《傭兵と壊れた世界》第百二十五話:の流出

世界がぐるぐると回った。上は下に、下は上に、ナターシャはおもちゃのようにぶんぶんと振り回された。左手の甲に手の牙が刺さっている。明らかに貫通しているのだが不思議と痛みはなく、の一滴すら流れていない。だが何かが抜け落ちたような覚に襲われた。

「離しなさい化け……!」

白拳銃を手の頭に撃ち込んだ。鉄の銃弾はいとも簡単にらかいを突き破る。しかし、真っ黒なが噴き出したものの怯む気配がなく、むしろナターシャにがかかって視界が悪くなった。それだけではない。生暖かいと淡水ミミズを彷彿させるぬめりとした表面がひどい不快を與え、と腐敗が混じったような匂いが手の口から漂ってくる。

ぶん、と大きく上に打ち上げられた。刺さっていた牙が抜けて宙に放り投げられる。そこでナターシャはハッキリと目にした。眼下で大口を開けて待ちける手、その口に広がる底なしの闇を。ナターシャが足地で何度も目にした「黒」だ。黒水のように重く、ラフランの湖ように枯れ果て、ナバイアの研究所のごとく罪深い、人の現した闇。もしも落ちれば助からないのは明白である。

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「ただで食べられてあげないんだから……!」

ナターシャが懐から手榴弾を取り出した。流れるような所作でピンを引き抜き、手の口にスローイン。同時にマリーの髪飾りで滯空時間をばして風から逃れる。眼下からくぐもったような発音が響いた。

安心するのも束の間だ。ふわふわと宙を浮いているナターシャは格好の的であるため、別の手に食いつかれた。今度は牙を避けられたものの、右腕と下半をすっぽりと飲み込まれている。手から上半だけが出ているような狀態だ。

勢いよくお腹のあたりに食いつかれたナターシャは「ウッ……!」と聲にならない悲鳴をもらした。ギリギリと迫る手の口がナターシャのを圧迫する。凄まじい力だ。で手がり、うまく力がらない。

(こんな、ところで、食われてたまるか……!)

に挾まれた右腕をかして、手の中に銃弾を撃ち込む。一発、二発。怯んだ様子はないが、手の力がしだけ緩んだ。

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髪も服もベタベタだ。手に食い破られた左手には大きな風が空いている。満創痍といって過言ではない。自慢の結晶銃も意味をなさないのだから絶的である。

右手からカチカチとすかしたような音が鳴った。弾切れだ。焦っては駄目だとわかっているが、の鼓が早くなる。

「うん……?」

ふと手のきが止まった。正確にいえば、大目玉と同じ高さで宙吊りに固定された。彼はずっと神の前に運ばれていたのだ。逆さまに吊るされたナターシャの前で大目玉が脈打っている。視界に収まらないほどの巨は、たしかに畏怖されるだけの存在があるだろう。神と呼ばれる化けと逆さ吊りの。見つめ合う両者の間に奇妙な沈黙が流れた。

「初めまして、土地神様。気分はどう?」

土地神は答えない。まるで観察するようにじっと見つめている。

「喋れないのかしら。やっぱり神様だなんて狩人の妄言ね」

視線を落とすと、大目玉の足元に戦士隊の船が見えた。船上で必死に抗っているが、圧倒的な力の前になす(すべ)もなく躙されている。手が口を開くたびに戦士が消えた。たった一薙ぎで枯れ木のように戦士が散った。

數も力も足りていない。ただ一人、戦士長ラバマンだけは必死に戦しているが、土地神の前ではあまりにも無力である。

彼は宙吊りにされたナターシャに気が付いた。何が手があるのだろうか。銃をしまうと、近くの油鷲を呼び寄せて包みのようなものを持たせている。數は二羽。それぞれに別の包みを渡すと、土地神の本に目掛けて飛び立たせた。

(あれはリンベルが使っていた火炎瓶? そっか、元師匠だから彼も同じものを持っているんだ)

土地神に接近した油鷲が包みを放り投げた。最初に命中したのは火炎瓶の効果をより増大させるための特殊な油だ。二種類の油と増粘剤が混ぜられており、一度著火すれば対象を焼き盡くすまで消えないといわれている。

あっと息を飲んだ。もう一羽の油鷲が火炎瓶を投擲しようとしたが、その前に手に飲み込まれたのだ。手の口から煙が上がるものの効果はほとんど見られない。特殊な油と火炎瓶の二つがあわさってこそ威力を発揮するのだろう。

