《傭兵と壊れた世界》第百二十八話:見覚えのある井戸水

ナターシャ達とは反対側へ向かったイヴァンだが、何度目かになる同じ曲がり角に首を傾げた。

「ベルノア、どう思う?」

「迷ったな」

大通りを歩いていたはずが、いつの間にか怪しげなランプが燈る橫道に逸れており、引き返そうとするとなぜか同じ場所へ戻ってしまう。複雑な街の構造がイヴァンの覚を狂わせるのだ。星々の放つ銀が石畳をふんわりと照らす。目ではきちんと見えるのに、し奧へ進むと元の場所へ帰れなくなる淡い夜の世界である。

左右には古風な店構えの家が立ち並び、それらの玄関に二人のが座って談笑していた。彼達が何を話しているのかは聞こえないが、時折りあざけるような視線をイヴァン達に向けてくる。なくとも気分の良い容ではないだろう。

「……見てイヴァン、窓の中を魚が泳いでいる」

「ここは現世から隔絶された別世界だ。何が起きるかわからないから無闇にるなよ。またラフランのように住民を怒らせるのは勘弁だ」

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「……それは私じゃなくてベルノアに言うべき」

言っても聞かないのがベルノアだ。彼が強力なを持っていないのは幸いである。弱だからこそイヴァンが制できているものの、もしもソロモンやナターシャのような力を持つと手に負えない。

なお、もう一人の問題児であるマクミリア祭司は黙って最後尾についている。彼もイヴァンにとって頭痛の種だが、大人しくしているだけまだマシだろう。問題児二人が同時に暴れた日にはイヴァンの胃にが空くかもしれない。

「おや珍しい。外からのお客さんですか?」

心で頭を抱えていると、住民の男に話しかけられた。年齢は三十前後だろうか。若く見えるが杖をついている。敵意はじられない。もっとも、敵意なく洗脳しようとするパラマのような存在もいるため警戒は必要だが。

「星を見られる場所と聞いて訪れた。墓をたてたいのだが、近くに墓場はないか?」

は一瞬きょとんとした表を浮かべた後、納得したように數回頷いた。

「お墓ですか。さいですか、さいですか。でしたら城に住む墓守り様を訪ねるといいでしょう」

「俺達が城にってもいいのか?」

「墓守り様しか住んでおられないので問題ありません。玉座は空白。この國に王はいませんから」

住民が杖の先端を城に向けた。一目でミラノが強大な國であったとわかるほど荘厳な城だが、もったいないことに一人しか住んでいないらしい。

「最後の王が崩して、國が海底に沈み、ミラノ水鏡世界として生まれ変わってからずっと、ここは王なき世界です。神に近づきすぎた者たちが、水に縛られながら生きる街。皆さんも用が済んだら早めに立ち去るのをおすすめします」

王の國……忘れ名荒野に消えた國か。ミラノの住民はやはり海底都市の生き殘りなのか?」

「そうですよ。我々の祖先が水鏡世界を作った、と墓守り様がおっしゃっていましたが、詳しくは知りません。知らずとも暮らせますから」

結晶が生まれ、數多の國が消える原因となった百年戦爭が起きたのはずっと前だ。もう當時を知る人間は殘っていない。すべては結晶に飲まれてしまったのだから。人の手が加わったものはすべからく神が宿り、時間が経つにつれて結晶化し、思い出や文明とともに封じ込められる。

