《アナグマ姫の辺境領修復記》1.訃報
「アニエスは何がしい?」
八歳の誕生日、父に訊かれた。
この世で父に手にれられないものなどなく、何でもみを葉えてくれると言うから、一度だけ願ったことがある。
母に會いたい、と。
父は白いの混じった顎鬚を一度、二度、三度までなでつけ、その年は鏡をくれた。
両手でなければ持てない大きな手鏡だった。當然ながら、そこに映るのはい自分。先がよく暴れる黒い髪に、なぜだかいつも眠そうに見える灰の瞳を持つ。
「お前は母様にそっくりだ」
八歳の日、ようやく理解した。
もう、母はこの世にないのだと。
◆◇
その日も、いつも通りの朝だった。
薄い水の空の下、黒いローブをまとい、アニエスは王都の一角にそびえる《城》へ出勤する。
彼が父に手鏡をもらった日から十年が経過している。背の中ほどまでびた黒髪はいくらか先が落ち著くようになり、晝夜問わず虛ろな灰の瞳は眼鏡でいくらか隠されるようになっていた。
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彼は特段遅くも早くもない歩調で敷地を橫切り、立派な噴水のある庭園後方の塔の中にった。
途端、古書の香りが鼻孔をつく。
明るいラウンジが目の前に開け、三六〇度、床から天井までびっしり詰まった、一五〇〇萬冊の出迎えをまずける。
王都學院付屬図書館。建國二百年を超えるスヴァニル王國の、知の粋を集めた施設だ。
利用者の多くは隣の《城》――學院に通う生徒や、隣接した研究所の職員たちであるが、一般開放もされている。しかしまだ開館時間には早いため、ソファやテーブルの並ぶラウンジに人影はない。
書庫は吹き抜けで、二階から四階までちらほらと司書たちの影が見える。ラウンジには付のカウンターに座る妙齢のが一人である。
「おはようございます」
カウンターに辿り著く前に、いつものことながら、アニエスは挨拶の先を越された。司書のビアンカは二十五歳。七つも上の先輩には己が先に挨拶せねばと常々思っているが、よく気がつき聲も通る彼に勝利することは、寡黙なアニエスには困難だった。
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「おはようございます」
カウンターに著いてから挨拶を返す。聲が低いのは生まれつきである。
アニエスが目的としている場所は、ビアンカの背後にある扉。カウンター臺の側面の一部を押し開け、扉に手をかけるわずかの間に、必ずビアンカとは二言三言の會話をわす。彼は面倒見の良い人だった。
「アニエス様、クマができてしまっていますよ」
ビアンカが自分の右目の下を二度つつく。アニエスもつられて、眼鏡の下へ軽く指を差しれた。
「目立ちますか?」
「し。よろしければお直しいたしましょうか? 化粧道を持っておりますので」
ビアンカのはいつもしく手れされ、やや黃がかった図書館の人工照明の下でり輝いている。アニエスも多は整えてきたつもりだが、就職するまで化粧などの支度はもっぱら人にしてもらうばかりで、あまり技がについていなかった。もともと、アニエス自が灑落っ気に乏しい娘なのだ。
「今日は特に外部の人と會う予定もありませんから、結構です。お気遣いありがとうございます」
「またそのような。王殿下ともあろうお方が、ぐさでいけませんねえ」
不満そうなビアンカに、アニエスは控えめな笑みを返す。
「王と言っても、《アナグマ》ですから」
では、と適當に切り上げ、扉の奧へさらに潛っていった。
窓のない、狹い廊下はの中を進んでいるような気分になる。吹き抜けのラウンジを見た後で、よけいに天井が低くじられるせいもあろう。
突き當りの短い階段を下れば、そこにアニエスの仕事場がある。
「おはようございます」
最奧の部屋にはよく似た老人が二人いた。どちらも背中が緩やかに灣曲し、鼻の下に白い口髭を蓄えている。彼らはアニエスを見て嬉しそうに、目に深い皺を作った。
「おはようございます。アニエス様、どうぞこちらへ」
「お見せしたいものが」
「なんですか?」
扉橫にローブを掛ける前に、アニエスは老人たちのいる作業臺へ向かった。
部屋には木製の作業臺が他に五臺ほど據えられ、それぞれの機に様々な道と、古書がいくつも整理されて置かれている。
老人たちは古書の塔の上から、一つ取ってアニエスに差し出した。
ひどくボロボロの、赤い表紙の本である。両手で取ればれた部分に小さな亀裂がり、指にカスが付く。赤いはもともとのではなく、表紙の牛革が長い月日のうちに劣化しただ。
そっと本を開けば、黴臭さが増す。長年紅茶に浸け込んだかのようにページが褐変している。ところどころに蟲食いの跡や破れも目立った。
