《お嬢さまと犬 契約婚のはじめかた》五 旦那さんとはじめてのキス (4)
鹿名田《かなだ》青志《せいし》の一周忌は、定刻どおりつつがなく行われた。
僧による読経、焼香、法話が終わり、施主である本家當主が挨拶をする段になって、葉はつぐみが「おばあさま」と呼んだ老がこの家で「大奧さま」と呼ばれるつぐみの祖母、鷺子《さぎこ》であること、鷺子に寄り添っていた壯年の男がつぐみの父親、清志《きよし》であったことを知った。
となると、清志のとなりに座る終始うつむきがちのはつぐみの母親だろう。ひとつ後ろの席には、ひばりと二十代後半の青年がいた。
北條《ほうじょう》律《りつ》――ひばりの今の婚約者で、そのまえはつぐみの許婚だった男だ。法事がはじまるまえ、例によってそこかしこから聞こえてくる噂話で知った。やはり百年以上続く名家の次男坊で、父親が経営する企業のひとつで研鑽を積んでいる最中らしい。葉とちがって、高そうな黒のスーツを完璧に著こなしている。全的にしゅっとしてぱりっとした雰囲気の男である。
法事が終わると、弔問客をまじえた會食がはじまった。
鷺子の意向で、通常法事のあとに行われるはずの墓參りはあした近親者だけでするという。広間の長テーブルに並べられたのは、近隣の料亭に頼んだという仕出し弁當で、蓋をあけると、びっくりするほど繊細でうつくしい盛り付けの料理が並んでいた。夏野菜の炊き合わせ、酢の、天ぷらの盛り合わせ……。いつもならわくわくと箸が進んだだろうが、今回ばかりはさすがの葉も食減退気味だ。
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「ひばりさん、見ないあいだに大人びて。いくつになったんですっけ?」
「先々月十八歳になりました。叔母さまはいつお會いしてもおきれいです」
「あら、お世辭もうまくなって。おかあさま、ひばりさんと律さんの結婚はまだなの? 知り合いに花嫁裳を専門に仕立てるよい職人がいるのだけど――」
ひばりたちを中心に華やかな話題が続く一方、長テーブルの端に座るつぐみの周りは靜まり返っていて、離れた場所にいる客たちが「ほらあれが……」「男を作って出ていった長の……」と背びれ尾びれがついた噂を囁き合っている。
(どうして今さら現れたのかしらね)
(大奧さまもなぜ何も言わないのか……)
(青志さん、生前はつぐみさんをかわいがっていたじゃない? だからでしょう)
(青志さんも外でずっと人を囲っていたのよね。似た者同士というか……)
(よねえ)
つぐみは周囲の會話には無関心そうに料理を口に運んでいる。
となりに座る葉とすら目を合わさない。鹿名田の家の門をくぐってから彼はずっとこうで、唯一、焼香をするときだけ長く長く、手を合わせて祈っていた。
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「そういえば、つぐみさんは昔から絵が得意だっただろう」
羽田《はだ》のおじさま、と呼ばれていた初老の男が、ふと思いついたようすでつぐみに話しかけた。
「まだ描いているのかい?」
「はい」
「子どもの頃からうまかったからな。きっと今はすごいんだろうなあ」
のほほんとした羽田の口ぶりで、ここにいる人間たちがつぐみの畫業について知らないのだと葉はきづいた。葉だってわかっているとはいえないけれど、この子は十九歳にして依頼が次々舞い込む気鋭の畫家として活躍している。すごいなんてもんじゃない。
「絵を撮った寫真はないのかい?」
「いえ、おじさま。人前でお見せできるようなものではないので」
驚くことに、謙遜して首を振ったのはつぐみ本人ではなく、ひばりだった。
ひばりはにこりとしたあの完璧な笑みをり付けて、首をすこし傾けた。
「――そうよね、ねえさま?」
「はい」
つぐみはとくに怒りもせず、かといって傷ついた風でもなく、淡々と顎を引いた。
つぐみの話はそれで終わりだった。
やたらだらだらと続いたうえ、食べた気がしない會食が終わると、弔問客は帰り、親族枠のつぐみと葉は離れの二階の一室に案された。あすの墓參りは近親者だけが參加すると聞いたが、まだ十數人は殘っている。
