「はっけよい！」

河原に、織田三郎信長の聲が響く。

いつもの如く小姓・近習、そして村の悪共を引き連れていた。

若い衆は近くで竹槍合戦をさせて、小姓達に河原で相撲をさせている。

著をぎ、指貫さしぬき（袴はかま）の紐をふんどしの代わりにしての相撲だ。

「ぬう…」

腰紐を取り合い睨み合うのは、今年小姓としてった丹羽萬千代まんちよ（十六歳）と、同じ小姓の長谷川橋介きょうすけ（十七歳）。

「萬千代そこだ！」

信長の母の息子である池田勝三郎しょうざぶろう（十五歳）が聲を上げて応援する。

「橋介、今じゃ！」

小姓の服部小平太（十六歳）も聲を上げる。

あぐらをかいて観戦する信長の周りに小姓達が居て、その後方に笑って見ている塙ばん 九郎左衛門くろうざえもん 直政（十九歳）、福富ふくずみ 平左衛門尉へいざえもんのじょう 秀勝（二十歳）などが居た。

バッシャーン…

まだ冷たい川の中に、敗者が投げ込まれた。

「橋介の勝ちじゃ！」

織田三郎信長は笑って勝者の長谷川橋介を招き寄せると、饅頭を與えた。

おやつ代わりの野菜の饅頭だ。

それをけ取り、橋介は満面に笑みを浮かべて頬張った。

かたや丹羽萬千代は川から這い出て面目無さそうな表で指貫を絞る。

それを見て信長が険しい顔で言う。

「これが戦ならば討ち取られているぞ。もっと鍛えろ」

「ハッ！ 申し訳もございません」

そう萬千代が言った時、くすくす、と何処からか笑い聲が聞こえた。

途端に信長がギロリと目をらせる。

すると皆一様に首を橫に振って〝自分ではない〟と必死に伝えた。

「そんな事は分かっとる。…そこの！」

言い様、信長は素早く小石を草むらに投げた。

すると、ザッと茂みから黒い影が飛び出して宙を舞い、土俵を模した石のの真ん中に降り立った。

見た事も無いような、灰の髪に青い目…。

「！？ の怪かっ！」

驚愕しながらも塙直政、長谷川橋介、利十郎（二十歳）、服部小平太、丹羽萬千代、池田勝三郎（十五歳）、佐々さっさ蔵助くらのすけ（十五歳）などが信長を守るように立つ。

その中で信長は目の前に立つ塙直政と池田勝三郎の足を叩いてどかせ、立ち上がってじっとその者を見據える。

年は十四・五。

灰白かいはくしょくのような明るい銀鼠ぎんねずいろの髪のに、深く澄んだ藍染めのような目の年。

〈やっと出てきたな、森の鬼〉

ずっと自分を付け回していたのは知っているが、今まで一度もその姿を捉えた事が無かった、森に巣食うという鬼。

信長はニヤリとして前に進み出る。

「鬼っ子！ 何用じゃ！」

言われて鬼は、背に掛けた刀を外して土俵脇に置く。

「相撲！ …やるのだろう？」

鬼は無邪気に笑って言う。

「うむ。…相撲がしたくて出てきたのか？」

「うん、一度でいいからぜてしくて。俺、勇気を出して出てきたんだよ、吉法師様」

「勇気？」

「だってさ、ほらーー」

言い終えぬに、

「この鬼めがっ！！」

と塙直政と利十郎が斬り掛かる。

バシャ　バシャーン

一瞬であった。

堀川に投げ込まれたのは二人…塙ばん直政と利十郎である。

「ほら、こうやって斬ろうとするから。だから、一度だけでもと思ったんだ」

そう鬼は悠然と立っている。

その足元には二人の刀が落ちていた。

「あー…泳げるよな？ よし、早くやろう！」

慌てて泳いでいる二人に言ってから、鬼は信長を見て爽やかに笑った。

信じられない事にこの鬼…いや年は、あの一瞬で二人の刀を打ち落として投げ飛ばしたのだ。

〈面白い！〉