それまで後ろに隠れていたマクミリア祭司が恐る恐る口を開いた。

「あなたは足が悪いのですか?」

「なんともありませんよ。ほら、ちゃんとまで上がります」

「それではどうして杖を?」

「杖はもしものときの支えです。僕(・)の(・)(・)は(・)も(・)う(・)重(・)い(・)ですから――ゲホッ」

「ちょっと、大丈夫ですか!?」

「すみません、大丈――ゲホ、ガハッ……!」

突然、男は苦しそうに咳き込んだ。息を吸おうとしてもヒュー、ヒュー、と細い音が鳴るばかり。

男は盛大に吐いた。胃ではなく、でもなく、真っ黒な水を吐き出した。一度だけではない。二度、三度と吐き続ける。

マクミリア祭司が「ヒッ……!」と悲鳴をあげた。黒水に混じって蛆蟲(うじむし)がわいていたのだ。側から腐っているのだろう。無數のぶよぶよとした生きが黒水の中でうごめいている。

その尋常でない様子にマクミリア祭司は慌てて駆け寄るも、見たことのない癥例に右往左往した。

「……これは黒水?」

「ミシャもそう思うか。黒水は月明かりの森にあると聞いていたが、どういうことだろうな」

「冷靜に話していないで助けてください!」

マクミリア祭司がぶ。ミラノ水鏡世界は彼にとって聖地であるため、そこに住む人々もまた敬意を払うべき相手なのだ。そもそも狂信的な側面を除けば優しいだ。狂信的な、側面を除けば。

住民の男は今にも倒れそうなほど掠れた聲で前方を指差した。

「お手數ですが……あそこの、井戸で、水を汲んでくれますか?」

「俺が行こう」

イヴァンのきは早い。井戸の周囲にたくさんの石蟹が集まっており、それらを踏まないように避けながら井戸の取手を摑む。

引いた瞬間、手のひらにずっしりとした重みが手に伝わった。まるで地の底に掛かりした針を引くかのようなだ。下手をすると取手が壊れそうである。

やがて真っ黒な水がに注がれた。汲み上げられた直後だというのに全く水面が揺れておらず、澄みきった黒は夜空を彷彿させる。

「はたして毒か、それとも薬か……おいあんた、持ってきたぞ」

「ああ、ありがとうございます」

男は躊躇(ちゅうちょ)せずに黒水を口にした。よほど苦しかったのだろう。黒水を飲み干した彼は疲れたように家屋の壁へもたれかかった。石蟹がわらわらと周囲に集まってくる。心配をしているのだろうか。否、彼らはハサミの先端で男をつついた。餌と勘違いしているのだ。

「この水について教えてくれないか?」

石蟹を払いつつイヴァンが尋ねる。

「僕が説明するよりも墓守り様にお聞きしたほうが良いでしょう。城に向かわれるのですよね?」

「ああ、そこに墓場があるなら」

「それでしたら僕から言うことはありません。無知な言葉は人をわせるのです」

再び石蟹が集まってくる。ある蟹は膝の上に、ある蟹は頭の上に乗り、彼のがみるみるうちに埋まっていく。

「ああ、でも……助けていただいたお禮に一つだけ、ご忠告いたしましょう。墓守り様に、逆らっては、いけませんよ。あのお方は、人嫌いで、気まぐれで、誰よりも長く生き、誰よりも強大な力を持っています。ええ、いけませんとも……絶対に……」

イヴァンが「どういう意味だ?」と問い返した。だが、返事はない。男は石蟹に埋もれたまま、すでにかなくなっていた。力なく垂れ下がった両腕を石蟹がつつく。まるで人形のねじが突然止まったかのようだ。濁った瞳がじっとイヴァンを見つめていた。

星がまたたく。人の一生を表すように流れ星が落ちる。煌々と輝きながらあっという間に燃え盡きるだ。

イヴァンは忍び寄るような悪寒をじた。ミラノ水鏡世界に辿りついたことで気が抜けていたが、ここもれっきとした足地である。

平和な街の景。親切な住民たち。空はしい。蟹は可い。

特に危険はじられなかった。そんなはずはないだろう。足地という常識から外れた場所に暮らしていて正気を保っていられるわけがない。石蟹がカタカタとを震わせる。あふれ出した黒水が地面に広がり、蛆蟲がピチピチと跳ねている。それを見たが街角に座りながら笑った。

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