《アナグマ姫の辺境領修復記》15.魔王vs.放

翌朝。

アニエスが著替えて隣の部屋を覗くと、ファルコの姿はすでになかった。

扉の外からパンを焼く香ばしい匂いがしてくる。直した石窯でルーが焼いているのだろう。今時、家で一からパンを作るなど田舎ならではの贅沢で、その點だけアニエスはこの場所を悪くないと思っている。

王城にいた頃はともかく、老いも若きも忙しさに追われている城下の暮らしでは、パンをこねている暇が誰にあるわけもなく、大方が専門店で買って済ませてしまうのだ。アニエスがよく利用していた舎の食堂も業者委託だった。

まとめて大量に焼かれ、時間の経ったパンに不満があったわけではないが、やはり焼きたてには惹かれるものがある。

匂いを辿るように階段を下り、ダイニングへ向かう――途上で、その匂いの元を、突然正面から口に突っ込まれた。

「行くふぉ」

も丸いパンを囓りながら、ダイニングから出てきたファルコは、アニエスを肩に擔ぎ上げる。

焼きたてのパンからは熱気が溢れる。まず両手の爪でそれを持ち、次にアニエスは狀況把握に努めたが、そうこうするうちにファルコは玄関を出て空に浮く。

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朝から強い日差しに、アニエスは目を細めた。

「魔王の居場所はわかるよな?」

今更のように確認してくる。

魔王は木々をなぎ倒した場所にいた。上から見て、緑にぽっかりが開いているところを探せば、そこにいるだろう。だが問題はそこではない。

「わ、私たちだけで行くのですか?」

「他に人が必要か?」

「さすがに、二人では危険なのでは」

「何人いたって敵わないなら同じだろ」

その通りではあるが、黙って出てきてしまえば皆を混させてしまう。ファルコが何をするつもりなのかも、アニエスはまだ知らないのだ。

「兄様、放してください」

遠慮がちにファルコの背を叩く。擔がれた狀態では會話しにくい上、胃の辺りが肩の骨に圧迫されてつらかった。

「落ちるぞ」

「自分で飛べます」

ファルコは意外そうな顔をし、一旦宙に止まって、妹を支えていた左手を緩める。それに先んじてアニエスは紋章を発し、兄の隣に浮いた。

適切な距離を取れたことにまず安堵する。そしてファルコに向き直ると、なぜか相手は笑みを浮かべていた。

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々できるようになってるんだな」

実に嬉しそうに言う。

ファルコにその考えを問い質そうとしたアニエスだったが、思わぬ反応に驚いてしまい、機を逃してしまった。

「それ食べないのか?」

話を切り出す前に、手に持ったままのパンを指摘される。風に當たり、徐々に冷めてきていた。

「あ、いえ、食べます、が」

「早く食え? 行くぞ」

「あ」

という間に、ファルコは宙を駆けて行く。心なし先程よりも軽やかだ。

他にどうしようもなく、アニエスはパンを食みながら兄を追うしかなかった。

小麥の香りはほんのり甘く、溫かく、が渇く。

(食べてから行くのでは、だめだったんだろうか)

きっとだめではなかったはずと思いつつ、しかし相手がファルコである以上、考えても仕方がないのだった。

◆◇

昨日と同じく森の空気はって、靜かだった。

ぽっかりあいた空間に、魔人が足を組んで寢ている。こちらも、まるで昨日と同じ姿勢だ。異なるのは、腹を半分吹き飛ばされた魔の巨が傍にないこと。

(生きていて移したのか・・・あるいは、彼が消し去ってしまったのか)

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後者であれば恐ろしさが際立つ。離れた倒木に隠れて様子を窺いながら、やはり二人だけで來るべきではなかったと、すでにアニエスは後悔している。

「意外にちっさいな」

ファルコは普通に立って、遠目に魔人を眺めていた。

「どうなさるおつもりなのですか?」

小聲で尋ねる。

ファルコは視線をかさず、

「アニエス、防は張れるか?」

と、逆に訊いてきた。思い通りに會話を進めることは諦めたほうがいいらしい。

「風の障壁なら、できますが」

「それ張ってろ」

「は」

訝しげに見上げると、頭に手を乗せられた。

「もし俺が死んだら逃げろよ」

「なにをっ――」

問い質す暇も、止める間もなかった。

軽く地を蹴ったファルコのがふわりと浮く。そして右手に炎を纏わせ、上空から、魔王へ拳を振り落とした。

アニエスが見たのはインパクトの直前まで。

次の瞬間には、炎と風が視界を塞いだ。

「っ――」

遅れて周囲に風の壁を作り、発の衝撃を和らげる。倒木から剝がれた木片が視界を舞った。

(なんで!?)

