《傭兵と壊れた世界》第百二十七話:ミラノ水鏡世界
湖に飛び込んだナターシャが味わったのはどこまでも沈んでいくような覚だった。最近は水に潛ってばかりだ。他人事のように考えていると、彼の周りをたくさんの知らない人が追い越していく。彼らはおそらく海上で見かけた白い人影だろう。彼らに導かれるまま、深い水の底、闇に溶けるようなの中へ吸い込まれた。
「キャッ……!」
ナターシャは落ちた。だが痛くない。なぜならマクミリア祭司が下敷きになっているから。
「連れてきて正解ね」
「早くどいてください」
ナターシャが落ちたのは円形の神殿だ。今となっては珍しい古風なランプが點々と燈っており、四方を囲まれた空間は若干の息苦しさをじる。無數の支柱で支えられており、頭上を見上げると大きな鏡が天井にはめ込まれていた。あの鏡が湖と繋がるり口である。
「素直に離れたほうがいいぞ。順番的に次はベルノアだ」
言われたとおりに中央から離れた。ベルノアの下敷きになるのは免だ。
ナターシャは自分の服をぱたぱたとってみる。湖に飛び込んだはずだが濡れていない。天井を見上げると鏡の中を魚が泳いでいる。なるほど、ここは足地で間違いないらしい。
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やがて騒々しいび聲とともにベルノアが落ちてきた。
「痛ってー! おいイヴァン! 落ちるってわかってるならけ止める準備ぐらいしておけ!」
「來るなり人のせいにするな。けの訓練を怠ったお前の責任だ」
「カーッ、相変わらず頭の固い隊長様だことで。いいか? 俺様の時間は超超超貴重なんだよ。結晶の研究は世のため人のためになる素晴らしいものなんだ。壊れちまった世界だからこそ俺様のような研究者が必要とされている。つまり訓練に時間を使うのはもったいないってわけ。わかる? そもそも――」
口數の減らない研究者。ナターシャは「俺様の」あたりから聞いていない。
いつもどおりの第二〇小隊だ。ベルノアが騒ぎ、イヴァンがむりやり巻き込まれる。何度も見た景がミラノでも繰り返されていることにナターシャは安心した。
「全員そろったなら外へ出るぞ」
イヴァンが扉を押した。錆び付いた鉄扉がキィキィと甲高い音を出しながら開く。
最初に目にったのは星空だ。黒い部分を探すほうが困難なほど星に埋め盡くされていた。唯一異なる點があるとすれば月が浮かんでいないことぐらいか。ときおり小さな星々が流れ星となって夜空に軌跡を殘した。
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次に街だ。てっきり化けがはびこる境かと思われていたが、ナターシャ達の予想とは裏腹にのどかな営みが形されていた。石造りの住居が起伏の激しい地形に沿って建てられており、初めて訪れるはずなのにどこか懐かしさをじさせる。ああ、おそらく建の造りが月明かりの森の廃墟に似ているのだろう。ナターシャはひとりで納得した。
そして城。ナターシャ達が立っている丘よりもさらに高い場所に建てられたソレが、ミラノの星空や懐古的な街並みに負けず劣らずの存在を放つ。城壁は白磁。兵の類いは見當たらず、城門が開けっぱなしにされている。
街は神殿から見下ろすような格好になり、満天の星を背景にした足地は現世と神の狹間のようなしさがあった。
「やっと、か……」
イヴァンの言葉に萬の想いが込められる。彼はずっと探していた。心を殺して敵を撃ち、仲間を危険にさらしてでも足地に挑み、ようやく見つけた星空だ。まだ終わりではないものの、久方ぶりの達が彼の表を和らげる。
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「なんとまあ……お許しください土地神様。私は、マクミリアは今、しております」
