《お嬢さまと犬 契約婚のはじめかた》六 奧さんとはじめての (2)

夕食を終えたあと、つぐみは鷺子《さぎこ》に呼び出された。

葉が心配そうに視線を寄越したが、「先に戻っていて」と言いおく。

「あなたがしいものはそれでしょう? つぐみさん」

鷺子の部屋をひとり訪ねると、すでに茶封筒が機のうえにのっていた。

斷りをれて中の書類を取り出す。つぐみと葉が住む家と土地の権利書だった。二年前に青志によって作されたもので、名義人はつぐみになっている。

家を出て行くとき権利書も持っていこうとしたのだが、「財産管理はあなたが人するまでは清志《きよし》さんがするから」と鷺子が渡そうとしなかったのだ。

つぐみは家と家が建つ土地の名義人ではあるものの、法律上、財産処分や契約行為といった権限は親権者である父が持つ。はやく二十歳になりたくてたまらなかった。それもあと數か月で葉う。

「ありがとうございます」

「……まったく現金なひとね。権利書以外に興味はないの?」

「おばあさまも、わたしとほかに話したいことはないでしょう?」

鷺子は権利書を渡す條件としてふたつをつぐみに提示した。

ひとつは青志の一周忌に參列すること。

ふたつめは夫の葉も連れてくること。

つぐみは一年ほど前、父が取りつけてきた見合いを蹴り、鹿名田家とはほぼ絶縁するかたちで葉と結婚した。鷺子がいまになってこのような條件を出してきた意図がつぐみにはわからない。ただ興味もない。権利書さえ得られれば、彼らとの関係は終わりだ。

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「部屋に戻ります」

書類に不備がないのをひととおり確認すると、つぐみは立ち上がった。

「あなたってそういうところ、おじいさまそっくりね」

「どういう意味です?」

「興味がないものには冷淡。執著するものには苛烈」

目を伏せて、鷺子は息をついた。

齢七十を超えるはずだが、背筋がぴんと張っているので、老いをじさせない。著のうえに銀鼠の羽織をかけ、晝のあいだは結っていた髪はほどいて耳の下で結んでいる。このひとはいつ見ても、すこしも崩れたところがない。

「せっかくですもの。寄っていきなさいな」

鷺子は自室に隣接したちいさな茶室を持っていて、ときどき招いた客人に自ら點てた茶をふるまっている。子どもの頃は鷺子自らが師となり、ひばりとつぐみも茶事を習ったものだ。

「それとも、作法ももう忘れてしまった?」

「……いただきます」

茶室の燈りをつけると、鷺子は爐釜に水を注ぎ、電源をれた。茶道を準備する鷺子を橫目に、つぐみは爐釜で水が沸くのを待つ。

祖父の青志は実業家としては有能だったが、家庭人としては最低だった。何十年もこの家とは別の家に人を囲っていたのだから。

鹿名田のひとり娘として大切に育てられた鷺子は、祖父のことでは気苦労が絶えなかったと聞く。のない家を五十年以上守るのはどんな気分だろう。たった十七年で家から出て行ったつぐみをどんな気持ちで見送ったのだろう。「おじいさまにそっくり」という言葉は決して譽め言葉ではない。

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「あなたを一周忌に呼んだのは、それがあのひとの言だったからよ」

「おじいさまの?」

「あなたと、もしいるならあなたの伴を必ず呼ぶこと。あのひとはこの家のなかではあなただけをかわいがっていたから」

――あなただけを。

鷺子の言葉に真綿でくるんだような棘をじた。

「あのひとがあの家に置いていたひとの顔を、あなた見たことがある?」

「いえ……」

「わたしはあるわ」

意外なことを鷺子は言った。

「一度だけ、青志さんが留守にしていたときに、偶然を裝って通りがかったの。ちょうど夏の暑い日で、彼は玄関に打ち水をしていたわ。とてもふつうのお嬢さんに見えた。あのひとをどうやって夢中にさせたのか、わからなくなったくらい。……まあ今思えば、ふつうがよかったんでしょうね」

