《彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版》第三十二話 クロスクルセイドその2

最初に戦略的優位に立ったのはヤーノシュのほうであった。

彼は対立教皇という隠し札を手にすることによって、ワラキア侵攻の大義名分と教會騎士団をはじめとする多數の援軍を得ることに功した。

しかしこれに対するワラキア公の反撃もまたヤーノシュの予想を大きく裏切るものであり、その対応は熾烈を極めた。

「気でも狂ったか?あの男を大司教になど!」

正教會の総本山であるコンスタンティノポリス総大主教がヴラドを大司教に任命したという報は十字軍兵士に衝撃を與えずにはおかなかった。

自分たちの敵が異教徒であるからこそ、最大限に力を発揮することのできる教會騎士団においてその傾向は顕著であった。

「ワラキアの大司教様は奇跡を起こして天然痘を絶してくれたらしい」

「いや、俺は船乗りの壊病を癒したという話を聞いたぞ」

「なんでもワラキアでは一年中保存できる食料が出來て飢えとは無縁だそうだ」

庶民の間で燎原の火のようにヴラドの噂が広まっていくのをヤーノシュは歯ぎしりしたい思いで見守るしかなかった。

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敵國ならばともかく、ここで自國の國民を弾圧するのは飢えた烏賊が己の足を食うことに等しいからだ。

ヴラドさえ倒すことができればこの程度の噂は初秋の霧よりも容易く霧消するだろう。

それにしても不審なのは噂の広まるスピードであった。

聞けばヴラドが大司教に任命されたのはつい先頃の話であるという。

それがすでにハンガリーの全域まで広まっている理由がヤーノシュには思いつかずにいた。

果のほどはどうだい?」

「すでにドイツ諸侯領の同胞にも連絡を送ってある。ほどなく東歐でヴラド公の名を知らぬものはいなくなるだろうよ」

くっくっとしゃくりあげるようにひきつれた聲をあげてジプシーの長老の一人である老人が笑った。

老人の名をコムドと言う。

オスマンの勢力圏の東アルメニア出のジプシーでロムとも呼ばれている。老人の向かい側に座る初老の男はカリガと言ってロマと呼ばれる歐州ジプシーの最大勢力の頭目の一人であった。

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一口にジプシーといっても、実は出や民族によって各種の勢力に分かれているのだが、今回のワラキア宣伝戦にはその異なるジプシーが一堂に會して力を合わせていた。

なぜならワラキアが與えたジプシーへの保護はワラキア國だけではなく、ワラキアと友好関係にあるヴェネツィアやジェノバといった商人國家とオスマンの勢力圏におけるジプシーの安全を確保する意味で絶大な力を発揮していたからだ。

そればかりか宗教的な忌のないジプシーはいち早くヴラドの進んだ醫療知識を取りれることで犠牲を最小限にとどめることに功している。

同胞の伝手を手繰ってヴラドのために働くことは彼らにとって貴重な知識と保護を與えてくれたヴラドに対する恩返しの一つでもあったのである。

當然その熱意は潛在的な一大勢力であるジプシーの力の結実として発的な報力に表れていた。

「ワラキア公が聖アンデレの使徒であることを近々総大主教が認めるかもしれないという噂が勝手に広まりつつあるらしい。我々の宣伝が下々にまで浸した証とみて間違いなかろう」

「ヤーノシュ公の慌てる顔が目に浮かぶようじゃな」

彼らはジプシーという漂泊民を報の伝達に利用しようとしたヴラドの発想の卓抜さに嘆の念をじえなかった。

こうしてお互いに利用する価値があるかぎり、ワラキアとの友好は続くだろう。

ただ一方的に上から保護を與えられているというだけの狀態より今のヴラドとジプシーの関係はよほど健全な狀態にあるといってよい。

だからこそ彼らはヴラドとの友誼を守ろうと努力するのだ。

「――――悪いがわしらもせっかく手にれた上客を見捨てるわけにはいかんでな」

刻一刻と失われていくワラキア公への敵愾心にヤーノシュが取りうる策は月並みだが教皇の勅命を掲げることしかなかったが、その効果がなくなるまでそれほど多くの時間は殘されていないようであった。

ヤーノシュのもとに屆けられた悪い報せはそれだけでは終わらなかった。

「小麥の価格が倍近く値上がりしているだと………?」

戦爭という一大消費によって穀の価格があがるのは決して珍しいことではないが、それでもこの短期間に二倍に跳ね上がるのは異常であった。

十字軍の主將としてその補給にも気を遣わなくてはならないヤーノシュにとってこの報せは青天の霹靂であったと言ってもよい。

なまじ大軍を員したためにその消費する食糧も莫大なものに上っていたからである。

下手に長期戦になった場合戦爭に勝っても國家経済が破たんするという目も當てられない事態になりかねなかった。

いや、今後さらに価格が上昇するとすればそもそも戦闘の継続自が不可能になるであろう。

「國家危急の事態だぞ。買占めた商人を捕えて厳罰に処せ!」

いかに自國の商人であろうとも戦爭の障害となるものを見逃す理由はない。しかし報告に現れた宮廷の書記は深く頭を下げたまま震える聲で非な現実をヤーノシュに告げなくてはならなかった。

