《彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版》第四十三話 決別の日
ハンガリー王國首都ブダは溫泉が多いことでも知られている。
ブダの北部のアクインクムには古代ローマによって築かれた浴場の跡が現代にまで殘存しており、その名にあやかった溫泉が數多く稼働していた。
その溫泉のなかのひとつでゆっくりと湯につかりながら俺は日本人であった風呂好きの本能を心行くまで満足させていた。
「――――たまらん。やはり溫泉は日本人の魂の極みだよ」
どこかで白髪のチルドレンが言いそうな言葉を呟きつつ俺は手足をばし、まるで無重力空間にいるような開放に酔う。
溫泉の主分がから沁みこみに活力をみなぎらせていくようだ。
瞳を閉じ、大きく息を吸って溜まりにたまったストレスと老廃を吐き出そうとしたそのとき、俺の耳は信じられない聲を聞いた。
「やはり浴場はローマ式に限るのう………」
まさかのヘレナ參戦である。
し、しまった!俺としたことが混浴の罠に気付かなかったとは……!
きっとあの瀟灑なアサッシン侍は場の外で會心の笑みを浮かべていることだろう。
「そんなに見つめられると妾でも照れるではないか………」
大切な部分はしっかりと布で隠しているものの、ようやくらしい丸みを帯びてきたは次第にとしての香を放ち始めていた。
さすがにするほど長してはいないが、スキンシップをためらってしまう程度にはヘレナをとして意識せざるをえなかった。
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「………すまぬの。もうじきサレスに負けないほどが育ったら心ゆくまで見せてやるゆえ」
(悪いけどその日は一生來ないよヘレナ………)
「何か言ったかの?」
「イイエナニモ」
ちゃぷんと水音を響かせてヘレナが俺の隣に寄り添う。
ヘレナの小さな頭が俺の肩にことりと置かれて、安心したようにヘレナは肩の力を抜いた。
「それにしてもなかなか厄介なことになったものだな」
「敵もどうして馬鹿じゃないってことさ」
ハンガリー占領にトゥルゴヴィシテの反鎮圧、ワラキアの運命を左右する危機にオスマンの介がなかったことは僥倖であったが、だからといって何もなしには済まなかった。
1449年8月、オスマン帝國は突如として10萬の兵を員しセルビアへと侵攻を開始したのである。
ハンガリーという目の上の瘤が取れたのをみすみす見過ぎすほどオスマンも甘くはなかった。ザワディロフ一黨の処分とハンガリー統治に全力を注がなくてはならない俺に為すはなかった。
セルビアを統治するジュラジ・ブランコヴィチは決して無能な政治家ではなかったがもともとセルビアはワラキアに勝るとも劣らぬ貴族の連合國家である。圧倒的多數のオスマンを跳ね返すだけの結束もなく、降伏の條件づくりをしているうちに味方に裏切られて暗殺された。
他人事でないだけに全く笑えない。
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さらにオスマンはセルビアを躙するだけにとどまらず屬國扱いであったボスニアを併合、完全に領國化してしまう。
セルビアとは対照的に孤軍闘しているのがアルヴァニアである。
スカンデルベグことジェルジ・カストリオティがオスマンの大軍を數鋭の騎兵で蹴散らし十分の一の戦力で堂々と正面から渡りあっていた。
國土を焦土化してゲリラ戦に頼らざるをえなかった史実のヴラドよりおそらく戦指揮能力は高いだろう。同等の戦指揮を探すとすればヤン・イスクラかフランスのリッシュモン元帥、あるいは今は亡きヤン・ジシュカくらいであろうか。
アルヴァニアとて土著貴族の連合であることは変わらないのだが、君主のカリスマが天元突破しているせいか國の揺は見られない。おそらくスカンデルベグ健在なかぎりあの國を占領することは難しいだろう。
それでもなおジリジリと國土を浸食されることを防ぐのはスカンデルベグにすら不可能であることを考えれば真に恐ろしいのはやはり超大國オスマンであるというべきなのかもしれなかった。
直接の支援は今のところできないがヴェネツィア商人をかして補給を支援しているのであっさり滅ぼされるようなことはないのが救いである。