ふふっとわらう祖母の人間くさい橫顔にすこし驚く。

つぐみにとって鷺子は一切の隙がないひとだった。青志が現役から退いても、鷺子は依然、鹿名田の家のなかのことを取り仕切り、つぐみやひばりが家格にふさわしい令嬢となるよう厳格に躾けた。たとえ若い頃でも、このひとが偶然を裝って人宅を訪ねるすがたなんて想像がつかない。馬鹿らしい、と鼻でわらう仕草のほうがずっと鷺子には合っている。

「あなたも彼の『ふつうさ』に惹かれているんでしょう。自分にはないものだから」

つぐみは目を上げた。

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「でも、そのうちうまくいかなくなる。自分とはちがうからつらくなる」

「おじいさまは――」

おじいさまはちがったではないですか、という言葉をかろうじてのみこんだ。

いくらなんでも鷺子のまえで言う言葉ではない。それに青志と人のがほんとうにうまくいっていたのかと訊かれるとよくわからない。結局青志は生涯、鷺子と離婚はしなかったのだから。そして青志へのなどとっくに醒めていたように見えた鷺子は、夫の言をかたくなに守っている。

「うまくいかなくなったら、いつでも戻ってきなさい。あなたがおじいさまのお墓から盜み出したものを返したら、いつだってまた迎えれてあげますよ」

人の墓にれるために持ち出した青志の左の小指――。

ふっと咽を鳴らした鷺子は、あらためて茶事をはじめるまえの禮をした。

*…*…*

夜十一時。寢室を抜け出したつぐみが一階に向かうと、きのうはひらけなかったあのドアのまえにひばりが立っていた。ドアに軽く背を預け、腕を組んだひばりは、けれど勝ち誇るというよりは、どこか憂鬱げな表をしている。

「來ないんじゃないかと思ってた」

「どうして?」

「ねえさまはわたしのこと、嫌いでしょ。あの事件が起きたのだってわたしのせいだし」

ひばりの言っていることがいまひとつ理解できず、つぐみは眉をひそめた。しなやかでうつくしい妹を羨こそすれ、嫌ったことはない。ひばりは不甲斐ない姉を好いてはいないのだろうけれど。

先につぐみを通したひばりは、ドアを閉めようとした。

「閉めないで」

鋭い聲で制止をかける。

つぐみが「閉められたドアを開けられないこと」はひばりだって知っているはずだ。けれど、ひばりは微かに眉を上げただけで、ゆっくり見せつけるようにドアを閉めた。

――がちゃん。

ふつうのひとなら何でもない開閉音が、つぐみには斷絶の音のようにじられた。心臓がどっと暴れ馬のように打ち鳴りはじめる。おちつけ、とつぐみはをぎゅっと握りしめた。扉を閉められただけだ。ここはただの部屋で、中にはつぐみとひばりのふたりしかおらず、この子は姉に対して危害を加えられるような子じゃない。おちつけ。

さして広くない部屋には、先々代が趣味で集めていたという西洋人形のコレクションが並んでいる。ガラスケースにった大小無數の西洋人形に眺められているのは、あまり気持ちのいいものではない。足元にかかった蜘蛛の巣を払い、つぐみは椅子を引いた。テーブルを挾んで向かいにひばりも腰掛ける。この場所に昨晩、葉も座ったのだろうか。