「それが買占めの商人のほとんどはトランシルヴァニア商人とヴェネツィア商人でございましてすでに穀の大半は國外に持ち去られております」

クーデター同然に掌握したハンガリー宮廷でヤーノシュが國外に離れていたことが災いしていた。

価格の上昇に気づいた役人が事態の実相を把握したときにはすでに穀は國外に運び出された後であったのである。

初春でまだ収穫期に時間がかかることを考えれば最悪今後4倍5倍という価格も覚悟せねばならないかもしれなかった。

財政を管理する僚たちが冷や汗をかいてヤーノシュに報告に訪れたのは當然の帰結であった。

國家財政の規模においてハンガリーはワラキアに數倍するのだが、北部ハンガリーとの戦とその後の政変、そして粛清が財政の健全さを損なってしまっていたためにこれ以上の財政出は厳しい狀態にあった。

戦場を遠く離れていながら、すでにしてワラキアとの戦爭は始まっていることをヤーノシュはようやく実した。

「…………どこまでも卑劣な男め。戦わずして利を貪ろうてか」

歴史上経済戦爭の萌芽がなかったわけではない。

塩をはじめとする生活必需品の輸出停止をしたり、輸品に高い関稅がかけられることもあった。

しかし戦爭前にあらかじめ敵國の穀を買い占めるなどということは想定の範囲外である。

戦爭という経済行為は國家の力を著しく消耗させるものであるために、食糧は現地調達に頼らざるを得ないのが通常であり、それはナポレオン以後の通手段が発達するまで変わることはなかった。

そのような言わば金の無駄つかいを、しかもヴェネツィアをはじめとする多國籍間で行うなど、ヤーノシュに言わせれば暴挙以外の何でもなかった。

「………しかし厄介なことではあるな」

十字軍に參加している諸侯は永遠にヤーノシュのもとにいてくれるわけではないし、また居続けてもらっては困る部分も存在する。

なんとなれば軍隊というものは戦っていない狀態であってもとかく問題を起こしがちな存在であるからだ。

経済的に長期戦を戦うことが困難になった以上ヤーノシュは戦ってこの事態を打開することを決斷した。

自重よりも果斷さこそがヤーノシュの傭兵時代から彼を勇將たらしめた幹であった。

「出陣だ!」

大喝するヤーノシュの前にトランシルヴァニアでの虜囚生活でやや頬のこけたラースローが進み出た。

「父上、何卒このラースローに復仇の機會を」

「よかろう、我とともに帷幕に同行せよ。マーチャーシュはこのまま宮廷に殘れ」

確かにヴラドの打ってきた手は有効なものであるかもしれない。

しかしその程度の小細工で覆せるほどヤーノシュの作り上げた戦略的優位が甘いものであるはずがなかった。

「思い知るがいい。今度こそ神罰の裁きをけよ悪魔ドラクルめ」

「やはりいたか」

意」

シエナからヤーノシュ來るの報をけた俺は思わず瞑目した。

想定どおりとはいえ乾坤一擲の戦いが目前に迫ったことに対する慨がこみ上げてきたのだ。

負けるつもりはないが、かといって確実に勝つと言えるほどの勝算がないのも確かであった。

「殿下、出陣の準備整いましてございます」

「うむ」

ワラキアが員した兵力は五千、十字軍の総數二萬余には遠く及ばない。

しかし訓練に鍛えられ、無條件に信頼できる鋭常備軍を主軸とするその雄姿は、史実のヴラドがついに手にれることのできなかった珠玉の寶である。

彼らを腹心にもてたことこそが我が誇り。

これで勝てないならば所詮オスマンを相手に勝利を収めるなど癡人の夢でしかあるまい。

「妾の運命は我が君とともにある。ならば妾のために勝て!それが男の甲斐と言うものぞ!」

いつの間にか隣に並んだヘレナが莞爾として笑う。

悲壯の欠片もないが、固い決意がみなぎったヘレナの強い眼差しに思わず口元がほころぶのが自分でもわかった。

この誇り高いは己に誓った言葉の通り、本気で俺と命運を共にする気なのだろう。

ローマ帝國の姫君としていくらでも良縁をめるにもかかわらず………。

「よかろう。ヘレナの伴たるの力を見せてやる」

ヤーノシュは正しく當代の名將である。

しかし神の代理人として聖戦を指揮することを強いられてしまったために、必ず勝利することを義務づけられてしまってもいた。

俺にとってはこの戦いが引き分けであっても一向に問題はないが、ヤーノシュには教皇に対して勝利の報告をしなくてはならぬ責任があり、また己の権力基盤であるトランシルヴァニアを取り戻せなければ決して勝利の酒に酔うことはできまい。

その心理的なストレスこそがヤーノシュに俺が勝利するためのもっとも大きなアドバンテージなのである。

――――――だが………。

自分の中で重みを増しつつあるヘレナというに対する責任と、ヤーノシュへの勝利の功績をもってラドゥの返還を求めたいという打算が俺の中で増するウィルスのように比重を増していることも確かであった。

ヤーノシュだけにあるかと思われた心理的負擔は俺にとっても決して無縁のものではなかったのだ。

「―――――ままならぬものだな」

どうかこのけない兄の勝利を祈ってくれ、ラドゥ。

長く顔を合わせていないただ一人のをわけた家族の顔が、俺の脳裏にふと浮かんで消えた。

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