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叔父に叔母、従兄弟、おのおのの配偶者や子ども、婚約者たち。「近親者」の多さに葉はくらくらした。當然、誰が誰に対するなんなのかなど覚えられるわけがない。祖母の鷺子とつぐみの両親、二歳下の妹のひばりと婚約者の律。かろうじて顔と立場が一致したのはそれくらいだ。
つぐみに比べると、葉のの回りはなんとすっきりしていることだろう。
妻、つぐみ。以上。増えないし減らない。明快だ。
「うう、まだ一日目かー……」
足がばせるバスタブに浸かって、葉は遠い目をする。なんだかもう心の疲労度では三日くらい経っている気がする。時空がおかしい。おそるべし、鹿名田本家。
そして先ほどあたりまえのように布団がふたつ並べられている寢室に案されたわけなのだけど、実は葉はつぐみとおなじ部屋で寢起きしたことがない。普段、つぐみは離れの一室を寢室にしていたし、葉は母屋にある前の家主が使っていた部屋を借りて暮らしているためだ。
葉はとなりに誰がいても眠れるタイプだけど、つぐみは大丈夫だろうか。というか、車でクーラーのスイッチを切るだけで肩を跳ね上げていたつぐみで、大丈夫だろうか。もしつぐみの快適な睡眠を阻害するようなら、葉は部屋の外で寢るべきだと思うけど、それも夫婦関係の不和を疑われそうでよくないかもしれない。つぐみの立場がわるくなる行は控えるべきだ。ただ、鹿名田家の面々を見るに、もはやそれ以前の問題というか――。
うーん、と湯船のなかで考えているうちにのぼせそうになり、葉は風呂から上がった。ちなみに鹿名田家は、離れにお客さま用の風呂場が別に設置されている。広々としたバスタブでは足がぜんぶばせるので、葉はした。
Tシャツとスウェットに著替え、二階の部屋に戻る。つぐみは葉より先に風呂にり終えていた。
「つぐみさん、ただいまー」
四分の一ほど開けたままにしてあった襖を引くと、つぐみは葉が出ていったときとおなじ、両膝を抱えるような恰好で窓辺に座っていた。乾かすのを怠った髪が、肩にかけたタオルのうえで水滴をつくっている。つぐみはワンテンポ遅れてのろのろと顔を上げ、「あ、おかえり」とつぶやいた。
「うん、ただいま。つぐみさん、また髪乾かしてないでしょー」
荷からドライヤーを取り出すと、つぐみの背に回って濡れた髪に溫風をあてる。
また悲鳴を上げられたらどうしようと、おそるおそるやったのだけど、つぐみは予想に反してなされるままになっている。眠いのだろうか。でも表はく張りつめていて、心ここにあらず、というような……。つぐみはもともと大仰な表現はしないけれど、いつもこんな人形のような顔をしていただろうか。
「つぐちゃん」
ドライヤーを止めると、つぐみに聲をかける。
「おーい、つぐちゃん?」
「あ、ごめん」
目の前で手を振ると、やっと我に返り、「なに話してたっけ」とつぐみは訊いてきた。なにも話してない。返答に窮して、「眠い? もう電気消そうか?」と尋ねる。充電中のスマホに表示された時間は、九時をすこし過ぎたくらいだ。早寢の葉にも早い時間だったけれど、眠れないことはないだろう。それになんだかつぐみは、疲れきっている、かんじがする。
「……うん。そうして」
つぐみがうなずいたので、ドライヤーの片づけをすると、電気の紐を引っ張った。
部屋が暗くなり、オレンジの常夜燈だけが殘る。並んだ二組の布団のうちひとつにつぐみがもぐりこむのを見て、あ、外で寢るべきか尋ねるのを忘れた、と葉は思った。つぐみの気が張り詰めすぎていて、とてもそんなことを訊ける雰囲気じゃなかったのだ。
殘ったほうの布団に橫になり、今日起きたことをひとつずつ瞼の裏に思い浮かべてみる。とくに鹿名田家にってからは、もやもやしたりむかむかすることばかりだ。
そうか、といまさらながら葉はきづいた。だから君はこの家を出たのだと。
「久瀬くん」
暗闇から消えりそうな聲が聞こえてきたので、葉は目を上げた。
こちらに背を向けて寢ているせいで、つぐみの表は見えない。
「その、ごめんね……」
それは、いつのなにに対して?
