《お嬢さまと犬 契約婚のはじめかた》三 旦那さんと元カノ前線到來 (2)
連日雨続きだった東京は、つぐみがバーベキューに行くと宣言したその日から奇跡の回復を見せた。すごい。つぐみは雨乞いの反対の才能があるのかもしれない。
そして當日の朝。天気は――
「曇りだー」
いまひとつ締まらないかんじはするけれど、雨天ならバーベキュー自が中止になっていたのでよかった。修羅場発はこわいものの、つぐみがしたいと思ったことはなんだってできる限り葉ってほしい。
葉は雨戸を開けがてら、家のなかの扉がちゃんと開いているか、ひとつずつ確認していく。「閉まっている扉」はそれが開けられないつぐみにとって脅威だ。蔵や置だったらさほど困らないけど、日中つぐみが作業をしている制作室近くのトイレだったら結構面倒くさい。そのうえ遠くのトイレのドアまで閉まっていたら死活問題だ。ちなみにつぐみの寢室はドア自が外されていて、仕切り用にレトロな玉すだれがかかっている。
朝の開閉作業を終えると、庭に出て草木の水やりをする。最近は雨で十分潤っていたから、軒下に分けて置いておいたカモミールとプチトマトの鉢植えにだけ水をやった。カモミールはちょうど白い花を咲かせている。甘い林檎に似た香りだ。
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普段はこのあと、朝の家事のあいだに考えておいた渾の「今朝のつぐみさんの朝ごはん」の準備に取りかかるところだが、今日は午前中にはバーベキューがはじまるので朝食は抜きだ。はやく起きすぎた葉がスマホで柴犬のブラッシングをするゲームをやっていると、
「おはよう」
今日は自分で起きたらしいつぐみが、居間のガラス戸から頭だけをのぞかせた。
「おはよ。今日ははやいね、つぐみさん」
「久瀬くんのほうがいつも早いでしょう」
「俺は夜寢るのも早いもん」
言いながら、一向に居間にってこないつぐみに首を傾げる。
「……どしたの?」
「な、なに」
「ってこないから」
「そんなことないけど」
と言いつつ、つぐみはなぜかもじもじと居間のガラス戸を握りしめている。
「えい」
腰を浮かせて、葉はつぐみの両脇をくすぐった。ひゃっと聲を上げたはずみに手が離れ、つぐみの全があらわになる。
「わっ、かわいーい!」
いつもはきやすいようにガウチョパンツにトップスを重ねているつぐみだが、今日はパステルグリーンのキャミソールワンピースに丸い襟ぐりのブラウスをあわせている。日焼けしていないにパステルグリーンが映えているし、バックリボンのワンピースはふわっと広がった裾がたいへんかわいい。寢起きで髪がぼさぼさのままなのはもったいないが。
「ね、髪やる? 俺やる? やるね?」
半ば強制的に了解をとって、つぐみを居間のちゃぶ臺のまえに座らせる。洗面室からつぐみ用のブラシとヘアオイル(葉が塗らないと使ってくれない)を持ってきて、つぐみの絡まってしまった髪を梳く。
「ワンピース、新しいやつ?」
「うん。通販サイトで……安かったから」
そういえば、すこしまえにつぐみあてに宅配便が屆いていたことがあった。
なんだかよくわからないけど、今日のつぐみはすごくやる気だ。同世代の子たちとの流を……と願っていた花菱先生もほっとするにちがいない。
「髪、どうしようか? なんでもできるよ」
「よくわからないから、久瀬くんが似合うと思ったのでいいよ」
「ほんとに? うーん、どうしようかなあ」
つぐみの髪は細くてまっすぐで、背の中ほどまでかかっている。長くてかわいいけれど、つぐみは乾かすとき面倒そうにしている。といって容院に行くのはもっと面倒なので、結局腰に屆くまではいつもばしているようだ。前に一度、ハサミで適當に切っているのを見かけたときは絶句して止めた。葉はあいにく容師になったことはないが、つぐみがやるよりは多きれいにカットできる。
「久瀬くん」