しかし背表紙のタイトルはかろうじて殘っていた。
「! 『霊記』ですか」
眠たそうな灰の瞳が、やや大きくなる。
「おおよそ百年前の、初版本です。マクラン地方の名士から寄贈されましてな」
「・・・っ」
アニエスのは細かく震えていた。
「よろしければアニエス様が修復されてはいかがかと」
「私が?」
「はい。修復が終わりましたら、書庫に収める前に読まれるとよろしい」
「良いのですか?」
無意識に、アニエスの聲は弾む。
「ありがとうございます。とても、とても嬉しいです」
表にはあまり出ていないが、心では靜かに高揚していた。
「――《彼らのが流れる言葉を、救い出す栄譽に我らは震えるのである》、か」
老人の一人が口ずさみ、もう一人が首を痛めぬようにゆっくり頷く。
「まこと。特にアニエス様は、霊やら魔やらの伝承がお好きですからなあ」
「・・・そう、ですね。なんとなくですが」
老人らの生溫かい視線に気づき、アニエスは気まずそうに下を噛んだ。
霊は天地のあらゆるものに宿る不可視の存在であり、スヴァニルの國民は祈りを捧げる時に彼らを思う。また、人間の中には霊の力を借りて様々な現象を起こす、《紋章》と呼ばれる特殊な技能を持つ者がおり、今も昔も人は霊なしには生きられない。
一方で魔は、深い森や山奧にひっそりと棲んでいる希で危険な存在だ。魔の形態は様々であるが、一般的に人や獣などより遙かに頑丈なを持ち、魔力を有する獰猛な生きが分類される。
アニエスは自分で見たことがないそれらの存在を記した書が、昔からなぜだか好きで、関連する語や図鑑をの頃は誕生日のたびに父にねだっていた。
他にも本であればアニエスはなんでもよく読んだ。いつしか本という存在そのものをすようになり、その興味の延長線上にこの職場があったと言える。
アニエスが準備するうちに、一人、二人と出勤してくる。
総勢は六名。平均年齢は十八歳のアニエスの約三倍。
ここは學院付屬図書館の《古書修復部》。雙子の老人アウデンリートの工房である。
部員が四十代以上しかいないところに、アニエスは十六の年から古書の修復士として職を得ていた。図書館に寄贈された何百年も昔の古書や、貸し出した際に傷を負った書の修復がアニエスらの仕事だ。
い頃、父に連れられてこの仕事を知り、アウデンリート老らの指導を経て、今では一人前の修復士となった。
そんな書庫の奧深く、まるでのような部屋に息を潛め黙々と勤める彼らを、學院で口の悪い者はアナグマと揶揄する。
特に、いつも真っ黒な服裝で、黒い髪の隙間から白いが見えるアニエスなどは、味がまさしく白黒のアナグマである。よって、口さがのない者はさらにアニエス個人を指し噂するのだ。
アナグマ姫、と。
(さて――)
自分の作業臺の上に本を置き、アニエスはまずペンと紙を挾んだバインダーを持った。
“『霊記』修復報告書
報告者 アニエス・スヴァニル 建國歴二一二年五月六日
修復前の狀態記録”
見出しを書き、本の現狀をわかる限り詳細に記していく。
修復を行う前に一枚、修復後にどのような処置を施したかを一枚、報告書にして提出することが仕事の実績となる。
続けて、アニエスはページの一枚一枚に番號を鉛筆で書き込んでゆく。これからナイフやハサミを用いてページをばらばらにし、すべて『洗って』新たな表紙を付け、もとのように綴り直すための、前段階の作業である。
古書修復は最初から最後まで緻で気のいる作業が続く。どこかで短気を起こせば、筆者がを吐く思いで書き記した知を、言葉を、永遠に失うことになるのだから気が抜けない。
つまんだだけでピリリと裂けるページを損なわぬよう、丁寧に、冷靜に、慎重に扱う。忽者ならば発狂してしまいそうな作業が、アニエスはとても好きだった。
他の部員も作業に集中しているため、部屋は常に沈黙が支配する。
よって、廊下を走る足音は、扉が開く前から中へ響いていた。
「アニエス王殿下っ」
聞き慣れない聲に、顔を上げる。
するとビアンカと、息を切らした青年がいた。ビアンカは青年の案をしてきたのだろう。彼はスヴァニルの國章をに付けていた。
王城の使いである。よく見れば顔に覚えがある。
使いは奧の作業臺にいるアニエスを迷わず見つめ、口で告げた。
「國王陛下が、崩されました」
ひゅ、とアニエスのが勝手に鳴った。
他の者も同様に、音のれた口を覆う。
「急ぎ王城にお戻りください。さあ」
數人に背を押されて急かされるまで、アニエスは鉛筆を握ったまま、その場からぴくりともけずにいた。
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