《アナグマ姫の辺境領修復記》5.一人旅

まず、アニエスは劣化した本の背革をナイフでそぎ落とした。その下に現れた折丁の背は膠で接著されており、そこに小麥を溶いた水を塗りたくると、ふやけてヘラで取れるようになる。

できる限り膠を剝がしたら、続いて小さなハサミを使い、ページをい留めている糸を慎重に切った。そして先にが付いたピンセットで、紙を破かないよう本から一折ずつ剝がし取る。折丁を剝がす際には、背に殘った膠が途中で乾いてしまわぬよう、定期的に濡らした布を當てながら作業せねばならない。

霊記』は全二三二ページ。一枚の紙を二つ折りにし、その表と裏を合わせた四ページ分が一折であるから、全部で五十八枚の折丁を剝がすことになる。

中には破れているページもあるため、どれも一様に引っ張ってよいものではないが、アニエスはその微妙な作業を機械的にこなしていく。決して素早いきではないのに、十數分程度で終わった。

続いて二つ折りしたままの折丁を水に浸けて洗浄する。奧のスペースに洗濯用のたらいが三つほど置かれており、その一つにアニエスは手をかざした。

「ん・・・」

特別な言葉も必要なく、たらいの底から水が湧く。ある程度溜まったところで、暖爐にかかった鍋から溫石を金鋏で取り、たらいの水を沸騰しない程度に溫めた。

そうしたら、まず薄い板を水底に沈め、その上に二つに畳んだままの折丁を一枚沈め、そこにまた板を沈め、折丁を沈め、と、一冊分をたらいに沈めるまで繰り返す。板は濡れた紙が破けないようにする支えである。

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たらいの前にしゃがみ込み、黙々と作業をこなしていくアニエスだが、意識は半分、そこらに散漫していた。

ただ手だけが常の通り丁寧にく。

「エインタートへは、行かれないのですかな」

橫に、老人がしゃがんだ。雙子のアウデンリートの兄のほう、ノーマン翁である。彼は右目の橫の茶いシミで見分けられる。

「・・・まずは、この仕事を終わらせなければ」

「仕事なぞ、お気になさらずともよろしいのですよ」

「そういうわけにはいきません」

気遣いの言葉であるとわかっていても、アニエスは頑なに返してしまう。二人の師にも父の言に関わることは話してあった。

「・・・まだ迷っているのです」

しばしの後、なおも老人は傍をかず、アニエスは観念して、正直な気持ちを吐した。

「現実的に考えて、領地を継ぐことはできません。ただ私は、母のことを知りたいだけで――それだけの理由で、仕事を休んでまで行くべきでしょうか。すでに亡くなっている人のことを知って、なんの意味があるのか・・・」

この時點で葬儀から三日が経っている。しかし心は中途半端なところに漂ったまま、先のことをろくに考えることができずにいた。

「ありますよ。大いなる意義がありましょう」

すると、作業臺にいるアウデンリートの弟のほう、フーゴ翁が口を挾んだ。

「あなた様は、やっとご自分を知ろうとなさっているのです。己を知らずに生きることは、誰にもできぬものです」

たらいから顔を上げたアニエスに、ノーマン翁も大きく頷く。

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「さよう。《己が誰か》ということは、《己がどこから來たのか》ということに他なりません。お母君のこと、お生まれになった土地のこと、あなた様は今こそ知らねばなりません」

「まずはご自の目的のためにいてみなされ。他人のことは後回しでよろしいのですよ」

雙子の老爺が互に諭す。その聲音に、微笑みに、宿るのは慈しみと寛容である。

(・・・行ってもいい、の?)

