、俺が勝手に宗教指導者の理を過信していた、それだけのことだった。

そして現在のワラキアは各國にとっても垂涎の寶の山である。

歐州全に広まろうという畫期的な醫療法

製法の知れぬ様々な保存食品群

學校の創設と獨創的で舊來にない新戦

謎のベールに包まれた新技による新世代の兵たち

どれをとってもで贖う価値があると各國の君主が判斷するだけのものがある。

ゆえにこそ各國は教皇の獨斷を黙認という形で認めることを選択したのであった。

神は語る。

誰かが汝の右の頬を打つなら左の頬を向けよ。

神は諭す。

汝の敵をし、汝らを責むる者のために祈れ。

だが

だが

誰も否定の出來ぬ甘言の裏で神こそが人を貪る。

神こそが人を嬲る。

神こそが人を妬む。

神こそが人を殺す。

殺して殺して殺して殺して殺して――――流された幾萬のを飲みほして神はようやく自らの渇きを癒すのだ。

我々は神の食糧か?

我々は神の玩にして生贄でしかない存在なのか?

否、斷じて否!

丹田のあたりからかつてヴラドであったものの怨念が溢れだして脳が灼けそうに熱い。

神よ。

神よ。

なぜそれほどに儚き子らを憎むのか?

神のは寛容であり、け深く、決して妬むことをしないとは貴方の言葉ではなかったか?

狂おしきヴラドの咆哮を耳朶に刻みながら俺は怨念の奔流に対する抵抗を止めた。

そうとも!今こそ俺たちは同じもの(ドラクル)となった!

「………シエナ」

前に」

「セルビア貴族の調略を急げ。ドイツ諸侯と騎士団の不和を煽れ。金はいくら使っても構わん」

意」

セルビアはコソヴォの戦い以後國力の低下が著しい。

勇猛をもってなるステファン・ラザレビッチ侯はともかく、老獪な政治家ジュラジ・ブランコビッチは理的な判斷を下してくれるはずだった。

なくとも彼は今ある戦力が失われれば亡國は避けられない、という戦力保存主義の徒であったとオレは彼を理解している。

セルビアが同じ正教徒であることからいっても彼らの戦力化は至難を極めるであろう。

「デュラム」

前に」

「全ての販路を員して穀を買い占めろ。財政の許容する範囲で穀の価格を吊り上げるのだ」

意」

戦爭という行為は決して國家にとって非常に力を消耗する不経済な行為である。キリスト教國家がオスマン朝の侵攻に対して必ずしも好戦的でない理由がここにある。戦爭による力の消耗を國家経済が許容できないのである。

いかに強國ハンガリーといえども合流した諸侯を含めた兵站を維持することは並大抵の労苦ではない。

常備軍が普及しておらず、傭兵が戦力の大きな部分を占める現狀では特にそうだ。

「イワン」

前に」

「コンスタンティノポリスの総大主教猊下に勅命を要請しろ。正教徒の信仰を守護するために、ワラキアに神ご加護をお願いするのだ」

意」

先ごろ病死したヨハネス8世の後をけたコンスタンティノス11世は東西の教會合同に熱心だが、すでに宰相ノタラスや総大主教は正教會の影響力維持に舵をきっている。

ここでワラキアが敗滅することは彼らにとっても不都合極まりないはずだった。

再びローマ帝國が東歐で繁栄を取り戻すためには、正教會國家の真の意味での連帯が必要不可欠であり、現在のところその主軸になりうるのはワラキア公國以外には考えられなかった。

正教會の支持さえあればワラキアの支配圏の大半を占める正教徒の士気を保つには十分だ。

「ヤン・イスクラにも使者を送れ。ヤーノシュの背後で嫌がらせをしてくれるだけで構わない、とな」

意」

あまりに熾烈な怒りのせいでかえって腹が據わってきたようにじられる。

異端を狩るつもりの奴らに自らが狩られる恐怖を與えてやろう。

異端から富を奪うつもりの奴らに自ら奪われる失意を與えてやろう。

異端を殺すつもりの奴らに自らが殺されこの悪しき世界から解き放たれる絶を與えてやろう。

奴らの信じるカトリック(普遍のものの意)などこの悪しき世界には存在しないのだということを教育してやる。

「我が君―――――」

ヘレナが顔を蒼白にして俺の顔を覗いていた。

どうやら怖がらせてしまったか。しかし理不盡な抑圧に対する狂おしいほどの激………それこそが俺がヴラドである証であり、偽らざる俺の本でもある。是非もない…………。

「こんな俺は嫌いか?ヘレナ―――――」

そう言われると不安そうな表から一変してヘレナは怒りに顔を紅させた。

「妾を見くびるな!我が君の怒りは妾の怒りであり、我が君の運命は妾の運命じゃ!こうなったらまとめて踏み潰せ!」

「くっくっ………さすがは豪気だな、我が妻」

―――――素晴らしい。

さすがはローマのをひく娘だ。同じキリスト教徒を敵にすることにいささかの迷いもない。

いいだ。俺だけのだ。

さあ、神の代理人たちに地獄を見せよう。

阿鼻喚の絶の業火にを焦がせよう。

いかに救いを求めようと所詮神は人を救いなどしない。

この地上に破壊と殺りくをもたらすのも、救いと希をもたらすのも、全ては人の業にすぎぬからだ。

神よ。もういつまでも貴様の好きにはさせぬ。

神よ。お前に本當に力があるのなら貴様の信者を救って見せろ。

神よ。お前は本當は人の生みだした虛構の偶像にすぎぬ。この地上を支配するのは………ただ人の意思あるのみ。

だが人が神を名乗り、その力を行使しようとするならば、それを阻み破滅の鉄槌をくだすのもまた人である―――――――

――――――――悪魔ドラクルの役目だ。

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