《彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版》第三十四話 クロスクルセイドその4

トランシルヴァニアとハンガリーの國境の街、オレディアを西に向かうとフォルデスという小さな町がある。

緩やかな丘と平野に囲まれたそこは平時であればのどかで穣な大地に他ならなかったろう。

しかし、今やそこは東歐における戦の中心であり、東西のキリスト教徒がを洗う闘爭を繰り広げる運命の場でもあった。

後の世にフォルデスの戦いと呼ばれることになる一連の戦いは近代にいたるまでの數百年を全く別の名で呼ばれていた。

………………煉獄の戦い、と。

「ずいぶんとまた気張ってくれたものだな」

「一萬五千といったところでしょうか」

ヤーノシュは総勢二萬余に膨れ上がった遠征軍を二手に分けた。

あえて戦力分散の挙に出たのにはわけがある。

寡兵であるワラキア軍が十字軍に勝利するためには野戦築城の防力によって戦力差を覆す以外にはない。

しかし前回苦杯をなめた野戦築城に対し、正面から攻撃を仕掛ける愚を犯すつもりはヤーノシュには頭なかった。

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いかにワラキア軍が工兵能力に優れていたとしても、進撃する全ての戦力において築城をこなすのは不可能であろう。

結局のところワラキア軍は巣から出て迎撃に転じざるをえない。

そうでなければ十字軍は有力な防施設はあえて素通りし、警戒の兵だけを殘してトランシルヴァニアの首都を目指すだけだ。

圧倒的多數の兵力を擁するヤーノシュにとってそれが最良の戦略であるはずだった。

これに対し、ヴラドは分派されたドイツ騎士団を主力とする支軍にタンブル率いる一千を當て、殘る全軍をヤーノシュ率いる主軍に向けた。

立てこもっても相手にされないならば打って出るしかないというのはヤーノシュの想像した通りであった。

しかしヴラドに全く勝算がないというわけではない。

すでに北部で南下の構えを見せているヤン・イスクラに備えるため、ヤーノシュは本國に五千の兵を待機せざるをえなかったし、ヴラドの大司教就任の報を聞いたドイツ騎士団は戦意のあがらぬこと著しかった。

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要するにヤーノシュの本隊さえ撃破できれば容易く勝利を得ることは可能であった。

ヤーノシュ率いる十字軍一萬五千はオーソドックスな諸兵科連合である。

ハンガリーの誇る重騎兵に加え軽騎兵と歩兵がバランスよく配置されているが、歩兵の中核は傭兵でありその結束力は弱かった。

対するワラキア軍は常備軍の銃兵を中心にネイ率いる竜騎兵部隊が両翼を固める。その數は四千程度で十字軍の三分の一にすら満たない。

「ヴラドよ、今度こそは逃がさんぞ」

ヴラドの本隊を捕捉したヤーノシュはこの機會に絶対にヴラドの命を奪うつもりでいた。

戦いに勝利するのはもちろんのことであるが、ヴラドの命さえ奪うことができればワラキア軍などいくら逃げだしても問題はない。

もとより小國で豪族の連合にすぎなかったワラキアなど、ヴラドという支柱が倒れれば自然に崩壊することは確実なのだ。

今回はあの厄介な鉄線も壕も柵もない以上、兵力の差がそのまま戦力の差になるはずであった。

―――――唐突に戦場に調べが流れ出す。

天にまします我らが父よ

汝が子らに祝福を與えたまえ

そして汝に徒なす悪魔に罰をくだし、

我らが勝利の喜びを分かち合うことを許したまえ

Amen

ゾクリと本能的に背筋が震えた。

戦闘の開始前に讃歌を歌うのはフス派の十八番である。

教會騎士団も聖歌隊を連れてくることはあるが、全軍で賛歌を合唱するということはない。まさかそれをワラキア軍が始めるとは。

「あ、悪魔だ―――――」

「俺たちはまだ死にたくねえ………」

もともと戦意の低い傭兵たちに恐慌が生じたのはそのときである。

彼らはフス派の団結の強さとその狂信的な粘り強さを數々の戦場で目の當たりにしてきた。1431年8月――――強をもってなる教會騎士団を含めた十字軍が天地に響けとばかりにこだまするフス派の讃歌を聞いただけで戦わずして解してしまったことは彼らの記憶にも新しかった。