頑なだったものが、し解かれてゆく。

(・・・許されるのなら、行ってみたい。それは間違いなく私の本音)

優しく背を押され、迷いの沼から一歩だけ、足を出せた気がした。

やがて、たらいの水が黃く濁った。この濁りがなくなるまで、水を何度も換し、いくらかきれいになったところで、今度はアルカリの薬剤を溶かした水の中に沈める。

しばらくしてから取り出し、板に挾んだまま乾燥させる。そよ風の紋章をかけて、數時間置けば次の処置ができる。再來週には修復が完了するだろう。

乾燥部屋の巨大なラックに板を並べ終えた時、アニエスも心の整理を付けられた。

(意味があるのかは考えなくていいのかもしれない。行ってから、意味があったのかを考えてみよう)

「・・・《なべてこの世は悔いばかり》」

思考の途中で、自然と本の一説が口に出た。かすかに笑みも浮かんだ。

「《死後に悔いよう。いざ行かん》」

今回ばかりは奔放な姫になったつもりで、周りの厚意に甘えてみることにしたのだった。

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◆◇

「この度は當機をご利用いただき、誠にありがとうございます――」

騒々しいエンジン音を背後に、品の良い添乗員が挨拶をしている。

何か大事なことを言うかもわからないため、アニエスは右耳をそちらへ傾けた。しかし結局は単なる挨拶だけに終わり、すぐ首の角度を元に戻す。革張りの座席は客の姿勢に合わせて程よく沈む。

今、アニエスは巨大な楕円形のガス袋の下に、後から糊でくっつけられたかのような客室(ゴンドラ)にいる。

朝に王都を出発した飛行船は、傍目にはゆったりと、実際にはそれなりのスピードで、王國の上空を橫切っており、二時間程も乗っていれば汽車の乗り換えをする街に著く。

まだ時間は十分にあるが、初めて飛行船に乗ったアニエスは々落ち著かない。

(案外うるさいなあ)

青空を悠然と行く様を道端で見上げていた時は、きっと歩くよりも靜かなものだろうと思っていた。遙か上空に、どんなもあるようには思えなかったのだ。

しかし、大それた二つのエンジンが客室の後方に付けられているため、その音と振がかなり近くに當たる。不愉快とまでは言わないが、アニエスはやや期待を裏切られた気分だった。

それでも王族たる彼の席はエンジンから最も遠い、縦室の真後ろにある。そして數分おきに品の良い添乗員がやって來て、飲みやら軽食やらの世話を焼いてくれる。それはそれでし迷だった。

搭乗の際にアニエスが己で名乗ったわけではない。この度の旅程を行きから帰りまでセッティングしてくれたシンディが、乗務員にアニエスのことをよくよく頼んでいたのである。

飛行船自、誰もが気軽に乗れるものではなく、上流階級や富裕層専用の乗りと言ってしまって良い。故に添乗員たちには徹底した教育が施されており、年若い王の世話など彼らにはお手のなのだ。

むしろアニエスのほうが、八歳の日からこれまで、必要以上に世話を焼かれることを頑固に拒み続けてきたため、慣れない。

またそういう扱いをされるとは思わず、普段、街で買いをするのと同じように分を隠すつもりで、いつもの黒のローブとブーツなどをに著け、スカートですらない『牛飼いの服』と呼ばれる幅広のズボンを穿いてきてしまった。

髪はハーフアップにしているだけで、化粧もクマ隠し程度にしかしていない。王と名乗れば目を點にされそうな出で立ちであるが、添乗員たちは微塵もそのような心を顔に出さないため、かえって居たたまれなかった。

らしさに萬全を期すのであれば、ドレスや寶飾品の類だけでなく、本來は然るべき付添人や護衛なども必要だ。だが普段から一人で街を歩き一人で暮らしているアニエスに、そんなものは今更である。の一人旅が珍しい時代でもない。

ただ、良識ある長兄は當然のごとく護衛を付けてくれようとした。しかし、ひと月後に控える戴冠式の準備で大忙しの様子を見かねてアニエスが斷ったため、シンディに気を回してもらうこととなってしまったようである。

(ずっと誰かに張り付かれるよりは、いいけれど)

つくづく自分は王家に向かないとアニエスは思う。

「――皆様、どうぞ左手をご覧ください」

はじめにアナウンスした添乗員の聲につられ、窓の外を見やると、炎のが視界をよぎった。

アニエスは窓に両手を突き、の消えた前方を急ぎ覗いた。すると、鮮やかな橙の鳥が、鵬翼をまっすぐに広げている。

視界に収まりきらない、その左右の羽の端から端は十メートルにも及ぶ。

「世界最大の鳥、オペルギットにございます」

どよめく客によく聞こえるよう、添乗員は聲を高くした。

「オペルギットは約五百年前に異世界からやって來て、ダラムタル山火口に棲みついたと伝えられております。そのの赤さは、主食である溶巖のなのだとか。この辺りの地では、オペルギットが溶巖を毎日吸うために、ダラムタルは噴火しないのだと伝えられております。なおオペルギットはが重く、滅多に飛ぶことのない鳥なのです。そのため、貴重なオペルギットの飛翔姿をご覧になれた方には、大変素晴らしい幸運がもたらされると言われております」

