「み、みの……みの、見逃してください……」

その男は地面に膝をついてとある存在に懇願していた。

農作業で鍛えられたがっちりとしたは恐怖でこまっていて、まるで捨てられた子犬のよう。

男の前には赤い服を著たがいた。

らかなに赤茶の長髪、整った顔立ちをしたは懇願する男を見下ろしている。

の格は男より一回り小さく、筋のついた男が恐がる理由はないように見える。

男がを恐がる理由はあまりにも単純だ。

一つ。このの著ている服は村に來た時は白かった。

二つ。このに村は滅ぼされた。

先程まで村だった場所は瓦礫と木片、そしてに塗れた地獄へと変わっていた。

どこからか引火した炎がそんな村の名殘さえも呑み込んでいく。

その景に男の心は完全に折れていた。

村を、生活を、家族を奪った張本人を前にして一発毆ろうという気すら起きない。

なにより……目の前で人間の腕を骨付きのように食らっているを前に吐き気こそこみ上げても、怒りなど湧く勇気は無かった。

「見逃す……？」

「助けて、ください……どうか、どうか……、なんでも、します……」

かちかちと歯が鳴る音と燃え盛る炎の音。

そして目の前のがを食べる音。

聞こえてくる恐怖の中、男はただ懇願し続けた。

「何でもしてくださるんですか？」

「はい……なんでも、します……」

「まぁ、それは嬉しいですね。それではし頼まれてしい事があるのですが、よろしいですか？」

「はい……はい……！」

は誰のものかもわからない腕のを食いつくして骨を足元に置く。

男はその骨を見てびくっと肩を震わせたが、は何かに祈っているだけだった。

祈り終わったかと思うと、は男ににこっと笑い掛ける。

「……それでは今からあなたを味見しますので私の歯形を數えてくれますか？」

「……はい？」

「お恥ずかしながら私、どれだけ食べてもお腹は空き続けていて……せっかく主から賜ったあなた方を食べても味がわからないのです……。ですから、食べる前に々と試してみようかと思っていた所なんです」

「え？　あ、あえ……？」

男にはの言葉の意味が理解できなかった。

極限まで追い詰められた神はどうにかして機嫌を損なわないようにと一杯の作り笑顔を浮かばせるのが限界で、何も考えることができない。

「お料理は苦手ですのでせめて下拵えでもと……なので、し付き合ってくださいませんか？　こんな事で主の試練を超えられるとは思っていませんが、何事も試さなくては。そうは思いませんか？」

「え？　え？　あ、あの……見逃して……貰えるんですよね……？」

「ええ、私が食べて生き殘れたらいいですよ？」

「や、やったぁ……」

恐怖で磨り減った男の神は致命的な矛盾を捉える事すら諦めていた。

は赤く染まった服をはためかせながら、男の背後に回る。

「それじゃあ行きますよ？　一緒に數えてくださいね？　いーち」

はそう言って男の肩に歯を立てる。

歯は鋭利ではないはずなのにぶぢぶぢと肩のを裂き、を赤く染める。

「い、い……いぢいいいいい！」

「そうです。その調子ですよ。生き殘れたら逃がしてあげますから頑張りましょうね？」

「ひっ！　ひっ！　ひっ！」

恐怖と噛まれた痛みに耐えながら男は背後からの聲に必死に頷く。

「にーい」

「に！　に！　にぃいいい！」

次に噛まれた……いや食い千切られたのは左耳だった。

背後から聞こえてくる咀嚼音が傷に響く。

「さーん」

「あぎ！？　ひっぐ……ぎいいいいいい！？」

今度は指が一本食い千切られる。

數える度に來る激痛が無意識に男に數を數えさせるのをやめさせていた。

男は一本指が無くなった自分の左手を見ながら涙を溢れさせる。

一本無くなった指が食われたという事実を強く認識させたのだろうか。

そんな男の神は休まることなく……から殘酷な言葉が聞こえてくる。

「ああ、駄目ですよしっかり數えませんと。これは実験なのですから……三からやり直しですね？」

「ふっ！　ふっ！　ふっ！　え？　ぃえ！？　や、やり直じ……？」

「はい、さーん」

「ざ、ざん！　ざん！　ざんんん！！」

數を數えればいつかは終わると自分で自分に言い聞かせて男は數を何とかぶ。

どれだけ數えても未來が変わらないという現実から目を逸らして……食い千切られた腕を見ないよう呼吸を荒げながら空を見上げる。

目に飛び込んできた快晴の空が、止まらぬ涙で滲んでいた。

「よーん」

「よん！　んん！！　よんん！！　ぎっ……ぁやあああああ！　うっ……！　も、もう……もうやだあああああああ！！　誰か……誰かぁああああ！！」

「ごーお」

「ごおおおお！　ごおおおおおおおお！！」

自分がどんどん食われていく現実を數と一緒に認識させられながら、見逃してくれるかもしれないという有り得るはずのない未來を心の支えにして男は食われ続ける。

は男の々な場所のを食べながら、

「うーん、やっぱり味がしませんね……やはり意味はないのでしょうか？」

などと、まるで料理の味見をするかのように悩んでいた。

肩も耳も、指も腕も頬のも味はしない。

そして飢えをしのげる様子も無い。

はを飲み込むと殘念そうにため息をついた。

「ろーく」

「あぎゅ……が……ひゅ……」

「……？」

が六回目に食らった所は男の首だった。

真っ赤に染まった口をもぐもぐとさせながら、首から噴き出すと男が力無く倒れるのを見屆ける。

「んぐ……あら、もう數えなくていいんですね？　それでは遠慮なく……主よ謝致します」

はに濡れた両手で祈りを捧げると數分の時間をかけて男を全て平らげた。

マットラト領の平和な村だったこの場所は完全に壊滅し、そしてそこにいた住民はこれで全て消えた。

「どの糧もやはり味がしませんでした……私は……あれ？　私は何がしかったのでしょう？」

は首を傾げる。

口から滴るがぽたりと落ちた。

「私は主の試練を……？　あれ……？　私は、何かしいのでしょうか……？　こうして敵(・)を倒せばよかったのでしょうか？　それとも……？」

悩むの腹が鳴った。

村一つ分を食べ終わっても、の空腹は紛れることはない。

ただ"現実への影響力"だけが底上げされて、魔力だけがに漲(みなぎ)って……魔法生命としての能力が膨れ上がっていく。

はわけもわからず自の能を上げ、(エゴ)が思い出せないまま世界を徘徊し続ける。

「ああ主よ。これだけ食べても私のお腹が空いているという事は……私はもっと食べなければいけないのですね。ご安心ください。私は必ずや試練を乗り越え、この天命を全うするのです」

は口を拭って立ち上がる。

輝くようなその眼には黒い魔力が燈っていて……次の獲を探していた。

「ああ、次はあちらに行きましょう。小さな村ばかりで糧を探していたのがいけなかったのです。次は大きな町に行きましょう。今度こそお腹をいっぱいにする事ができれば神の聲が聞こえるはずです。

そう……人間が行すれば神もまたいてくださるのですから」

が進むは狂気に満ちた破壊と死の行軍。

自を人間と呼ぶは町へと向かう。

魔法生命である自覚すら無い怪は次の餌場へと向かう。

どちらも正しく矛盾もしない歩みであり、ただ一つ言えるのはこの怪が向かう目的地が不運だという事だけ。

生きるためではなく空腹を満たすためには真っ赤に染まったまま青空の下を闊歩する。

の頭上の空には、何も飛んでいなかった。

いつも読んでくださってありがとうございます。

想、誤字報告などいつも助かっています。改めてありがとうございます。