ヴェネツィアは全面的にというわけではないがハンガリーの敗北をけて親ハンガリー勢力が大幅に削減され元老の過半數は親ワラキア派で占められることになっていた。
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もちろん理に聡い彼らのことである。信用しすぎるのは危険だろうが當面ワラキア寄りの政策を実行してくれるのはありがたい。
いずれオスマンと対決するためには彼らの経済力と海軍力は是が非でも味方につけておきたいのが本音であった。
「………味方が減っていくな………」
「小なりとはいえボスニアはアドリア海に面した港灣を有している。下手にオスマンがイオニア海を越えて地中海に艦隊を展開するようなことがあればヴェネツィアやフィレンツェも當てにはできぬやもしれぬ」
「まあ、今のところコンスタンティノポリスを超えてオスマンが大艦隊を派遣することは不可能だろうがな」
もっともそれは常識人であるムラト2世であればこそ。メフメト2世が即位すればそんな常識はどうなるか予斷を許さない。
「ハンガリーの統治に軍の拡充、さらに海軍の新設か。いったいいつになったらゆっくり休めるのやら」
政務に軍務に長距離の移と休まる暇もない激務の毎日である。
いささかげんなりと鼻まで湯につかった俺に突然ヘレナがばしゃりと湯を跳ね飛ばして向き直った。
「忙しいばかりでなくや、や、休むことも大切じゃぞ?とと、特に夜などは神的にも解放されて自由でいなくてはならん!」
「最近は毎晩ヘレナがいてくれるから助かってるよ?」
なし崩しに同衾している俺を笑いたければ笑え。
ヘレナの小さくて溫が高めのは最高の抱き枕なのだ。
「そ、そうではなく……じゃな。もっとこう……神的な充足と的なを解放するというか………」
「おいおいヘレナ、いったい何を言い出すんだ?」
とか小さいの子が使っちゃいけません!
というかさっきから涙目で顔を赤らめてるヘレナがとても心臓に良くないんですけど!
「――――――初が來た」
「ぱーどん?」
所長?署長?も、も、もしかして初ですか??
慌ててヘレナからを話すと溫泉に浸かって桜に上気したヘレナのと膨らみかけのささやかな元があらわになる。
いかん!見るな!これは孔明の罠だ――――!
「だ、だ、だから妾ももう大人なのじゃ!これからは我が君も妾をちゃんと大人扱いしなければならんのじゃ!もう子供扱いして頬にキスくらいでは誤魔化されぬ!」
「思いっきり子供じゃねえか!」
ヘレナのお子様理論に一瞬でもドキリとした自分が馬鹿に思えてるから不思議だ。よかった!人としての道を踏み外さなくてすんで!
「ち、違うのじゃ!こんなはずでは!た、た、確かサレスの教えでは!?」
がばっと全で當たりをするようにヘレナが俺のに抱きついてくる。
一度は落ち著いたはずなのにヘレナのらかいのとささやかでも弾力の富んだのが直接越しに伝わってくると下半にイケない衝が走るのを抑えることができない。
「え、え~~~と……………優しくして?」
「何教えとんじゃあのメイドはああああああ!!」
そのころ溫泉の口で主君の雄びに何事かと駆け付けようとした護衛の衛士は瀟灑な侍の細腕で気絶させられていた。
「く、クォ・バディスゥゥゥ!!」
ソロスはイワンと並ぶワラキアの外である。
弁舌と渉にはなからぬ自負を持つこの男をしても目の前の男と言葉をわすのは非常に多大な神力を必要とした。
もっともおそらく遠い東の大國明を除けば世界最強の権力者であろう、オスマン帝國スルタン、ムラト2世を相手になんら神的重圧をじないものもいなかったであろうが。
「我が主ヴラド・ドラクリヤはハンガリー王ヤーノシュを討ち取り、現在はブダにおいて王國のに努めております。しかしながら先ほども申し上げました通りワラキア國にはいまだ我が主に逆らう不逞の輩も多く………」
ソロスは自分を送り出したときのヴラドの懇願するような、祈るような複雑な表を思い出す。言葉にこそ出さなかったが何としても役目を果してくれと言いたかったに違いなかった。
「さらには神聖ローマ帝國もハンガリーを奪わんと蠢している様子であり我が主もなかなかにブダを離れることが出來ません。ゆえに……」
