《傭兵と壊れた世界》第百二十三話:忘郷の海
縦桿(かん)のが変わった。明確に、水の流れが変化した。一方向へ進むだけの力強い流れではなく、左右に揺さぶられるようなにリンベルは違和を覚える。川を下っているではない。彼は縦桿を離して天井の覗き窓を開けた。
「なんてこった」
海である。
冷たい風に混じっての香りがした。ずっと川を下っていたはずだが、いつの間にか陸地が遙か後方で途切れており、見渡す限りの暗い海が広がっている。水深も一気に深くなり、その影響でオオイソビツのが遠くなった。
ここは地底の大海原だ。空は相変わらず見えないが、遠くの暗闇に浮かぶオオイソビツのがまるで星空のように輝いていた。何も言われずにこの景を見せられたら夜中の海だと勘違いするだろう。
リンベルは我知らず笑みを浮かべた。いよいよ現実味がなくなってきたようだ。
「へい、ベルノア起きな。こいつは凄いぞ」
彼は船で寢ている研究者を叩き起こした。一応、彼の個室も用意されているのだが、なぜか縦席の椅子で眠っている。揺れが激しいのによく眠れるものだ。
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ベルノアは本當に眠っていたのか疑うほどの勢いで起き上がった。待ってましたといわんばかりに俊敏なきだ。
「よおリンベル。足地に想いを馳せながら迎える朝は清々しいな」
「今は夜だけどな」
「それで何があった?」
「自分で見たほうが早いから外にいきな。大丈夫、結晶風は吹いていない」
ベルノアがばたばたと覗き窓を開けた。覗き窓は基本的に上半だけを船から出して周囲を見渡すための窓だが、そこから天井の上に立つことができる。リンベルがを出すと、ベルノアが隣で仁王立ちをしていた。
「わーお、いいね。足地らしくなってきた。これだけ広大な水量となるとナバイアだけじゃねえ。大陸中の水がここに集まっている」
狩人たちも速度を落として甲板に集まっていた。遠くて表が見えないが、きっと今のリンベルと同じような顔をしてるのだろう。もしも學士たちが生きていれば騒々しくんだかもしれない。
一心に祈りを捧げる祭司たち。リンベルは気持ちを引き締めた。土地神にしずつ近付いているはずだ。
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「研究の用事で中立國に訪れた際に聞いたことがある。かつて戦の世に、王が統治する強大な國があったそうだ。どれほど攻め込まれようとも崩れない難攻不落の綺羅星。忘れ名荒野に捨てられた兵の殘骸がその証らしい。だが大斷層の出現と同時に消えてしまった」
「いつの話だ?」
「大陸中を巻き込んだ百年戦爭よりも前の話さ。ここは多分、忘れ名荒野に消えた王の國だ」
「國? 海しかないぞ?」
「海底を見てみろ」
「うわっ!」
リンベルが聲を上げた。石造りの大きな街がそのまま海底に沈んでいる。針が止まった時計塔。赤煉瓦の綺麗な店。水路に掛けられた小さな橋や、古びた意匠の街燈。その道の研究者が見れば発狂しそうな景である。
歴史の長い狩人ですら知らないということは、それだけ大昔の國というわけだ。リンベルは窓枠にを預けながら大海原を眺めた。彼は海を見たことがない。気楽に旅をできる時代ではないため、本を読んで想像することしか出來なかった。
「私は歴史とかよくわかんねえけど、この海が貴重な産だってのは理解できるぜ。なにせ人類が失った文明の一部が沈んでいるんだからな」
「中立國の奴はここを郷(ぼうきょう)の海って呼んでいた。俺も話半分に聞いていたが、まさか実在するとはなあ」
甲板の扉が開いた。他の隊員が起きたのだ。ナターシャ達は最初、目の前の景にポカンとした表を浮かべた後、手すりからを乗り出して楽しそうに騒いだ。あれはなんだ。ここはどこだ。うわあ、街が沈んでいるぞ。
まるで遠足に來た子供みたいだ。ナターシャと目が合ったため手を振る。今、この瞬間だけは誰もが目の前の景にしていた。
「ベルノアはいるか?」
イヴァンの聲が聞こえた。
「ああ、ここにいるぜ」
「狀況を説明してくれ」
「俺もさっき起きたばかりなんだ。縦していたリンベルに聞きな」
そう言われても困るのはリンベルだ。彼は見たことをそのまま伝える。
「私に振られても困る。川が海に繋がった、としか言えないな。結晶風は吹いていないし、今のところは危険な原生生も見當たらない。まあこの暗さだから見えていないだけかもしれないけど」
「帰り道はわかるか?」
「今はまだ大丈夫だけど、このまま進めばどうだろ……帰れる自信はないな。でも――」
目印になるのは何もない。大海原に星が輝いているだけ。
だが、方角だけならば目印になるものが一つだけある。リンベルが前方のし上を指差した。
「なあイヴァン、あんたはアレを何だと思う?」
夜空に一點だけ、明らかな異が存在した。甲板に出ればまず最初に見るであろう巨大なソレ。
