《お嬢さまと犬 契約婚のはじめかた》六 奧さんとはじめての (4)
べランダの外から見えるポプラの樹が燃えるようにづき、やがて散っていった。
ここに來てから三週間が過ぎた。隣室からは時折クリスマスソングが途切れがちに流れてくる。おじさんが以前にも増して留守しがちになったことを除いては、この狹い部屋にはあまり変化がない。
「つぐみちゃんの誕生日、クリスマスイブなんだ?」
葉《よう》のとなりで一緒にきぬさやの筋取りをしながら、そんなことを話すと、葉は驚いた顔をした。
「じゃあ、お祝いしなきゃじゃん」
「……そうなの?」
「うん。誕生日はねー、おやじが一個だけ駅前のケーキ屋さんのケーキ買ってくんの。クリスマスはコンビニのチキン。食べたことある?」
「ううん」
クリスマスはいつも使用人がとくべつに七面鳥を焼いてくれる。それにパイ生地で包んだシチューと、おばあさまが気にっている長い英字のお店のブッシュドノエル。でも、鹿名田《かなだ》家では毎年、新年のほうがずっと豪華だ。本家には分家を含めた親族が集まるし、広間の長テーブルには豪勢なお重が並べられる。でも、葉が言うコンビニのチキンのほうがおいしそうだ。
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葉と食べるチキンのことを想像していると、背筋に悪寒が走って、くしゅ、とくしゃみが飛び出た。
「へいき? 風邪?」
葉の手のひらがつぐみの額にあてられる。
葉はい頃から病気知らずで、この家には溫計や常備薬のたぐいがないらしい。おかあさんがいた頃はあったらしいけど、死んだときにおじさんが皆捨ててしまったそうだ。そういえば、つぐみは冬になると結構な頻度で調を崩すことを思い出した。
「んん、ちょっと熱い……?」
「だいじょうぶだよ」
「……そう?」
心配そうな顔をする葉に、うん、とうなずき、きぬさやの筋取りに専念する。このきぬさやは今日の夕飯のじゃがに使われるらしい。
一度、この部屋から逃げ出そうとするのをやめてから、つぐみは完全に外のことを考えるのをやめた。両親が自分を見殺しにしようとしているかもしれないとか、お金を得られなかったおじさんがつぐみを殺そうとするかもしれないとか。ぜんぶ考えるのをやめると、あふれだしそうだった不安はすっとしぼんで、不自然なくらい心は落ち著いた。
代わりにつぐみは葉にべったりになった。夜はずっとくっついて眠っていたし、葉がごはんを作っているときも、掃除をしているときも、トレーナーの端を握っていた。葉が出かけると、玄関で膝を抱えて犬のようにずっと待った。鍵があいていても、もうつぐみはどこにもいかない。この家には葉がいるから。
たった三週間でしっかりと整えられていたはずの鹿名田つぐみの像はぼろぼろと剝がれ、ただ甘えたがっている六歳の子どもだけが殘った。異常な環境と葉という男の子がつぐみをそういう風にしてしまった。
夜になると、悪寒が止まらなくなった。背筋がぞくぞくして、寒くてたまらない。なのに、頭はぼんやりと熱くて咽が痛い。
「つぐみちゃん、へいき?」
背中を丸めてうなされているつぐみにきづいた葉が、電気を點けてつぐみの額に手をあてる。「あつい」とつぶやいて、葉は冷凍庫から保冷剤をタオルに包んで持ってきた。頭の下と、脇の下にれられる。すこし楽になったけれど、保冷材はすぐにぬるまって、背中のぞくぞくがひどくなる。さむい、さむい、とうわごとを言うつぐみを葉は途方に暮れたようすでさする。
おじさんは今日も出かけていた。最近は朝まで帰らないことも多い。
熱くて、熱くて、でも氷の海に沈められたみたいに寒くて、これはなにかの罰かと思った。なんの罰だろう。ドアを――ドアをあけなかったから? ここから逃げないで、なにも考えないふりをして、ずっと鹿名田の家に帰らずにいる。つぐみはわるい子だ。おばあさまが知ったら叱られる。だから、罰が當たってしまったの?