右耳で説明を聞きながら、アニエスは瞬きもせず大鳥の雄姿を見つめ続けた。

(オペルギットを見れば幸運になれるというよりも、オペルギットを見られたことこそが幸運だ)

本で知ったものを、実として見ることができるを靜かに噛み締めていた。こういう時、アニエスは初めて知識を己がに吸収できたと思える。

大昔にやって來た謎の怪鳥オペルギットのみならず、王國には異界よりの訪問者が後を絶たない。

迷い込んで帰化した、それに付著して運び込まれたと思しき植などはいくらでも存在する。

時には人さえ迷い込み、彼らの場合は世界に偉大な知恵をもたらした。

例えばこの飛行船。例えば紋章。細かいものまで挙げ始めればキリがない。

スヴァニル王國は上手にそれらの知識を取り込み、発展していった。ここ數十年は異世界人の出現は確認されていないものの、かつてもたらされたものをもとに、スヴァニルは獨自の進歩を続けている。

(そういえば、エインタートにも異界の門の出現報告があったっけ)

ふと思い出す。

二度に及んだエインタート調査団の報告書をゴードンに見せてもらったところ、そのような記載があった。

異界の門とは、異界の生が出現するポイントとなる《歪み》のことを指す。國の外にまた別の國があるように、世界の外にもまた別の世界があり、それらは普段であれば互いに干渉することもないが、何らかの力で境界が破れ、質が行き來できてしまうことがある。

自然発生した場合のそれは一種の落としのようなもので、不意にそこへ落ちた者が、この世界に迷い込んでしまうのだ。その逆の事例も存在するのかは、アニエスの知る限りではない。

異界の門の出現地點は厳に定まってはいないのだが、スヴァニルでは特定の地域に目撃報が固まっている。その一つに、エインタート領が含まれていたのだった。

(魔に、魔王に、異界の門・・・盛りだくさんだ)

小さくなってゆくオペルギットを名殘惜しく見つめ、ローブのポケットを探れば父の手鏡がある。取り出しはせずに、それの縁を軽く握った。

(そんなところで、母様はどんな暮らしをしていたんだろう)

まだそこにいたとも決まっていないが、想像だけは先んじてオペルギットと共に飛んでいった。

◆◇

汽車が終點に到著したのは、日沒を過ぎた頃である。

の悲鳴に似たブレーキ音で目覚め、アニエスは無意識に口元を拭った。

(完全に寢てた)

慌てて鞄を摑み、特別車両の個室から出る。しかし急ぐ必要はなかったと、気づいたのは乗車口で車掌が荷持ちに飛んできた時だ。乗る時にも手を貸してくれた初老の彼は、愚鈍さを無言で咎められたとでも思ったのか、しきりに恐しており、アニエスは悪いことをした気分になった。

「あとは結構です。お世話になりました」

なるべく丁重に禮を述べ、馬車の乗り合い所まで付き添ってくれようとする人々とは別れた。

駅を出ると、ホームからも見えた街の燈が寢起きの目に刺さる。の紋章による人工燈だ。十年程前に、はじめて人の手を離れてを保たせる方法が開発され、このローレン領という王國の片田舎にも今や當たり前に普及している。

太古よりの星々の輝きは敗れ、彼らは今夜も慎ましく夜空にあった。

(さて、どうしようか)

暗がりをぼんやり見上げ、まだ覚めきらない頭を回してゆく。

この旅の滯在先は、シンディの勧め通りローレン領主、ラルス・ローレン公爵に世話になる予定ではいる。しかし、時間がもう遅い。途中で軽い列車トラブルがあり、々到著が遅れてしまったのだ。

(明日訪ねるほうがいいかな。今夜はこの辺に宿を取ろう。ローレン公には手紙を出して――)