「5000萬の話、久瀬くんはなんて答えたの?」

婉曲的な言い回しも、腹の探り合いも得意じゃない。どうせひばりにはばれているのだからと最初から本題にった。

「久瀬さんに直接訊いたらいいじゃない」とひばりがわらう。

「まさかそんなことも訊けないの? 旦那さんなのに?」

「ひばり」

つぐみは息を吐きだした。葉が3000萬で買った契約夫であることはひばりだってもう知っている。意味のないやりとりだ。

「いったいなにが目的なの。あんな馬鹿げた提案」

「3000萬で結婚を迫ったねえさまには言われたくないけどね」

「久瀬くんに手を出さないで」

「なにもしてないよ。ねえさま、まさかそんなことを言うためにここに來たの?」

「出さないと言って」

「あのひとのこと、わたしも調べた」

つぐみの言葉を遮るようにひばりが言った。

「……それは聞いたよ」

この部屋の口で、昨晩滔々と語っていたではないか。なんであんなこと。葉がいなかったら、ひばりの口を塞いでいた。

「だから、なんなの?」

「まあ実際、経歴自はたいしたことはなかったよ。親が死んで、親戚に引き取られて、そのあと施設に預けられた。犯罪歴もないし、悪いひとたちとのつながりもなさそう。ごくふつうの、ちょっと不幸な生い立ちのひとだよね。……もし彼が、《《ねえさまの結婚相手じゃないのなら》》」

ひばりは深く息をついた。

高校三年生とは思えない、大人びた息のつき方だ。この子もつぐみとはちがう意味で、子どもらしい子ども時代を送れていない。

「わかっているでしょう、ねえさま。あれだけはだめ。あなたが誰にしても、誰をあいして、どんな結婚をしてもいいけど、あれはだめだよ。ねえさまは絶縁しても、鹿名田本家のを引くたったふたりのうちのひとりで、あれと結婚するということは、あれのをこの家にれるということなんだよ。知ったら一族の人間たちが何を言い出すか。賢いあなたならわからないわけないでしょう?」

ひばりは封筒から取り出した書面をテーブルに置いた。

「書いて」

離婚屆と書かれた書面はご丁寧に雙方の記欄がすでに埋められていた。端正な文字はひばりによるものだろう。サイン欄だけがまだどちらも空いている。

「久瀬くんはサインしない」

「ねえさまがサインしたらするよ」

突き放すような口調でひばりは言った。

「ねえさまがサインするまで、わたしはこの部屋の扉をあけない」

「子どもじみたことをするのはやめて」

「ちなみに5000萬円の話ははったりでもなんでもないよ。わたしはおじいさまから鹿名田の土地の一部を相続してる。すこし売ったら、それくらい簡単に用立てられるから。――久瀬さんもどうせなら高いほうがいいって言ってたし」

無邪気さを裝い、ひばりが微笑む。

葉ならほんとうにそう思っていたって、そんな品のないことは言わない。

これはひばりの罠だ。つぐみを揺さぶって、サインさせたいだけ。

わたしは馬鹿じゃない。その手にのってたまるか。

「いいよ、5000萬でも1億でも。わたしはその上を出すから」

低い聲でつぐみは言った。

「わたしは絵を描き続けている限り、いくらでもお金が手にる。先に盡きるのはひばりだよ」

「……そう簡単には盡きないつもりだけどね。でも、理屈は認める。わたしはねえさまとちがって、あるものを売るだけで、お金を生み出すことはできないから」

意外にもあっさりひばりはを引いた。

「でも」と軽く腰を浮かせて、つぐみの手にれる。

「ねえさまの絵、久瀬さんなしで描けるの?」

どくっと心臓が橫から毆られたみたいに跳ねて、脈がまたへんな方向にすっ飛んでいった。の中央がすうすうして痛い。やめて、おさまって。まだだめ。今はまだ。

「……か、描けるよ」

「噓。ねえさまは久瀬さんに出會うまで、巧いだけの花しか描けなかったじゃない。あれは値がついた? いくら? ねえさまがひとりで描いた絵に世の中のひとはどれくらいの価値をつけてくれたの?」

どれほどの価値もついていない。あの、ただ超絶技巧の刺繍のように描かれた絵たちは、長く一枚も売れずに鮫島畫廊の隅に眠っていた。つぐみを畫家としてつぐみたらしめたのは「花と葉シリーズ」だ。葉と出會わなければ、えんえんと誰にも求められない花を生み出すひきこもりのがいただけ。