事を知らない祭司もわなわなとを震わせている。ここはいわば土地神が守っていた場所、つまり彼にとって聖域や神域に等しい。本來ならば足を踏みれるだけで罪深いのだが、同時に「集落の誰もが知らない神域を見た」という優越が彼の心を満たした。
誰もが安堵や嘆の息を吐く。それだけの苦労をしたのだから當然だ。
「まずは報収集を始めよう。街があるなら墓場もあるはずだ」
傭兵たちは踏み出した。深き海の底、王が殘した水鏡世界へ。
○
全員でくと目立つため二手に分かれた。ナターシャとソロモン、そしてリンベルは街の報を集めるために市場らしき場所を歩く。
星明かりが照らしてくれるため街はそれほど暗くない。すれ違う人々も普通の外見をしており、なくとも結晶や珊瑚が生えた者は一人もいなかった。
店先で鍋を茹でる料理人。道端に座って談笑するたち。ありふれた街の風景である。
だが足地に普通の街が存在するだろうか。ナターシャは警戒心を強めながら周囲を観察した。
もちろん普通ではない景もある。例えばこれ。
「蟹だ……」
そこかしこで蟹が歩いていた。大きさは両手のひらを広げたぐらいだろうか。灰のごつごつとした殻は一見すると石のようであり、つぶらな瞳でハサミを広げる姿は無にらしくじられる。ナターシャは近くの男に話しかけた。
「ねえ、どうして蟹がたくさんいるの?」
「そりゃあ海の底だからな。彼らも街の住人だ。仲良くしてやれよ」
ふと一匹の蟹が両手をあげてナターシャを見ている。その威嚇するような姿はやはり可らしい。だがナターシャがふりふりと手を振った瞬間――。
「あ」
料理屋の店主が石蟹を捕まえた。そのまま両手で持ち上げたかと思うと、たくさんの石蟹が茹でられた大釜の中へ放り込んでしまった。
仲間が捕まって驚いたのだろう。道を塞いでいた石蟹がカタカタと橫歩きで端に寄り、それから威嚇をするようにハサミをかかげた。ああ、そんなことをするとまた捕まってしまう。一匹、二匹と大釜に消えていく石蟹をナターシャは見送った。
「弱強食は世の常ってな。もしかして食べたいのか? 良い匂いだが私は遠慮するぜ」
「ううん、ちょっと呆気に取られただけ」
「食べるといえば、大目玉がナターシャの何を食らったのかは結局わかりませんでしたね」
「案外なにも食べていないのかもしれないよ」
「でも傷は殘っているのでしょう? 不思議な話です」
今は手袋で隠しているが、ナターシャの左手にはが空いている。痛みもなければ出もしておらず、気味が悪いことを除けばまったくの無害だ。
「そんなことより報収集よ。住民から話を聞いてくるからソロモン達も手分けしてお願いね」
ナターシャは別の住民に駆け寄った。彼の後ろ姿を見送るソロモン。害がない、というのが逆に心配なのだ。見落としていることがなければ良いが。
「なあ、ソロモン。私はなんとなくだが、ナターシャが食われたものがわかるんだ」
ナターシャに聞こえない程度の聲量でリンベルが告げた。
「何ですか?」
「教えてやらねえ」
「……構ってほしいのですか?」
ソロモンは冗談を言っているのかと思ってリンベルを見た。だが彼の表はいたって真面目であり、さらにいえば側のがどろどろと流れ出しているかのような雰囲気だった。リンベルの瞳に様々なが浮かんでは消える。後悔、嫉妬、そして――歓喜。
ソロモンの背筋にぞわりと冷たいものが走った。ナターシャの左手にが空いたというのに、リンベルは喜んでいたのだ。それは決して悪意の類いではなく、むしろ度を超えた親のようなものだろう。いつもならば隠しているはずの本心がむき出しになる。なぜならここは足地。冷たい風がのベールを剝がしてしまうのだ。
だがそれも剎那の豹変。瞬きをすれば元の表に戻っている。
「……まあ、いいでしょう。ナターシャが損になるようなことをあなたがにするはずがありませんから。その代わりに別の質問をします」
「なんだ?」
「私も元軍醫ですから、あなたの調は把握しているつもりです。近頃、よく咳をするようになりましたね?」
ちらりとナターシャを見る。彼はまだ住民から報収集をしており、二人の會話は屆いていない。