そうなると、誰かに良い宿を紹介してもらわねばならない。今のところ、アニエスが信用できるのは先程の車掌か駅長である。

去る前に先々を考えていれば良かったことを反省しつつ、足を駅のほうへ戻すと、ホームの近くに馬車が一臺停まっていた。

最初からそこにあったのかもしれないが、街の明かりに目を奪われて気に留めていなかった。そこは馬車の乗り合い所ではないため、一般の旅客運送用の車ではないのだろう。

よく見れば、乗降口の橫にはなりの良い男が立っている。帽子を取り、まるで誰かを待っている様子だ。

アニエスはなんとなくじるものがあり、おそるおそる馬車に近づいてみる。間もなく、男と目が合った。

どことなく言いたげなアニエスの眼差しを、男は素早く察知した。

「――アニエス殿下であらせられますか?」

「はい、そうです」

その上品な話し方と佇まいから、アニエスのほうも彼の正を推察できたため、素直に頷く。

すると相手は大げさなまでに、その顔に笑みを広げた。

「はじめまして。私はこの地を治めるラルス・ローレンと申します。お迎えが遅れまして、大変失禮を致しました」

「・・・いえ、こちらこそ。公爵自らにお出ましいただけるとは、恐です」

は平靜を保っているが、心の底からアニエスは驚愕していた。列車が遅れ、しかもその辺をぶらつきどれだけ公爵を待たせていたかと思うと肝がこまる。

一方で男のほうはてきぱきき、アニエスの鞄を取った。

「さあ、お荷は中へどうぞ。さぞやお疲れのことでしょう。溫かい食事も湯もご用意してございます。まずは我が屋敷にて、お疲れを癒してください」

いつの間にやら、さりげなく背中に手を添えられている。このようなエスコートは初めてではなかったが、久しぶりではあったため、アニエスは妙に張した。公爵が思っていたよりも若々しい見た目だったせいもある。

シンディに聞くところによれば、公爵は三十一歳の獨貴族である。赤銅の髪が長く、うなじで一つにまとめており、男的な四角い顎が凜々しい。夜の暗がりに多隠されるものがあるとはいえ、見目の良さは萬人が認めるレベルだ。高長で、姿勢も悪くなく、聲も心地良い低音だ。

男の三十代ならまだまだ世間的には遊んで良いとされる年である。これだけ容姿に恵まれていれば、なおさら急いでを固める気にもならないのだろう。

「殿下。お疲れのところ大変申し訳ございませんが、々お待ちいただけますか?」

アニエスを馬車に乗せた後、その対面、進行方向を背にする席に公爵も腰掛け、許可を仰いできた。

「実は供の者に、貴様の行方を駅長へ確認しに行かせたもので。もう間もなく戻って參ると思います」

「もちろん、構いません。あの、こちらこそ、それとわかる格好をしておらず、無自覚に出歩きまして申し訳ございませんでした」

おそらく公爵は列車が著く前からこの場にいて待っていたのだろうが、アニエスのことは単なる庶民の旅行者にしか見えなかったのだろう。

はじめから公爵家には馬車を調達して向かうつもりしかなかったが、もっと己の分を鑑みれば、迎えを寄越されていて當然である。

(寢ぼけ過ぎた)

猛省するアニエスに対し、公爵は暗闇の中で穏やかに微笑んでいた。

「いえいえ。私の治める街にご興味を持っていただけたのであれば栄です。その旅のお召しも、大変可らしいと思いますよ。お召しになっている方が、らしいためでしょうね」

「・・・」

アニエスはつい沈黙してしまった。

世辭なのか、皮なのか、いずれにせよ唐突で返す言葉が見つからず、「・・・いえ」とだけ遅れて発した。

(・・・この人は苦手かもしれない。いや)

早々に抱いてしまった失禮な考えを慌てて打ち消す。

これからしばらく世話になるのに邪魔な心は、なるべくないほうがいい。

「十日でも一か月でも一年でも、どうかゆるりとご滯在くださいね。おしい方」

ところが、そんなアニエスの努力を知ってか知らずか、この後も歯の浮くような公爵の世辭はしばらく続き、

(・・・これ十日はきついな)

目的地まであと一歩に迫りながら、アニエスはしだけ帰りたくなった。

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