「久瀬さんも、ねえさまより5000萬を取るって」

ひばりは機に転がされていたペンをもう一度つぐみのまえに置いた。

「お金もらえるならそっちのほうがいいって。ねえさまとは別れるって。だって、べつにいたくてねえさまのそばにいるわけじゃないんだし。あなたみたいなひとのそばに進んでいたがるひとなんて、この家の外にいるの?」

――だいじょうぶ。

こんなことはいつも言われてる。思ってる。

だいじょうぶ、だいじょうぶ。いまさらだ。

わたしはひとつも傷ついてない。だいじょうぶ……。

「……ドア」

言い聞かせているのに、口からこぼれたのはまるでちがう言葉だった。

「ドア、あけて」

懇願するような聲が出た。

ドアが、ドアが、ドアが。

閉まってる。出られない。ちがうちがうちがう。出たらだめ。こわいことが起きる。《《こわいことが起きる》》。ちがう、そうじゃない。そうじゃないのに、なにも考えられない。頭がぼうっとして、まっしろになる。やめて、ドアを閉めないで。

「ねえさまがサインするなら、すぐにあけるよ」

つぐみは首を橫に振った。

「ねえさまのことはわたしが守るから。あいつは要らない。そうでしょう」

「おねがいあけて」

泣きだしそうだった。

を押さえる手は強く握りすぎて指先が覚を失くしている。いきぐるしい。思ってしまうともうだめだった。息を吸うのと吐くのがうまくできなくなる。ぜ、ぜ、と鳴が咽を鳴らした。椅子に座っていられなくなって床にしゃがみこんでしまう。はしたない。怒られる。

「おねがいひばちゃん、あけてよう……っ!」

「ね、ねえさま、」

それまでの泰然としたそぶりが噓のようにひばりが狼狽した。差しべられた手に肩がびくっと跳ね上がり、自分のものじゃないみたいな悲鳴が上がる。

――つぐみちゃん。

ドア。

ドアがある。

鉄製の安っぽいドアだ。汚くて端が錆びている。アパートのドア。

――つぐみちゃん、あけたらだめだよ。

――こわいことが起こるよ。

彼は言った。あのやさしい聲で。

――つぐみちゃん。

「ねえさまー」

習字の帰り道、妹のぶんもった道袋を肩にかけて、お迎えの車を待っていると、ひばりがつぐみの袖を引っ張ってきた。

「あのおじさん、さっきからずっとこっち見てるよ」

「おじさん?」

ひばりが示す方向に目を向けると、つぐみたちがいる公園の口からは離れた場所にあるベンチで、ジャンパーを著たおじさんが空き缶に煙草の灰を落としていた。

「見てないじゃない」

「えー、ねえさまがきづくまでずっと見てたよ」

ひばりは不満そうに口をへの字に曲げて、つぐみの腕に甘えるように頭を押しつけてくる。稚園の年中さんになって前よりは多甘えたも減ったけど、ひばりは生まれたときからずっとふたつ年上のつぐみにべったりだ。

「サカキさん、まだあー? ひばり、おなかへった」

「もうすぐ來るから。ひばちゃん、がまん上手になったでしょ」

「おなかへったあ!」

つぐみとひばりのお迎えを擔當している榊《さかき》という運転手は、仕事のあいまにパチンコに行くのが趣味で、いい球が出ていると、こんな風にちょっと長く待たされることがある。ややルーズだが、いつもにこにこして溫厚な榊がつぐみは好きだったので、パチンコのことは見ないふりをしていた。

ひばりが癇癪を起こしそうだったので、つぐみはポシェットからいちごキャンディを取り出した。フィルムを剝がして、ひばりの口に放り込む。むすっとしていたひばりの表がみるみるゆるんだ。

