いつもより冬が長引いて、ようやく桜が咲いたと思ったら、カレンダーはもう四月に変わっていた。

始発で北上する新幹線はまだ人がまばらで、真新しい制服姿の有村芙(ありむらふみ)は西側の窓際を陣取って、トンネルを抜けるごとに変わる風景にを弾ませていた。

高校の學式。

寮への所と最終手続き云々も合わせ、大忙しの一日だ。

「楽しそうね」

広げた新聞の記事に大きく欠(あくび)をしていた都子(みやこ)が、隣から芙を覗き込んで微笑(ほほえ)んだ。

著こなされたツイードのスーツ姿が、反対側のシートに座るサラリーマンの目を引いている。まだ二十代前半に見え……なくもない。姉と言われれば誰もが納得しそうな容姿だが、彼はれっきとした芙の母親だ。

「そんなに嫌なら読まなきゃいいのに」

「日課だって言ってるでしょ」

毎度のセリフだ。彼は十六年間、毎日新聞に目を通している。意的でありながらも、好きでもない政治云々の記事を真剣に目で追っている姿には、良く頑張るなと心してしまう。

都子のそんな頑固なところは、確実に自分の魂に影響を與えていると芙はこっそり笑った。

再び車窓へ視線を返すと、田舎の風景から再びビルの姿が見え始める。

あと、もうし。駅を過ぎる毎に心の中でカウントダウンする。

芙の心境を察してか、都子がぱたりと畳んだ新聞を前のシートの網ポケットに突っ込み、

「してる顔だな、それは」

と、にやりと笑った。いつもの作られた『若奧様』ではなく、地の『有村都子』の顔だ。

「はあっ？」と仰天(ぎょうてん)して芙は彼を振り返り、口をぽっかりと開いたまま赤面する。

「ち、違うよ」と頭に浮かぶ『彼』の顔を必死に振り払い、芙は都子から逸(そ)らした顔を窓に寄せ、揺を鎮(しず)めるように大きく息を吐き出した。

それから三十分程で著いた駅から、在來線で一駅戻る。

１臺だけ停まっていたタクシーに乗り込むと、數分で校舎が見えた。

一度験で訪れてはいるが、何度來ても懐かしいと思ってしまう。周囲に民家は殆(ほとんど)ど無く、田んぼと畑と林に囲まれた白い校舎。

「ただいま」と。そう呟いて、芙は脳裏を駆け巡る記憶にしだけ目を閉じた。

☆

一日があっという間に過ぎていく。

學式に所の手続き。ようやく全ての日程を終えた時には既に都子を送る時間になっていた。

校舎から丘を下る階段の下でタクシーを待つ。

他に人気もなく、薄暗くなってきた風景に、ぽつりと１つだけある自販売機のが煌々(こうこう)とっている。

校舎と道路の間に刺さった低い鉄の柵に腰を預け、都子が階段を見上げた。南に面した校舎の窓は職員室以外既に明かりが消えていて、建が黒い影のように見える。

「綺麗な學校だったね。パンフレットと一緒」

この學校に來たいと言って、何か月も前に渡した資料だ。當時はそれを食いるように見つめては、「本當にここでいいの？」と繰り返し尋ねてきた。

彼にとってそれは『反対』ではなく『確認』の作業だったのだが、顔をあわせる度に言われたのには流石の芙もうんざりした。けれど、母親というのはそういう生きなんだなと改めて実する。

全國的に有名な學校でもないし、スポーツで推薦されたわけでもない。それなのに、名古屋から數百キロも放れた學校で寮暮らしをしたいなんて突然中學生の娘が弾発言したのだ。