ちょうどもう一羽の油鷲も摑まったと同時に、戦士長ラバマンが手に飲み込まれた。別れの言葉どころかび聲すら上げられないままに。

娘の仇討ちに燃えた男も足地では容易(たやす)く消える。彼と話す機會はほとんどなかったが、リンベルの師であり父親のような存在の彼は出來れば生き殘ってほしかった。

そんなもんだ、そんなもんだ。スッと目を細くする。大目玉はまだナターシャを見つめたまま。

ふと耳元の通信機が鳴った。相手はイヴァンだ。

「――今から回収しに向かう。こちらから砲撃は屆かないから、うまく出して海に落ちてくれ」

「……無茶を言ってくれる」

通信機を通さずに愚癡る。腰の辺りを探りながら、ナターシャは視線を戻した。

「あなたは戦士隊の皆を食ったのにまだ供を求めるの? それとも神様じゃなくてただの人食い? 私の言葉は通じるのかしら?」

答えるかわりに手の口が開いた。もしや逃がしてくれるのか。そんな淡い希が葉うはずもなく、手はふたたびナターシャに食らいついた。今度は太ももを牙に貫かれる。

「痛ッ――」

たくは、ない。だがやはり、なにかが抜け落ちていくような覚に襲われる。

(こいつ、まさか私のを……!)

先ほど貫かれた左手を見た。手の甲に大きな風が空いており、や骨の斷面が見えてしまっているが、は一滴も流れず、指先も問題なくく。食われたのではない。奪われたのだ。奈落の大目玉は人間のを食らう。あの噂が本當ならば、奴は今、ナターシャのを食らっている。

気付くや否や、ナターシャは右腕を無理やり引き抜いた。弾倉は大目玉が気を取られているうちに片手でれ替えている。を締め付ける力が強くなったが、ナターシャは堪(こら)えながら照準を合わせた。

「渡すもんか化け……!」

花開くような炎。青に近い炎だ。ラバマンの油に著火した炎が大目玉を飲み込んだ。その熱気は投げた本人ですら顔を背けるほどである。直接食らった大目玉はひとたまりもない。

「キャッ……!」

ナターシャは勢いよく投げ飛ばされた。とっさにマリーの反重力を使うが、あまりの速度に軽減が間に合わない。なにもしないよりマシだが、はたして助かるだろうか。下は海だ。運良く海底都市の殘骸に當たらなければ、あるいは――。

ナターシャは頭を抱えて丸まった。せめてもの抵抗である。直後、叩きつけられるような衝撃に意識を手放した。

気を失うのはラフランを合わせて二回目だ。今回は夢を見なかった。ただぼんやりと、広大な意識の海を漂うのみ。

多くのものを失った気がする。戦友。馴染み。人。その他。

対して得られたものも多い。力。居場所。地位。その他。

それらが天秤に釣り合うか否か。答えは否だろう。人間とは失い続ける生きである。なにも持たずに生まれ、出會いと長を通じて様々なものを手にし、ある場所を過ぎたときから失い始める。ナターシャはたくさん失った。喪失こそ人生だ。

失くしたものが大きいほど、得られたものを大事にしようとする。もう二度と失わないぞ、と拳をかたく握る。無駄にしたくないのだ。これはもはや本能だろう。

ならば喪失は不幸かというと、それもまた否だ。本當の不幸とは、なにかを失ってでも目指したい夢を持たないことである。すなわち誇り。えいやあと生きるための旗頭があれば、たとえ大事なものを失っても不幸ではない。

最近はドットルの考えが理解できるようになった。みんなの期待を背負って故郷を発ち、親切な人々を騙して花を売り、數多(あまた)の命を奪い、そしてする人も犠牲にした男も、最後に殘った生き方だけは曲げられなかったのだろう。

誰もが一直線に自分の願いを追い求めようとする。ナターシャもそうだ。前だけを見て生きてきた。だが、ふとした瞬間に後ろを振り向くと、うず高く積まれたたちの窪(くぼ)んだ瞳がナターシャを見ている。

そして恐ろしくなるのだ。どうしようもない不安がの奧底で騒ぐのだ。

本當にこれでよかったのか。正しい道を歩めているのか。がすぐそこで見ているぞ。お前が撃った者たちだ。

奪った命に足る生き方か?

第二〇小隊として何を為(な)す?

さあ堂々巡り。やあやあ、えいや。

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