「ひばり、いちごの飴すき」

「そう、よかったね」

今日は榊さんのお迎えがことのほか遅い。

いちごキャンディを食べ終えると、ひばりは暇を持て余して、園のブランコで遊びはじめた。しかたないので、つぐみは車止めに腰掛けたまま、車道を行き來する車を見つめる。公園の口にあるポプラの樹は黃づいて、つぐみの足元にたくさんの葉っぱを落としている。

ぶらぶらと足を振りつつ、おうちに帰るのやだなあ、とつぐみは思った。

週末には親戚の集まりがある。始終気を張っていなければならないこうした行事がつぐみは苦手だった。中を視線という針で刺されている気分になる。まえに、おなか痛い、行きたくない、と鷺子に訴えたら、わがまま言うんじゃありません、と叱られた。以來、おなかが痛くても、がんばってがまんをしている。

ふとブランコからひばりの気配が消えていることにきづいて、つぐみは園を見回した。ひばりはベンチのまえにいて、ジャンパーのおじさんと何かをしゃべっていた。

「ひばちゃん」

ひばりの腕を引き、「なにしてるの」とすこし固い聲を出す。

知らない大人としゃべってはいけません、と祖母にはいつも言われている。

「おじさん、キャラメルくれたー」

ひばりは端が溶けかけて包み紙がけているキャラメルをうれしそうに差し出してきた。キャラメルは鹿名田家ではストックされないお菓子だ。ひばりにはめずらしかったにちがいない。ひとから勝手にお菓子をもらったらだめでしょ、と注意しかけて、目の前のおじさんの存在にきづく。

「あの……ありがとうございます」

知らない大人としゃべってはいけないけれど、誰に対しても常に禮儀正しくいなさいとも言われている。とくに挨拶とお禮は欠かさないこと。どうしたらいいかわからなくて、とりあえず禮儀正しくすることにした。

「どういたしまして。お禮ちゃんと言えてえらいな」

真正面から見たおじさんは、うっすら髭が生えていて、著ているジャンパーもスニーカーもくたびれていたけれど、目だけはきれいに澄んでいた。「食べる?」と訊かれたが、つぐみは首を振った。ひばりはキャラメルをもうもぐもぐしている。

「名前なんていうの?」

「……つぐみ」

ひばりをそれとなく自分の背に押しやりつつ、こたえる。

「つぐみちゃん」

おじさんの澄んだ目とぴたっと目が合った。

彼は立ち上がると、しゃがんでつぐみに目線を合わせた。

「おじさん、君たちの運転手さんに頼まれて、代わりにお迎えにきたんだ」

「榊さんに?」

「そう、榊さんに。あっちに車を止めてあるから、ひとりずつ來れる?」

「ひとりずつなの?」

「そうだよ」

おじさんは有無を言わせない口調でうなずいた。

どうしてひとりずつなんだろう。でもこのあいだ、あまりどうしてどうしてって訊くのははしたないとおばあさまに注意された。訊かないほうがいいのだろうか。

「どちらから行く?」

「ねえさま、ひばり、疲れたあー」

會話からのけものにされたひばりが不満そうにつぐみの腕を引く。

いつもだったら、ひばちゃん先に行っていいよ、と譲った。でも今日はなんだか嫌な予がして、うまく言えないけれど嫌な予がして、「ひばちゃん、ここでちょっと待ってようね」とひばりをベンチに座らせた。ひばりの気をそらすように殘っていたいちごキャンディを握らせる。

習字の道袋を肩にかけ直して、すでに歩き出しているおじさんのあとを追う。

おじさんの言うとおり、公園の外には白の軽自車が止めてあった。

「この車?」

「うん」

込みしていると、おじさんの手がつぐみを抱え上げて車に乗せる。なぜか腕をタオルで縛られて、頭にジャンパーをかぶせられた。痛い、と訴えると、結び目を緩めてくれる。ドアが閉まった。ひばちゃんは? 答えは返らない。運転席のドアが開閉する音がして、そして車はつぐみだけを乗せて発進した。