アニエスは意味がわからない。

なぜ攻撃を仕掛けたのか。魔人を倒すつもりなのか。自分で敵わないと言ったのに。そもそも、なんのために倒すのか。

やがて炎が吹き去ると、拳を地面に打ち付けたファルコと、それを立って見下ろす魔人の姿が現れた。

「よ」

ファルコはそのままの勢で、魔人に片手を挙げる。

そのふざけきった態度に、相手は文字通り、口が裂けるほど笑んだ。

「はっ――」

言葉のかわりに、彼は拳で応じた。

ファルコは飛び上がって逃れる。しかしそれを予期していたのか、魔人は珪石のような拳の軌道を途中で変え、下から振り抜いた。

直撃した――かどうかは、アニエスの目ではわからない。

だがなくともファルコは吹っ飛んだ。巨大トカゲの腹を打ち抜いた時のように、衝撃が拳の先から放たれたのだ。

大の男が紙のように軽く、大木の幹に叩き付けられる。せめてもの幸いは、その片とならなかったことだ。

ファルコは宙に留まり、とどめを刺しに來た者へ風を放つ。魔人の飛がそれをけ、勢をわずかに崩した。

続けて、己の周囲に大量の水塊を生み出し、多方向から一直線に魔人を狙う。高速で放たれれば、水でも十分に兇となり得る。

魔人は同時に來た一撃目と二撃目をかわし、ぱかりと口を開けた。

「――っ」

言葉にできない、獣の咆哮が響き渡る。耳を押さえても間に合わない。音圧に押され、離れた場所で防を張っているアニエスでも思わず転んだ。

水塊は吹き飛ばされて霧となる。ファルコは咄嗟に自らを分厚く水で包み、なんとか堪えていた。

だが間髪れず、魔人の拳が水壁を突き破る。

ファルコのが再び、空を回った。

「これはどうだ!?」

逆さまになりながら、男はなぜか楽しそうに、炎を放つ。豪快に燃え盛る渦が敵の注意を奪い、その下でこっそりと、出現した水塊が魔人の両足を絡め取る。

三つの屬の同時発。上級士の中でも、ここまで用にを扱える者は類を見ない。

ファルコは間違いなく最高の士である。

しかしそれでも、その力は魔人の一吼えの前に霧散した。

(なんなの・・・?)

倒木のこまり、アニエスは頭を抱えている。魔人の力に圧倒されているわけではなく、兄の行の謎さ加減にまだ目眩がしていた。

(やっぱり、相談するんじゃなかった)

加勢も制止もアニエスの力量では葉わない。巻き添えを食わないようにしているだけで一杯だ。

不安と心配と、恐怖と後悔で震えながら、ひたすら決著がつくのを待つしかなかった。

やがて――

「待った、參った!」

地に叩き伏せられ、ファルコがたまらず悲鳴を上げた。

「降參降參! 俺の負け! 終わり!」

マウントポジションにいる相手の目前に両手を突き出し、一方的に勝負の終了を宣告する。

だが拳は止まらずに、振り下ろされた。

「――我が眠りを妨げておきながら、隨分と勝手だなあ?」

(もっともだ)

つい、アニエスは心ので同意してしまった。

そんな暢気なことができたのも、魔人の拳がファルコを外れて橫の地面を抉ったためである。

魔人は満創痍の人間の倉を、片手で摑み上げた。並ぶとほとんど長の変わらない二人だが、高く持ち上げられてファルコの踵は浮いた。

「お前らはどこを壊すと死ぬのだったか」

片手はいつでも息のを止められる位置にある。

だが、そんな狀況をまったく知らないかのように、

「なあ、あんたはどこで人間の言葉を覚えたんだ?」

ファルコは無邪気に疑問を投げかけた。

それも策か、あるいは、兄には恐怖やプレッシャーをじる機能がもともと付いていないのかもしれないとアニエスは思った。

「もしかして魔界でも俺たちと同じ言葉が使われてるのか?」

「・・・霊だ」

さしもの魔人も虛を突かれたのか、素直に応答していた。

「この地の霊が語る言葉を覚えた」

霊と喋れるのか?」

「お前らは、見えもしないのだったか? その力を宿すくせに、おかしな奴らだ」

「そういうこともわかるのか。あんたは――そういえば、名前はなんていうんだ? 魔界での呼び名だ。あれば俺を殺す前に教えてくれ」

「ふ」

すると鼻を鳴らし、魔人は軽く嘲笑うかのようである。

「ギギ――」

何か低い、き聲のようなものが魔人の口かられた。ファルコやアニエスにはその最初の音しかはっきり聞き取れない。

「ギギ、なんだって?」

「どうせお前らに我が名を口にすることはできん。好きに呼べ」

「ならギギでいいか」

「《様》を付けろ」

今度はファルコがく。魔人ギギは容赦なく無禮者を締め上げているようだ。

(兄様っ・・・!)