「んー?」
「久瀬くんが髪なんでもできるのは、如月のをやってたから?」
思わぬ名前が飛び出て、葉は眉をひそめた。
「如月……さんはぜんぜん関係ないよ」
「そう」
「俺はさー、妹がたくさんいたの。つぐちゃんよりちいさい子が多かったかな。うちの施設、ときどきボランティアの容師さんがタダでカットしに來てくれるんだけど、いつもじゃないしね。口うるさい妹たちの要にこたえるべく、カットとアレンジは極めに極めたなー」
父親を失ったあと、六年ほどお世話になった児養護施設は、ちいさい子から大きい子までぜんぶで十五人が暮らしていた。葉は所したときには大きいほうだったから、自然と下の子たちの面倒をみさせられた。葉の家事に関するスキルはだいたいこの児養護施設時代に養われた。調理スタッフのおばさんたちと仲良くなって、料理のコツもたくさん教わった。梅の漬け方を教えくれたのもおばさんだ。
「よし、完!」
今日は編み込みをれたあと、シニヨンっぽくまとめてみた。ワンピースに合っているし、初夏らしくて涼しげだ。仕上げに水のアンブレラがついたヘアピンを前髪に留めていると、つぐみの口元がほのかにづいていることにきづいた。
「つぐちゃん、もしかしてお化粧してる?」
「……うん。軽くだけど」
つぐみはなんだかそわそわするように視線を橫にそらした。
「睫くるっとしててかわいいー。あとリップも似合ってるよ」
「……久瀬くん」
「うん?」
「そんなにたくさん褒められるとはずかしい……」
消えりそうな聲で訴えられて、褒めてました今!?と衝撃をける。
葉としてはつぐみに素直に思いのたけを伝えていただけなのだけど、もしかしたらふつうの夫婦の平均値を超えていたのかもしれない。そもそも、かわいいと思わせてくるつぐみがいけないのでは。とも思ったけど、雇い主がいけないわけがないので、「ぜ、善処します……」と葉は要求をのんだ。つぐみの思いを汲んで、葉も多はがんばりを見せねば。褒めない。あんまり褒めない。
「とりあえず、そろそろ出かけようか?」
時計を確認すると、出発予定時刻を過ぎていた。
葉はすでにシャツとジーパンに著替えていたので、いつでも出かけられる。
ガスと戸締まりを確認したあと、玄関のガラス製の引き戸をがらりをあける。三和土でスニーカーをはいているつぐみに、葉は手を差しべた。つぐみのちいさな手が葉の手のうえにのる。
つないだ手を軽く引くと、つぐみはいつもはかたくなに踏み出そうとしない家の敷居を簡単に踏み越えた。ひと月前、引き戸のまえにしゃがみこんで半泣きになっていたつぐみのすがたを思い出し、すこし切なくなる。閉められた戸のまえでは無力だったつぐみは、だけど、こんなにたやすく敷居を踏み越えることもできるのだ。ただ、ひらいた戸さえ用意すれば。
この子はこのままでいいんだろうか、とときどき葉は考える。
このまま、葉があけた扉だけをくぐって外に出られる、そういうつぐみで。
よくはないよなって思う。この子はまだ十九歳なのだ。朝から晩までこの家が世界のすべてで――すべてで、よいわけがない。……気がする。でも出會ったとき、この子は周りが矯正する枠からはみ出たをきゅうきゅうにめて、死んでしまいそうになっていた。
心が、ほかの子たちと似たかたちをしてないことは、ふしあわせだろうか。一ミリ、二ミリ、三ミリ。変形はどこまでゆるされるんだろう。葉はよくもわるくも、そういうことがぜんぶ大雑把で、ミリ単位で苦しんでいるつぐみの気持ちがたぶんよくわかっていない。
「久瀬くん。途中でコンビニ寄っていい?」
車の助手席に座ったつぐみははた目にもわかるほどうきうきとしている。
この子はなぜかコンビニを魔法のデパートか何かと思っている節がある。
「いいよ」
わらいつつ、葉は車のエンジンをかけた。
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