むしろ都子の反応は世間一般からすると「甘い」と言われてしまうかもしれない。まぁ、母親以外からは大反対をけたのだが。

ずっとこの日を待ちんでいた。この學校をけても良いと、ようやく父親が折れてから數か月。

ここでの生活を思い描いてわくわくしていたのに、いざ獨りになると思うと寂しさをじてしまうことに自分でも驚いた。

「勝手に家を出ることを決めて、ごめんなさい」

「どうしたの、いきなり。ホームシックかな」

都子は柵からを離し、芙の前に立つ。ヒール分を除いても、彼は背の高いだ。

「ずっとお父さんの仕事で振り回してきたんだもの。貴が本當にそうしたいって思うなら、頑張ってみれば良いわ。でも、それがここだって聞いた時は、し驚いたの。今更だけど、東京でも良かったのよ？　お爺様の家から通ってもいいし。貴の績なら、有名大學の付屬とか、お嬢様がるトコとか選び放題じゃない」

「ごめんなさい、お母さん……」

「謝らないの。あのね芙、お母さんは貴を早く産んだから、お父さん以外の男の人を知らないのよ。だから、貴にはもっといっぱいをしてしいの」

大會社の社長の次男であることで、何の不自由もない生活に嫌気がさして家を飛び出た年と、彼に憧れたの語だ。母が十六歳で芙を授かり、父は親であり有村グループ會長である芙の祖父に土下座したと言うのは、親戚の中でも有名な話だ。

「お父さんとお母さんのよ」と前置きしつつ、都子が何度も見せてくれた家の本棚にひっそりとしまわれている赤いアルバムには、まだやんちゃだった時代の父・和弘(かずひろ)と都子の寫真がいっぱいられていた。

太のような金の髪。マニュアル通りの『不良』像に、最初見た時は思わず笑ってしまった。けれどそんな二人はどの寫真も楽しそうに笑っていて、見る度に芙は嫉妬する。

大學も中退し、単車を乗りまわしていたと言う和弘。

芙の知る『父・和弘』は、スーツを著て、真面目でいつも仕事が忙しくて。けれど疲れて遅くに帰ってきても、家族には「ただいま」と笑い掛けるやさしい人だ。

二人とも家族のために頑張ったのだ。

全力で仕事をした和弘。ごく普通のサラリーマンの家で育った都子も、父の橫で相応(ふさわ)しいと認められるように、慣れない新聞を読んだり彼なりに努力を欠かさなかった。

たまに垣間見せる過去も、微笑ましく思えてしまう。

「ねぇお母さん、私ができたってわかった時、嬉しかった？　お父さんは喜んでた？」

ふとそんなことを聞いてみたくなった。思い立った時に実行しないと、次が來ないかもしれない事を芙は知っている。

「突然、恥ずかしいこと聞くのね」

都子は「えっ」と揺のを見せるが、「そりゃあね」と笑って、

「お父さんは大喜びだったよ。その時は二人で激貧の生活してたから、全然生活力なかったけど、そんなのはどうにでもなるって。トオルの時もそうだったけど、芙の時は尋常じゃないくらい舞い上がってた」

トオルは芙の三つ下の弟で、先週名古屋の私立中學に學したばかりだ。芙もおとといまで名古屋にいて、昨日は東京の祖父の家に泊まり、今朝新幹線で東北にった。

「もちろん、私も嬉しかったんだからね」

と、都子は懐かしむように目を細める。

二十年近くも一緒にいるのに、今だに仲の良い二人が、芙は羨ましくてたまらなかった。

この二人の子供になれて良かったと思う。

「和弘さんは芙が大好きなんだから。ここに來ること説得するの、大変だったのよ」

距離もあったが、高校が共學であることに和弘は激怒した。それを何度も頼み込み、最終的には都子が気と勢いでたしなめて勝ち取った學だ。

「ありがとうね、お母さん」

「心配だけど、芙の事信じる。私の娘なら、弱いわけがないじゃない。それに――」

都子は僅かに躊躇(ためら)って、けれど、にやりとの端を上げる。

「貴は、魔法なんでしょ？」

突然の発言に、芙は面食らった顔で赤面する。

都子は悪戯っぽく笑って、真っ直ぐに立てた人差し指を自分のにあてた。