だれが言ったどの言葉に対してだろう?
「帰ったら、ボーナスつけとくね」
葉はなにを言われてもそんなことないよって言うつもりだったのに、つぐみが思いもよらないことを言ったので、言葉に詰まってしまった。
この子はこういうとき、だいじょうぶだよとか、どうしてそんなことを言うのって葉が尋ねるまえにぜんぶお金で解決しようとしてしまう。夫婦のじゃなくても、友でも、雇用主に対する尊敬の念でもなんでもかまわない。あるかもしれない何かのはる余地もなく追い出され、代わりにお金だけが現実的な重みを持ってつぐみと葉のあいだをつなぎとめる。ひとつの曖昧さもグレーもゆるさない、清廉潔白な葉の雇い主。いつもはかっこいいと思っているのに、いまはすこしじれったい。
「うん……」
だけど、要らないとも言えない。そんなことを言える立場でもない。
葉はつぐみの背にそっと手をあてた。つめたい。一瞬を強張らせたが、つぐみは背に手をあてられたままかなかった。じゃあ、嫌じゃない、でよいはずだ。
これはボーナス。ボーナス。自分に対して念じつつ、痩せた背中をはずみをつけてさする。しばらく続けていると、強張っていたからふわりと力が抜けていった。ほっとした。もっとしてあげたい。ボーナス。これはボーナス……。
――あなたにわたしたちがいくらかけたと思ってるの?
食費、水道、ガス、電気代、服、鉛筆、消しゴム……。
生きている限り、お金はかかる。
義務教育は無償だけど、給食費はタダじゃないし、小學校に通うにはとりあえず服とランドセルと文房が要る。それらは祈っていれば、勝手に空から降ってくるものでもない。世の大半の親があたりまえにそれらを用意してくれるのは、という名の投資を子どもにしているからだって、そのあと施設で出會った小難しいやつが言っていた。親がいない葉にはどこにも投資してくれる相手がいないらしい。なんだかせつない。もともと貧乏だったのに、さらに貧乏になった気分だ。
でも確かにそいつの言うとおりではあって、彼のふたりの子どもたちにはぞんぶんに與えられていたものが、葉には與えられないことが多かった。しかたがないとは思う。彼と葉はすこしもがつながっていないし、自分は引き取りたくなかった子どもで、しかも生きている限り、なからず金を喰ってしまう。
――ほら返して!
煙たくて熱いものが背中に押しつけられる。痛い。痛い。
何度も押しつけられる。熱い。やめて。
――あなたにかけたぶんのお金を返してよ!