ソロスは靜かに、しかし渾の神力を籠めて言葉を吐き出した。
「我が主の最も信頼を置く実の弟、ラドゥ殿下をワラキアにお返しいただくことをお願い申しあげたく陛下のご寛容におすがりする次第」
ムラトは失禮にならぬ程度に決然とした視線をそらさずに送り続けるワラキアの使者に一定の評価をした。
超大國の頂點に立つムラトを相手にまともな渉のできる人間は數ない。なかなかにヴラドのもとには有能な部下がそろいつつあるようだ。もっともそうでなくしてオスマンですらてこずったヤーノシュを倒すことなどできるはずもなかった。
――――――ふむ、悪くはない。
オスマンにとってラドゥの価値はヴラドのスペアであるにすぎない。
ヴラドがヤーノシュを相手に戦死でもすれば出番もあったであろうが、最大の宿敵がいなくなった今ヴラドを実力で倒せる相手は見當たらなかった。あとは子供のいないヴラドが病死、あるいは暗殺された場合だが、それならラドゥがワラキアにいたとしても問題はないはずだった。
何よりムラト自がヴラドは敵に回すことなく味方に取り込みたいと考え始めていた。
せっかくヤーノシュがいなくなってくれたのに、ヤーノシュ以上に手ごわい強敵が立ちふさがったのではオスマンにとって何も益がない。
「こたびのワラキア公の戦勝、帝國にとってもまこと重畳なこと。これに報いるに帝國の恩義を知るラドゥ殿下をもってすることもまた陛下のご威の賜かと」
宰相であるハリル・パシャがムラトの判斷を後押しする。
ムラトの見るところラドゥは兄ヴラドほどの量はなく、ヴラドが健在である以上利用価値のないように思われたのである。
ムラトが口を開き、ラドゥの帰國を認めようとしたそのとき、
「お待ちください――――――!」
朗々と張りのあるバリトンが響き渡る。
ムラトの前に大きな軀の禿頭の男が進み出た。
「ラドゥ殿下は私が後継者に育てたいほどの逸材、オスマンにとっても有用な稀有の人材でございます。何とぞ陛下にはご賢察を賜りますよう……」
余計なことを、とソロスは舌打ちしたい気分であったが軽くその男を睨みつけるにとどめた。
特に役職こそないが、その比類ない學識でオスマン宮廷に多大な影響力を及ぼしているその男をソロスはよく承知していた。
「ラドゥがそれほどの期待を寄せられていたとは寡聞にして知らなかったな、メムノン」
ムラトは脳で計算をめぐらせる。
はたしてラドゥはここでヴラドの要請を斷るに足るほど役に立つ男であったろうか?もしそれだけの力があるならオスマンで育てるに吝かではないのだが。
「ラドゥ殿下に過分な評価をいただき臣としても喜びに耐えませぬ。しかし今こそワラキアにとっては肝要な時。ぜひともラドゥ殿下の力を頼らせてくださいませ」
このままメムノンの言うとおりラドゥの柄を押さえられてしまってはたまらない。ソロスは必死にムラトに向かって食い下がる。
「―――――それにラドゥ殿下は皇太子殿下も近習にとおみゆえラドゥ殿下自にとってもこのまま我が國におられたほうがおのためかと」
「…………メフメトが」
ムラトは苦そうに顔を顰めた。
世界最強を自負するオスマン帝國のスルタンであるムラトにとって、唯一苦手なものがあるとすればそれは息子であるメフメト自にほかならなかったであろう。
ムラトはメフメトの才幹自はほども疑っていない。
ただメフメトの強い自己顕示がオスマンを危ういほうに導くのではないかと危懼しているだけだ。
若干12歳のメフメトに政治を任せ余生を送るつもりになっていたムラトはその後の歐州の介とメフメトと重臣たちの不和によってメフメトを退位させ再びスルタンの座に登極せざるをえなかった。
いわば自分の我がままで息子に生涯消えぬ恥をかかせてしまったに等しい。この事実はムラトのに消しきれぬ息子に対する負い目を刻みつけていた。
「陛下!どうか殿下を………!」
「すまんがラドゥは我が國に必要な人材であるようだ。ヴラド公には必ずや埋め合わせはすると伝えていただこう…………」
退位してマニサに赴けと伝えたときのメフメトの屈辱にゆがんだ顔をムラトは今でも忘れることができない。そのメフメトが見出した部下を手放すように伝える勇気をムラトは持つことができなかった。
ソロスの必死の嘆願もむなしくラドゥはイェニチェリの一員として將來の幹部候補として育されることが決定したのだった。