ワラキア軍はおおいに士気を向上させ、十字軍が目に見えて委するのを見てとったヤーノシュはこの恐慌が壊に移らぬうちに戦局をかす必要があることを長年の戦場勘でじた。

「恐れるな!神の祝福は我らにこそあるのだ!」

幸い主力であるハンガリー軍はヤン・イスクラと何度も戦った経験があり突然の讃歌にも揺した様子は見られない。

ヤーノシュはたのもしそうに頷くとともに信頼すべきハンガリー軍の突を命じた。

躙しろ」

「來ましたな、シェフ殿」

「ま、ここで來なけりゃ負けるしな」

さすがに傭兵たちが逃亡する前に出撃を決斷したヤーノシュの采配は正しかった。しかしそれはワラキア軍にとっても想定もうちであり、ゲクランはもとより野戦指揮としてのヤーノシュを過小評価してはいなかった。

スルスルと軽裝の歩兵が突撃するハンガリー騎兵の前に進み出る。

集槍歩兵でもない彼らが騎兵の前に姿をさらすのは自殺行為以外の何でもないため、ヤーノシュは不審に思ったものの、突撃に移った騎兵を止めることは今さら不可能である。

(いったい何をするつもりだ………?)

ヤーノシュの不審をよそに、わずか五十名ほどの歩兵はどうやら陶らしい壺を棒のようなものにくくりつけたものをいっせいに前方に向かって投擲した。これを見て馬上の騎士たちは嘲笑う。

投槍や長弓、場合によっては投石でも重裝の騎士が傷を負うことはあるがいくらなんでも陶ごときでは傷ひとつつくまい。悪魔の知能は所詮その程度のものということか。

彼らの嘲笑が大音響とともに凍りつくまでなお數秒の時間が必要であった。

ドゴオオオオオオ!!

耳をつんざく裂音とともに騎士たちの鼻面で紅蓮の花が咲いた。

棒にくくりつけられた壺にしか見えなかったそれは、舊ドイツ軍が使用し連合軍に恐れられたポテトマッシャー型の手榴弾に酷似していた。

大音響と風、そして破片によって無防備な馬が相次いで崩れ落ちる。

落馬した騎士たちはその重裝備が徒となってしかかたかにをうちつけ呼吸困難になって悶絶した。

さらに追い打ちをかけるように整然と進み出た銃兵が一斉撃で騎士たちをなぎ倒す。

史上初めて戦線に投された手榴弾によって一気呵にワラキア軍を躙しようとした騎兵の突撃は完全に停止した。

「取りすな!見かけほどの力はない!」

咄嗟に最前線で混する兵を掌握する手際はさすが名將の名にふさわしいものだったが、実のところヤーノシュもまた揺にび出したい衝にかられていた。

悪魔め

悪魔め

どこまで崇高な戦爭を変えてしまえば気が済むのだ!

いかに策をめぐらし、相手の意表をつき、伏兵の罠にはめようともそこにはともに命を賭けるだけの価値が存在した。

しかし騎士の誇りを全て嘲笑うようなあのヴラドの戦い方はその価値を貶めるものだ。

戦いの主役が騎士ではなく、農民でも容易く扱うことのできる武に変わってしまう。思えばフス派の連中の戦い方も同じ延長線上にあった。これだから異教徒の考えることは度し難いのだ!

「左右の両翼をばせ!奴らに兵の湧きだす魔法の壺はないぞ!」

そう、わずか四千程度の小勢。

どれだけ華々しい武で目をくらまそうとその事実はかない。

いくら兵どもが死のうともヴラドさえ殺せれば最後の勝利者は自分だ。

悪魔ドラクルよ、我の前にをさらして余の栄の糧となれ!

指揮が最前線に進出したことはもとより練度の高いハンガリー軍が立ち直るのに十分な効果を発揮した。

それでもなお再編には數十分の時間を必要としたが、ようやくにして再び十字軍はワラキアに破滅の顎を開けようとしていた。

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