でも、返せるものがない。どこにもお金がないから返せない。
やめてほしいのにやめてって言えない。
お金がないから。お金がないから。
きづけば、つぐみの背に手をあてたまま、短い眠りに落ちていた。
眠りというか、回想というか。
暗闇から靜かな寢息が立っているのが聞こえて、起こさないようにそーっと手を離す。葉のほうはなんだか眠れなくなってしまった。布団のうえで何度か寢返りを打ってから、あきらめてを起こす。
「トイレ行こ……」
つぐみが行き來できるよう細い隙間を殘したまま、部屋の外に出る。
トイレは一階のお客さま用の風呂場のとなりにあった。電気を點け、床板を軋ませながら階段をくだっていく。つぐみ曰く、鹿名田家は明治時代に建てた屋敷を何度か改築して使っているらしい。確かにだいぶ年季がっている。
離れは、普段本家で生活をしている祖母の鷺子、つぐみの両親、ひばり以外の親族が泊まっているようで、そこかしこの部屋からまだ微かな話し聲や気配がする。……思ったより部屋とトイレが離れている。つぐみをひとりで殘してきたことが急に心配になってきた。目覚めてとなりに葉がいなかったら、あの子不安がりそうだし。
(やっぱり戻るか)
一度足を止め、きびすを返す。
「っ!?」
すぐ後ろにつぐみがいたので、葉は心臓を跳ね上げた。
いや、よく見たらちがう。
「……ひ、ひばりさん」
「うろうろしているから、迷われたのかと思って」
「あ、えーと、トイレを探してて」
「角を二度曲がって左ですよ」
トイレの場所は覚えていたが、不審なきをしていたのは確かなので、なんとなく言い訳めいたことを口にすると、ひばりが先導するように歩きだしてしまった。晝に著ていた黒無地の著の代わりに、すとんとした室著っぽいレモンイエローの水玉のワンピースを著ている。つぐみよりも短い肩甲骨にかかる程度の髪も下ろしていて、そうすると年相応のの子らしく見えた。
「ひばりさんはどうして離れに?」
「婚約者に會っていたんです」
「え? ああー……」
下世話なことを聞いた気がする。聞くな察しろというやつだったかもしれない。
ひばりはこちらに流し目を送り、くすっとわらった。
「噓です」
「えっ、噓?」
なんだ、その意味のない噓。
「あなたと話がしたくて」
「俺と? ……つぐみさんじゃなくて?」
「うん。ねえ、あなたってねえさまに3000萬円で買われたんでしょう?」
いきなり核心をつかれて、葉は絶句した。
……しまった。ちょろすぎる。
「な、なんのことだか……」と遅れてしらを切ったが、「取り繕わないで大丈夫」とひばりは首を振った。いつの間にかトイレとはぜんぜん別の場所に連れてこられている。見知らぬ部屋のドアをあけ、「って」とひばりが言った。つぐみと似た顔のの眼差しがひどくつめたいことに葉はきづいた。淡白なようで、眸の奧ではいつもがふるえているつぐみとは正反対だ。
「今はね、報もお金で買えるの。専門業者に依頼して、あなたの元調査をしました。どこで生まれた誰で、何者なのか。十歳で叔父夫婦に引き取られたあと、翌年には児福祉施設に預けられてますよね。原因は義理の叔母の待。施設を十八歳で出たのち、運送會社の配送員など勤め先を転々とし、大の施設管理スタッフに。そこで姉と出會う。でも、あなたのほんとうの舊姓は『久瀬《くぜ》』じゃないですよね? 『本郷《ほんごう》』さん」
手元にメモもないのに、すらすらと読み上げてくる。
ひばりが言っていることはひとつもまちがっていない。ほんとうになんでもお金で手にる世の中なんだなって呆れる。
「あなたのことはぜんぶ調べてます。《《ぜんぶよ》》。意味はわかるでしょう?」
ひばりはあらためてひらいたままのドアに目を向けた。れ、と視線で強く促す。それでもまだかないままの葉に、形のいい眉を寄せた。
「姉は3000萬円であなたを買ったんでしょう? ――それなら、わたしはさらに5000萬を出す」
とんでもない金額がひばりの口からぽんと飛び出た。
「5000萬出したら、わたしのお願いも聞いてくれますよね、久瀬さん?」
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