宮廷から1キロほど離れた場所にモスク風の重厚な造りの宿舎があった。すでに夜も更け、ろうそくの明かりすら見られなくなった暗闇で、一人の男が足音ひとつたてずに軽やかなのこなしで宿舎の2階へとを躍らせた。
「…………殿下………ラドゥ殿下目をお覚ましください!」
「誰です?」
「私はヴラド公に仕える者。殿下の命にてラドゥ殿下を國外にお連れするようにと申しつかっております」
男の名をハリムと言う。
シエナの古い部下で、まだヴラドたちが人質としてエディルネに滯在しているころからオスマンにもぐりこんだ間諜であった。
「それはできません………」
兄がのばしてくれた救いの手をラドゥは悲しげに首を振って斷った。
今ここでラドゥを連れ出すということはオスマンとワラキアの全面戦爭を発しかねないことである。
人質を勝手に拐されて黙っているほどオスマンは弱な國家ではない。目の前の間諜がどんな手段を用意しているのかわからないが、ラドゥほどの立場の人間を今後隠しきることもワラキアには不可能であるはずだった。
「殿下によく似た死を用意しております。事故にみせかけて死んだとみせればいくらかなりと時間が稼げましょう」
「あなたはオスマンという國を見くびりすぎている。兄さまにお伝えください。どうか陛下への恩義をお忘れなきようにと」
ラドゥたち兄弟が命あるのはひとえにムラト2世陛下の溫のおかげなのだ。どんな理由があったにせよラドゥはその事実を本気で信じていた。
「…………ならばやむをえません。殿下にはここで死んでいただく!」
「それは兄さまのご意思ですか?」
「いいえヴラド殿下は真実貴方を救いだそうとしておられる。しかし我々臣下にとってラドゥ殿下、貴方という存在は危険すぎる!貴方が生きているだけでワラキア公は親のと君主の責務の板挾みに苦しみ続けるのです!」
敵には驚くほど冷酷になれるヴラドだが、その実味方の人間にはとろけるように甘い。まして唯一の親であるラドゥに対するの深さをシエナをはじめとするヴラドの腹心は十分によく承知していた。
この場で殺せなくとも、國外に連れ出したら人知れず殺して埋めるようにハリムはシエナから命令されていたのである。
ソロスが柄の確保に失敗したならばいかなる手段を用いてもラドゥを殺せというのがオスマンのワラキア工作員に命じられた最優先命令であった。
「………私という存在は兄さまにとって邪魔なのですか……」
斷腸の思いとともにラドゥは誰にともなくつぶやく。
漠然とではあるがそんな予はしていた。
「しかり。殿下たちがいかに互いを思い合っていようともはや立場が違うのです。覚悟を!」
「そうはいかん」
「なにっ?」
ここで初めてハリムは自分が罠に飛び込んだことに気づいた。
自分が気配をつかめぬほどの手練にいつの間にか部屋は取り囲まれていたのである。
せめてラドゥの命だけでも奪おうときだすハリムのこめかみを、弩から放たれた矢が目にもとまらぬ速さで串刺しに貫いた。
痛みをじる暇すらなくハリムは糸の切れたり人形のように前のめりにラドゥの足元へ崩れ落ちた。
「だから言ったのです。貴方はオスマンを見くびりすぎていると」
冷めた瞳でハリムが絶命するのを見屆けたラドゥを、暗殺者たちをひきつれてやってきたメムノンが子犬をいたぶる小僧っ子のような楽しそうな笑顔で肩を抱いた。
「これでわかっただろうラドゥ。あの悪魔とお前が手を取り合う未來などこの世のどこにもありはしない」
あの日兄と別れたときに漠然とこの日が來ることを予していた気がする。この世でただ一人の親。優しく、強く、そして本當は誰よりも弱い大切な兄。
いつかあの兄の役に立ちたかった。
願わくば兄弟ともに故郷で楽しく笑いながら暮したかった。
ただ兄のそばにいるだけで幸せだった。
しかしその夢が葉うことはない。
何より兄の部下たちが決してそれを許さないことをハリムははからずも証明していた。
いったいいつから自分と兄の距離はこんなにも開いてしまったのだろう……。
「お許しください兄さま。私は貴方が恐れていたものになります―――――」
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