「それは良くない咳です。非常に、良くない」
ちっ、と舌打ちが聞こえた。
何人もの患者を診たソロモンだからこそ、リンベルの異変に気付くことができたのだろう。リンベルは上手く隠しているつもりだった。だが顔や食事といった日々の生活の斷片からでもソロモンは診斷できる。
リンベルはどう言い逃れしようかと考えたが、やがて諦めた。ナターシャが離れたタイミングで問いかけたということは、ある程度の事を察しているという意思表示だろう。
「軍醫ってのはすごいもんだな。傭兵をやめて復帰したらどうだ。そっちの道でも十分稼げるぜ」
「話を逸らさないでください。いつからですか?」
「いつからっていえば……そうだな、多分ずっと前だ」
リンベルは友人に聞こえないように聲量を落とす。
「ヌークポウの呪いは知っているだろ?」
「ええ、ナターシャから聞きました。移都市の住人は早死にしやすいと。ですが、あなたはヌークポウに生まれたわけではないでしょう?」
「生まれじゃなくて、過ごした時間だろうよ。今更になって発癥するのは運が悪かったとしかいえないが……まあ、よくあることだ」
住民と親しげに話すナターシャの後ろ姿を見つめながら彼は続けた。
「よくある、ことなんだ。暮らしていれば循環水にれることも多い。私の家は力源に近かった。ましてや免疫の低い子供の。條件は揃っていた」
アリアの死を伝えられた日、リンベルは真っ先に自分にも呪いがかかっているのではと疑った。前れはあったのだ。妙に息切れをするようになり、を焼くような咳に何度も襲われ、ナターシャの料理が以前と違う味のようにじたのも、今にして思えば呪いの影響だったのだろう。
ナターシャに打ち明けようと思ったが、アリアの死やドットルの裏切りに憔悴した姿を見ると、リンベルはつい心のに隠してしまった。
「ナターシャにはまだ言うなよ。もとより、この旅が終わったら伝えるつもりだったんだ。それまではあんたの固い鋼鉄に仕舞っておいてくれ」
「構いませんが、きちんと私に診せてくださいね」
「お手らかに頼むよ。痛いのは嫌いなんだ」
「約束はできません」
冗談のように肩をすくめるが、ソロモンは本気で心配をしている。気丈に振る舞っているものの、リンベルのは見た目以上に蝕(むしば)まれているのでは、とソロモンの勘が訴えるのだ。隊の命を預かる者としてもっと早く気がつくべきだった。仮面の下で苦々しく表を歪める。
だが過ぎたことはどうしようもない。今は第二〇小隊の一員として役目を果たすのが優先だ。
「とりあえず我々も報収集をしましょう。さぼっているとナターシャに怒られます」
そう言ってソロモンは背を向けた。故に、彼は知らない。
リンベルが自分のを両腕で抱きしめるようにして、その側から湧き上がる潛在的な恐怖に震えている。彼はずっと誰にも言えない後悔をかかえていた。
「怖いもんだなソロモン。命の奪い合いなんてまっぴら免なのに、いつの間にか片棒を擔いでいるんだから」
ぐるぐると因果が回る。星が回る。彼の周囲に神が渦巻く。
「なんで自分だけが違うと思った? 地下暮らしの自分がなぜ例外だと? もっと考えるべきだった。もっと、調べるべきだった。船を捨てろと高説を垂れる前にやることがあったはずだ。そしたらアリアも、ディエゴも――」
の心に足地の風が染み込んでいく。贖罪の方法はわからない。帰るべき故郷もない。唯一の師も失った。本當にしいものも手にらない。
星空の下に立つは一人の浮浪者(ジャンカー)。の心はいつの間にかすり減っていた。じわじわと迫る死期と自分勝手な行への悔い、そして際限のないが側からあふれ出し、もはや本人にもどうすれば良いかわからない。
(なぐさ)めるように石蟹がリンベルの足元に集まる。海底の住民に囲まれながら顔の悪いが立っていた。ぶかぶかの作業服では彼を守れない。灰の前髪の奧。瞳に浮かぶは暗い。
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