かなり鍛えている二人の寵臣を軽くあしらった鬼に、信長は強く惹かれた。

「よしッ！ 蔵助、やれ！」

「は、はっ！」

狼狽しながらも返事をし、佐々蔵助は鬼の前に出る。

鬼の方は著を上半だけぎ、落ちている刀二本を拾って、這い上がってきた塙直政と利十郎に投げ渡す。

二人はそれをけ取り互いに顔を見合わせてから、びしょ濡れの著をいで絞った。

そんな二人を見て、信長は更に目を見張る。

なんと二人の右手と背、脇腹などに痣が三・四ヶ所程くっきりと出ていたからだ。

〈あ奴、あの間に打ったのか！〉

心しながらも信長は土俵の前に立って手の平を軍配代わりに二人の間にれるようにする。

「見合うて〜」

鬼と佐々蔵助は、睨み合いながらも地に片手の拳を付く。

「はっけよぉーい！」

瞬間、両者はドシンと肩をぶつけて互いの腰紐を取る。

〈白い鬼なんぞに負けてたまるか！〉

そう佐々蔵助が決意して足を踏ん張る。が、

「やあっ！」

という掛け聲と共に、宙に舞い倒れたのは佐々蔵助だった。

「鬼の勝ちじゃッ！」

信長は手を叩いて大笑する。

それに対して鬼はムッとして眉をしかめる。

「俺は〝鬼〟なんて名じゃない！　翔隆とびたかって名がある！」

「とびたか？ ふむ…次！ 勝三郎しょうざぶろう、行け！」

「はっ…」

名を呼ばれた池田勝三郎は甲高い返事をして前に出るものの、手の震えをごまかしながら周りを見る。

「若殿から頂いた折角の機だが…萬千代まんちよに譲ろう！」

「えっ？！ …はあ」

丹羽萬千代は驚いて信長を見る。

すると信長は微苦笑を浮かべてうなずいた。

どう見ても池田勝三郎が怖がっているのは分かるので、そこは見て見ぬ振りをしてやり、丹羽萬千代が翔隆の前に出る。

丹羽萬千代はしこを踏みながら翔隆を見る。

よく見れば、自分よりも細いだ。

腰紐を摑んでしまえば投げられる…筈。

〈こんな鬼に負けてたまるか！〉

そう思いながら、拳を地に付ける。

「はっけよぉい！！」

信長の聲と共に互いに肩からぶつかり、腰紐の取り合いをする。

〈取った…！〉

そう思った剎那、宙に舞って川に落ちた。

「強いなぁ、お主…」

見ていた信長が言うと、翔隆は笑って答える。

「修行してるから。…名、教えてよ吉法師様」

「苗字は織田、字あざなは三郎、諱いみなは信長じゃ。吉法師きっぽうしは名だから、もう呼ぶな。お前の苗字と字は？」

「…みょうじ、と、あざな…？」

「にゃあのか？ 〝とびたか〟は諱だろう？ お前が諱を名乗ったから、諱を教えたのだが…」

「え…」

混する翔隆を、信長は不思議そうに見る。

村の悪達でさえも、知っている事だ。

知らぬ筈は無い。

民草には字はある。

なので、〇〇村の太郎、などと名乗るのだ。

しかし翔隆はどう考えても諱…。

諱を名乗る者はいない。

〈角や牙は無さそうだが…〉

思いながら近寄ろうとすると、翔隆は著を直して、刀を手にする。翔隆の視線の先には、警戒している村の子供達が居た。

「なんじゃ…村の鬼共とは遊んでいかぬのか？」

「……」

翔隆は黙って目を反らす。

どうやら、自分が〝鬼〟だという自覚はあるらしい。

信長は笑って言う。

「…また參れ、とみたか」

「 とびたか！ …それじゃあ…」

微笑して、年は風の如く走り去った。

それを見送る信長の側に、乾いた著を著た塙直政が近寄る。

「あの〝とびたか〟という鬼、強うござりまするな」

塙直政の言葉に、信長はフフッと片笑む。

〈とびたか、か……面白い〉