《帰らずのかぐや姫》其の二 2

同日の夜、典は翁の家にいた。出會ったその時から何やら翁に気にられた典は度々この家を訪れている。最も多いのは翁との世間話だが、ほとんど同じくらいかぐやの稽古にも付き合わされていた。そのためか、ふたりは隨分と仲良くなり、男の云々というよりも悪友のような付き合い方をするようになっている。

典は翁の家に居るが、いつもならこんな遅い時間まで邪魔にはなっていない。では何故か、というと、至極簡単な理由である。ただ単に典が寢てしまい、人のよい翁がそれを起こさずにおいた、という、ただそれだけのことだ。幸い翁が、同じくいつの間にやら同じく仲良くなっていた典の主に使いを出してくれていたので怒られることはない。

起こさないどころか寢やすいように周りの環境や音まで気を遣ってくれたので転寢は夜の睡眠ほどしっかりとしたそれに変わった。しかしおかげで中途半端な時間に典の目はすっかり冴えてしまっている。とはいえ今更家に帰れるはずもないので、典は寢てしまっていた部屋のすぐ前にある庭に出て剣を振るうことにした。

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何度も何度も繰り返し基礎的な作を繰り返していると、次第に汗の玉がの表面に浮き上がってくる。もうし若い――い頃は派手な技ばかり覚えたがっていたが、いい加減嫁をもらえとあちこちでしつこく言われる年になってくると基礎の大切さというのが理解出來てくるものらしい。最近は基礎を磨くことが趣味になりつつある。以前かぐやにも「基礎が出來ているからなかなか崩せない」と心された。

「16、17の小娘にあっさり負ける日が來るとはなぁ……」

初めて手合わせした日のことを思い出して典はぼそりと口に出してしまう。強いのは分かっていたのだが、ある程度自の腕に覚えがあった典としては、立ち會い後數分で地に伏せさせられるとは想像だにしなかった。確かあの時は、呆然としていた典に翁と嫗が真っ青な顔をして平伏しひたすらに謝ってきたのだ。

「いやはや、誠に典殿にはご無禮の數々をいたしておりまして」

「そうそうこんなじに――えっ?」

驚きばかりが印象に殘っている思い出に浸っていた典は、思わず相槌を打ってから聲の主を振り返る。そこには記憶と同じ相手――翁が、縁側に腰掛けていた。

「つっ、造麻呂殿? 申し訳ない、うるさかったでしょうか?」

剣を腰に納めて典は和な笑みを浮かべる翁に頭を下げる。分としては典の方が高いのだが、得た財を惜しみなく人のために使い日々徳を重ねるこの家の老夫婦には頭が上がらないのだ。

「ほっほっ、とんでもない。今日のような日はどうも眠れませんでな。むしろ無聊をめていただきましたぞ」

穏やかに微笑んだ翁に、典は安心した様子で笑い返す。すると、翁は良い事を思いついたと言わんばかりに手をぽんと打った。

「おお、そうだ。今日は家の者が皆沐浴をしたので湯が殘っております。典殿、よければこの老骨に背中の一つ流させてはくれませんかの?」

今日は、と言っているが、この家はほぼ毎日湯が沸かされる。原因は言わずもがな、毎日汗をかくほど暴れ回っているじゃじゃ馬を綺麗にするためだ。本人は水でもいいらしいが、周りがそれを許さない。

現在同じ理由で湯を浴びたい典としてはありがたい申し出なのだが、翁に背中を流させる、というのが気が引ける。そしてそのまま遠慮を口にするが、翁に何度もわれ、ついに折れて湯殿まで同行することになった。

人が増えたため改修したのだという湯殿には直前まで人がいたのか湯気が満ちており、心地よい溫かさに思わず短いため息がもれる。

「よろしいですかな?」

「はい、かたじけない」

桶に汲んだお湯が背に流された。もったいない使い方だと思わないでもないが、この家では當たり前なのならば典がとやかく言う話ではない。それに、正直な話気分がいい、というのも口を噤む理由ではある。

お湯で濡らした手ぬぐいで背中をこすり始めると、同時に翁は口も軽く喋り始めた。この老人は存外お喋り好きだ。

「そういえば典殿はご結婚はされないのですか?」

……たとえばこんな話題。

「……ごほっ。あー、考えぬわけではないのですが、何分不調法者でして。との関わりはあまり」

いつもならはぐらかして終わりなのだが、この狀態では逃げづらい。仕方なく本音に近い答えを返す。

「おやおや、ではこの老骨ではなく若い娘の方がよかったですかな?」

「なっ、つ、造麻呂殿ご冗談を――!」

者をからかうようなをにじませた発言に、まさか翁からこのような発言が出るとは思っていなかった典は揺した調子で振り返り――言葉をなくす。

その視線の先にあるのは翁の元。老を包む薄く白い著は湯気の熱とかかったお湯でけ、その下にある大きな傷の存在を明らかにしていた。

「――造麻呂殿、その傷は……?」

思わず問いかけると、翁は元に手をやり、顔の皺を濃くする。

「私の、名譽の勲章です」

それ以上翁は何も言わなかったが、その優しい眼差しから、典は何となく、彼の娘の姿が頭に浮かんだ。

「――失禮ついでにもうひとつ伺いますが、先ほど『今日のような日はどうも眠れない』と仰っていましたが、それは、どのような……?」

気にはなっていたが訊くべきではないと飲み込んだ質問を、典は改めてぶつける。すると、翁は今度は寂しげな表を浮かべ、格子のはめ込まれた窓の外に目をやった。

「……今日のような、満月の日は、です」

呟くような返答に引きずられるように典は窓越しに空を見上げる。そこに煌々として浮かぶのは、今昔の人々が風流な夜の標とする満月だった。

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