「月だな。しまった、月見に合う酒は持ってきていない」
「學士隊の置き土産なら殘っているぜ。私は酒の良し悪しなんてわからんがな」
「それは僥倖。いや、不謹慎だったか?」
「今さらだ」
大海原の空に浮かんでいるのは月だ。もちろん本の月ではない。他のよりも明らかに大きな球が浮かんでおり、イヴァンはソレを月と稱した。窟の暗闇が距離を狂わせ、まるで手が屆く距離に空が落ちたのかと錯覚させる。イヴァンは月のような何かを見上げながら今後について話した。
「ミラノ水鏡世界は大瀑布の底にあると言っていた。つまり滝だな。だから水の流れにそって船を進めれば自然と行き著くはずだ。問題は海底に沈んだ街か。もしも座礁すれば生きて帰れん」
「さすがに私もこの海を縦するのはご免だ。あとは研究者様に任せるぜ」
「俺様の出番ってわけか。仕方ねえなリンベル、歴の違いを見せてやるぜ。間違っても惚れるなよ? 俺様は研究に人生を捧げる探究者だからな」
「安心しろ、私の好みじゃない」
水の流れは前方。つまり月の方角に流れている。
船の進路が決まった。各船に連絡を飛ばしてから、リンベル達は月を目指して船を進めた。
◯
進むにつれて海中から背の高い建が海面から現れるようになった。海底都市の中心に近付いている証拠だ。縦をベルノアと代し、晴れて自由のになったリンベルは甲板でナターシャと風に當たっている。
「忘郷の海ってどういう意味なの?」
「王の國の子孫が勝手に呼んでいるんだってさ。兵の殘骸だけを殘して荒野に消え、名前すら忘れられた故郷が沈む海。すべてベルノアのけ売りだけど、よく今まで発見されなかったもんだ」
「誰も荒野の下に國が沈んでいるなんて思わないわ。今まで発見されなかったのも、大斷層の両端をシザーランドとローレンシアが塞いでいるからじゃないかしら。大國側はミシェラの民が住んでいるそうだから、まあお察しよね」
「大國の花(イースト・ロス)の一族か。元狩人の私が言えたことじゃないが、民族ってのは面倒な制約が多いからな」
とんがり帽子の屋がマングローブのように海面から突き出る中、船はベルノアの見事な縦によって危うげなく進む。リンベルやソロモンでは真似できないだろう。海底都市をうように進む姿は、まるで船に意思があるかのようだ。
やがて海面上に奇妙な人影が見えた。最初に発見したリンベルが怪訝な聲をあげる。
「なんだありゃ。海を歩いているぞ」
「歩く、というよりは浮いている、が近いわ。なくとも生きではなさそうね」
白い霧で包まれたように、浮かんでは消え、消えては現れる不思議な影が浮かんでおり、それらは船の隣をすれ違いながら反対方向へ流れていく。まるで海の中心から逃げるかのように。近くで見るとやはり人間のような姿をしているため、ナターシャは言いしれぬ寒気をじた。
「油鷲(あぶらわし)が避けて飛んでいるわ。私たちもれないほうが良さそうね」
「霧にしては隨分とくっきりしているな」
「まるで亡霊みたいで不気味だわ」
「亡霊はお前らだろ」
「その呼び名、自稱した覚えはないんだけど」
甲板の扉からソロモンが出てきた。彼は白い人影を指しながら「あれは何ですか?」とナターシャに無言で問うてくる。返答も無言。首を振って返すと、彼は焼夷砲を擔いで船の後方に向かった。
「それにリンベルだって隊員みたいなものでしょ」
「私が?」
「だってイヴァンの家によく転がり込んでいるし、私たちと任務に行くことだってなくないじゃん。まさに幻の六人目ね」
「勘弁してくれ。傭兵なんてガラじゃない」
リンベルはフードを被った。オオイソビツのが二つの影を甲板に落とす。
しばし、二人は並んで海を眺めた。會話が無くなると々な音が聞こえてくる。穏やかに揺(たゆた)う波の音。窟を駆け抜ける風の音。船の周りを飛びう油鷲の鳴き聲。
こうしているとくず鉄の塔を思い出す。ヌークポウに居た頃も、よく膝を抱えて外の景を眺めた。銃の練習の合間に、ただ無心で外を求めた。ここではないどこか。正しく前に進むための道を。
懐かしい。日が暮れるといつもアリアが迎えに來てくれるのだ。そして、ぶらぶらと街を歩きながら夕飯の買い出しに行く。八百屋の親父と渉したり、擬屋の呼び込みを無視したり。大パイプの上で鬼ごっこ。ジャンク屋で行われるの取引。ああ、これは過ぎ去りし日々。
ようやくアリアとリリィの墓を建てられる。星空の下で朽ちることなく殘る友の墓。ナターシャはポケットの中で赤いリボンを握りしめた。
「おいナターシャ」
先に靜寂を破ったのはリンベルだ。彼は細い指先を前方に向けた。
「あの月、いてないか?」
ミラノへ続く道・忘郷の海。ここは失われた神が濃く殘る、地下の大海原。ああ、來たか、とナターシャが覚悟を決めたのは、夜空に浮かぶ月がぐるりと回転した時だった。
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