アニエスは出て行こうかを迷った。何ができるわけでもない。兄の真意もよくわからず、ただ、本當に殺されてしまうのではという恐怖がそこにあるだけだ。

だがアニエスが捨ての決斷をする前に、食いしばった歯の隙間からファルコは言葉を紡ぐ。

「な、あ、ここ、は、退屈じゃ、ない、か?」

「あ?」

ギギが怪訝そうにする。それでしばかり拘束が緩み、ファルコは荒い息を吐き出した。

「あん、たは、退屈してる。そうだろう。だから襲ってくる者を嬲って遊んでる。なんでここで寢てなきゃならないのかは知らないが、そろそろ、飽きてるんじゃないか?」

「・・・」

まるで見かしているかのような言い様に、相手は無言である。い鱗に覆われている顔は、何を思っているのか読めない。

「もし退屈しているんだったら、俺たちともっと遊ばないか?」

するとギギは、かっと目を見開いた。それはどこか、嬉しげな表でもあった。

「死にたいのか?」

「いや? 言っておくが、人間のうちであんたに勝てる奴はいないぞ。勝負を楽しみたいなら、もっと俺たちに有利な條件を付けさせろ」

滅茶苦茶ないかけである。

だが、無敵の力を誇る魔人は余裕の態度だった。

「何をする気だ?」

「それより先に、勝負に賭けるものを決めよう。アニエス」

ここでやっと、背後へ呼びかける。

當のアニエスは驚き過ぎて固まり、ややあってから、そろりと倒木のを出た。

「お前は・・・」

ギギは目を細めている。人間の區別がいまいち付けられない異形の者は、娘が昨日會った者なのかを判斷しかねていた。

そのためひとまず、アニエスは自己紹介からやり直す。

「アニエス、スヴァニルです。連日押しかけてしまい、申し訳ございません」

「このアニエスは俺たちの王だ。こいつと勝負して、負けたらあんたは魔の王になって、アニエスと同盟を結んでくれ」

(え?)

寢耳に水の話だった。眼鏡の奧でこれ以上ないほどに目を見開き、アニエスはファルコを凝視する。

(勝負? 私が、彼と?)

兄は迷ったのだと思った。

一方のギギは、ない眉をひそめるような仕草をしていた。

「お前らはすでに、我を王と呼ぶであろうが」

「だが実際のあんたは王ではない」

躊躇なく言い放つ。ギギはいささか気分を害したように表を歪めた。

「王とは統べる者だ。魔を野放しにしてるあんたは真の王ではない。――俺たちは、あんたに本の魔王になってほしい。そしてこの森をあんたの國として、魔たちをこの中で統治してほしい」

「それは隨分、お前らに都合の良い要求ではないか?」

魔人は極めて正しく、男の意図を汲み取っていた。

「我に森の外の魔を一掃しろと言いたいのであろう? 何が魔王だ。なぜ我がお前らごときのために働かねばならない」

「だから勝負だと言ったろ」

口の端からと唾を流しつつ、ファルコは不敵な笑みを浮かべた。

「負けたら従う。理由はそれだけだ」

ごくシンプルで、ひどく強引な、まさしくこの男らしい論理だった。

分別のある者ならば決してれない。だがこの場でそれを持っているのは、幸か不幸かアニエスただ一人だけだった。

ギギは、男を吊り上げている手を放した。

「お前が負ければ何をする?」

アニエスに問う。

ぎらつく異形の眼差しに竦められ、娘は息を呑んだ。

「それはそっちが好きに決めろよ。な?」

妹の肩を叩き、ファルコがあっけらかんと言ってのける。

(な、じゃなくて!)

それは人外の化けに、無防備に心臓を明け渡す約束だ。しかもその心臓はファルコではなくアニエスのものである。無責任にも程があった。

魔人の高揚しきった笑顔が、ひたすらに怖い。

「・・・どのような勝負を、なさるおつもりですか?」

まずは、それをはっきりさせねばならない。

自分ではまったく思いつかないが、きっとアニエスでも勝てる可能のあるものを、兄は考えてくれているに違いない。むしろ、そうでなくては困る。ほとんど祈るような気持ちで隣を見つめた。

ファルコはそんな妹へ、やはり無邪気に、提案した。

「《鬼ごっこ》って、知ってるか?」

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