でつぐみは暴れた。帰りたい、こわい、と泣いた。

おじさんは車のアクセルを踏むだけで、暴れたつぐみが後部座席から転がり落ちてもそのままにしておいた。いやだ。かえりたい。おうちにかえりたい。

ぐすぐす泣いているうちに疲れてすこし眠った。どれくらい走ったのだろう。ふいに車が止まる気配がして目をあけると、あたりはすっかり暗くなっていた。ジャンパーはいつのまにか頭から外されていたようだ。

「つぐみちゃん、ほら出て」

おじさんはつぐみの腕からタオルをほどくと、車の外に引っ張り出した。

靴がひとつぽとっとげる。おじさんはそれを拾い、つぐみの足に履かせ直した。

切れかかった外燈が、錆びた鉄骨のアパートを照らしている。

ここ、どこだろう……。

よくわからないまま、おじさんに抱え上げられて急な階段をのぼっていく。端の一室がおじさんの部屋のようだった。錆びた鉄製のドアをあけると、ごちゃっとした狹い畳の部屋が現れた。洗濯が窓にかかっている。男のシャツと下著、あと子どもの靴下。

「いい? つぐみちゃん。俺は君に何もしない。それは約束する」

彼はベンチで會ったときとおなじように、つぐみに目の高さを合わせて言った。

「ただし、ここから勝手に出たらだめだからな。君も約束して」

おじさんが言っていることはむちゃくちゃだし一方的だ。なのに、噓は言っていないという生真面目さがなぜかじ取れた。しかたなく顎を引く。

「……はい」

「よし、いい子だ」

おじさんはくたびれた顔でうすくわらった。

立ち上がって、「葉《よう》―!」と奧に向けて聲をかける。

すこしすると、ひょろりとした痩せっぽちの男の子が「おかえりー」と顔を出した。お人形さんみたいにきれいな顔立ちをした男の子だ。つぐみを見てぱちくりと目を瞬かせた男の子に、

「この子預かったから、世話してくれ」

とおじさんが平然と噓をつく。

「いや、よそんちの子、ほいほい連れて帰らないでよ、おやじ」

「著替え出して、あと風呂にれてやって。夕飯は?」

「作ったけど、カレー。いつものがないやつ」

「ん」

おじさんがスーパーのビニール袋をおもむろに渡すと、男の子は目を輝かせて「!」と言った。男の子の頭を雑にかき回して、おじさんは部屋の中にる。ベランダの網戸ががらりと開いて、ほどなく煙草のにおいが微かに漂ってきた。

玄関にはを持った男の子とつぐみだけが殘される。

「えーと、とりあえず上がって」

男の子は戸いつつも、やさしく言った。

痩せっぽちだけど、つぐみより背が高い。小學何年生だろう。

「おやじ、昔からときどきひと拾ってくるんだよなー。えーと」

「つぐみ」

「つぐみちゃん」

つぐみはおじさんに拾われたわけではない。

拐、という言葉が脳裏によぎる。拐。

怪しいひとには絶対についていってはいけませんと、稚園から小學校に上がるとき、おばあさまに何度も言われた。學校でも先生に教わった。怪しいひとについていってはいけません。おじさんは怪しい。

これは拐だろうか。おじさんは噓をついてつぐみを車に乗せたけど、「何もしない」と約束してくれて、連れてこられた先のアパートでは、なぜか自分とちょっとしか年の変わらない男の子がっていないカレーを作って待っていた。

「あのひと、君のおとうさん?」

「うん。そうだけど」

特売のシールがついたのパックをキッチンに置くと、彼はつぐみの足元にかがんで、折り重なっていたゴミ袋をどけた。

「はい、どーぞ」

転ばないようにどけてくれたらしい。

瞬きをしたつぐみに、ふにゃりと人懐っこくわらう。

――それがわたしと葉の、ほんとうのはじめての出會いだ。

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