「……ごめんなさい、おばあさま……ごめんなさい……ごめんなさい……」
うなされながらぐすぐす泣いていると、つぐみの背をずっとさすってくれていた葉の手がふいに止まった。惰のようにうろうろと背中をぜてから、「つぐみちゃん」と聲をかける。
「がんばってすこしだけ起きられる? お醫者さんに行こう」
「おいしゃさん……?」
茫洋と見返すと、葉はつぐみの額にりついた前髪を指でのけた。
「おいしゃさん、でも、夜やってないよ……」
「だいじょうぶだよ。俺のかあさん、夜に連れて行ったことあるから。病院までの道も知ってるから」
そう言うと、葉は外著に著替えて、つぐみにはパジャマのうえから自分のコートを著せた。それから「あ、おかね」と思い出したようすで、斗からお菓子の缶を持ってきて鞄にれる。じゃらじゃらと音がしている。たぶん、葉がおじさんに言っていた全財産の五百円だ。
「つぐみちゃん」
葉がつぐみのまえに背を向けてかがんだので、のろのろとそのうえに乗って首に腕を回す。お日さまと洗剤を一緒くたにしたような、葉のにおいがした。つぐみを背負った葉が部屋のドアノブをつかもうとしたので、「でも……」とつぐみは力なく首を振った。
「ドアあけたらだめだし……」
「だいじょうぶだよー」
葉はやさしい聲で言った。
「ドアは俺があけるんだもん。つぐみちゃんじゃないから、誰も怒らないよ」
きぃ、と微かな軋みを立ててドアがひらく。
頬に吹きつけた風の冷たさにつぐみは瞼を震わせた。葉は部屋に鍵をかけると、つぐみを背負ったまま、ちょっとだけ危なっかしげに鉄骨の急な階段をくだった。
暗い空からは雪が舞っている。今年はじめての雪なのかはわからない。
白い雪片が降りしきる人気のない夜道を葉は軽に走っていく。規則的な揺れにをゆだねているうちに、とろとろと眠気が押し寄せた。あたたかい。お日さまのにおいがする。知らなかった。こんなにひとの背中ってあたたかいんだ。
わたしは葉くんがすき、とつぐみはふいに思った。
この男の子がとても、とてもすき。
いつかこの男の子が困っていたら、わたしは持っているものをなんだってあげるし、なんでもする。ううん、困っていなくても。葉にだったら何をされてもいいし、なんだってしてあげたい。そうすることで、持っているものをぜんぶ失くしてしまっても、ぜんぜん惜しくはないし、むしろ満たされる気がした。
目をあけると、見知らぬ病院の白の燈りがついた窓口に著いていた。
大人たちに葉が何かを話している。相手ははじめは戸っている風だったけれど、つぐみのようすにきづくと、顔を変えて中に案してくれた。溫計を脇の下にれられる。四十度を超えていた。
――の子が熱を出してるみたいで……! 運んできたのも男の子なんですけど!
溫計を持った看護師さんが先生を呼びにいく。大人たちがいったんいなくなったのを見て取ると、葉は鞄からお菓子の缶を取り出して、つぐみの橫に置いた。力なく座っているだけのつぐみのコートを直してくれる。
「葉くん……?」
「うん?」
「どこいくの……?」
「うーん」
葉は困ったような顔をした。
「おやじのとこ帰る。帰ってきて俺もつぐみちゃんもいなかったら、びっくりしちゃうし」
「でも」
つぐみがいなくなったとわかったら、葉は叱られるんじゃないか。ベランダでおじさんは葉につぐみを外に出さないように言っていた。約束を破って葉はひどい目に遭ったりしないだろうか。
「わ、わたし、帰るからね」
葉の上著の裾をつかんで、必死に言い募った。
「葉くんのおうちに帰るからね」
「……うん」
短い沈黙のあと、葉はふにゃりとわらった。
「またいつでもおいで」
汗ばんだ額に葉のがれる。
つぐみは瞬きをした。が離れる間際、一瞬だけ間近で見つめ合う。目を細める葉のわらいかたが果敢なくて、つぐみよりすこしだけ年上だった彼は、その約束の意味のなさをわかっていた気がする。
二日後、病院で目を覚ましたとき、事件はすべて終わっていた。
拐された児(6歳)は病院で無事保護。被疑者とされる本郷《ほんごう》奏《そう》(37歳)は翌朝、もともと住んでいた家のそばに流れる川で水死しているのが発見された。とくに爭った形跡はなく、メモ程度だが書も発見されたので、自殺と結論づけられる。事件は被疑者死亡のまま、書類送検された。
本郷奏の一人息子の話は當然のことながら、どの報道にも出なかった。世間を一週間ほどにぎわせた事件の水面下に沈んでいくように、本郷葉のゆくえは途絶える。
ベッドのうえで両親同伴のもと警察の事聴取をけ、退院するまでのあいだ、ずっとつぐみは葉のことを考えていた。鹿名田の家に戻ったあと、はじめは腫れものを扱うように、徐々に焦れて苛立ち、そして最後は誰もがあきらめて離れていく、その長い時間もずっと葉のことを考えていた。
あの日、雪が降っている夜道をひとり走り去っていった男の子は、無事に家に帰れたのだろうか。おじさんには會えたのだろうか。約束を破って怒られはしなかったか。おじさんはほんとうに死んだのか。おじさんを見つけて警察に通報したのは葉だったのだろうか。彼は今どこでどうしているのだろう。生きて……いるのだろうか?
考えていると、つぐみはあふれてくるをのなかにおさめておけなくなる。
ごめんなさい。わたしはあのとき君の善意にのるべきじゃなかったのだ。
ただひとり君だけが無償で注いでくれたやさしさ。あれは対価もなくもらってはいけないものだった。
あのドアはあけてはいけなかった。絶対にあけてはいけなかった。―――ちがう。つぐみさん、ちがいますよ。それはあなたが生きのびるために當然にしたことで―――あなたが罪悪を抱える必要はどこにも―――うるさい。うるさい、うるさい。みんなうるさい。わたしの心のなかにってこないで。わたしの心を正しいかたちにおさめようとしないで。わたしのなかからあの子を消してしまわないで。おねがい、おねがい。
わたしは葉くんがすきだった。すきだった。
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