《傭兵と壊れた世界》第百三十話:もう迷わない
送り水は命の先延ばし。死に瀕した者にだけ手を差しのべる。それは人間のを闇鍋のごとく煮詰めた激毒であり、適合した者には長壽をもたらすが、もしも適合しなければ人のを失ってしまう。
「確かに水癥狀になりかけていたけど、死にかけていたなんて大袈裟だわ」
「ならば他に心當たりがあるのではないですか?」
あのとき怪我は負っていなかったはずだ。結晶化現象(エトーシス)にも細心の注意を払っていたし、空腹狀態も限界ではなかった。他に考えられるとすれば病気の類い。だがナターシャに持病はない。
ならば殘るは――ヌークポウの呪いか。
「思い當たる節があるようですね」
つまるところ、ナターシャが月明かりの森で黒水を飲んだとき、彼もまたヌークポウの呪いに蝕まれていたのだ。アリアの死は決して他人事ではない。黒水を飲んでから妙にの調子が良くなったが、あれは黒水によって能力が向上したのではなく、呪いが失われて本來の調に戻っただけである。
自覚癥狀はない。されど黒水に適合したのが何よりの証拠。それほどにヌークポウの呪いは兇悪なのだろう。そう考えると月明かりの森を選んだのは正解だった。もしも忘れ名荒野に進んでいれば命を落としていた。
「ご安心ください。今後も送り水を定期的に飲み続ければ問題ありません。むしろ常人よりも長生きできるでしょう。刻限が迫ったらミラノにお越しください。大丈夫、大目玉はもうあなたを襲いません」
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墓守りは閉じたまぶたをナターシャに向ける。噓くさい笑顔がほんのしだけ崩れたように見えた。
○
マクミリア祭司は生まれた時から土地神信仰を教え込まれた。狩人が平和に暮らしていられるのは土地神様が村を守っているからであり、謝を忘れてはいけないのだと。故に、彼にとって信仰は何よりも優先されるものだった。たとえ戦士長が犠牲になったとしても、それで結果的に土地神が満足をするのならば、彼は一切の罪悪を覚えない。それがマクミリアという。
夜中、目を覚ました彼は緩慢な作でを起こした。
(今ならば彼らも寢ているでしょう……)
マクミリア祭司はナイフを握りしめて部屋を出る。目指すは第二〇小隊の寢室。彼はずっと隙をうかがっていたのだ。もっとも、監視をつけずに一人部屋を與えられた時點でマクミリア祭司は気付くべきだった。ナターシャ達にとってマクミリア祭司は警戒するほどの危険すらないのだと。
(まずは生意気な白金の小娘からです。見ていてください土地神様、マクミリアは使命を果たしますよ)
第二〇小隊の部屋に向かう途中、廊下の大窓から明かりの消えた街並みが見えた。ミラノは街燈が存在しないため、街が寢靜まると星明かりだけが唯一の源となり、空と地面の境界線が曖昧(あいまい)になる。
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マクミリア祭司は星に照らされながら、消えてしまった仲間の顔を思い浮かべた。波に飲まれた祭司達やボルドゥ率いる學士隊、そしてラバマン戦士長。
「殘ったのは私だけですか。これから皆を導くはずの狩人だったのに、惜しいです」
ミラノ水鏡世界にたどり著くための犠牲と考えればないかもしれないが、大きな損失であることに違いない。ただでさえ優秀な人材が限られているというのに、今回の遠征で多くの若者が散ってしまった。悲しい出來事だ。せめて仲間の犠牲が無駄にならないように使命を全うしよう。
すべて傭兵の責任である。彼らが足地を目指そうとしなければ仲間を失うこともなかった。集落に帰還したらすぐに里長へ報告だ。それが生き殘った者の役目である。
傭兵と狩人の確執は深い。先住民族だった鷲飼いの狩人を地底に追いやって國を興したのは他ならぬ初代の傭兵達なのだから。狩人が見習いの時期をあえて傭兵として過ごすのも、表向きは両者の関係改善というのが名目であるが、その実は傭兵に対する諜報活だった。
「彼らの無念、せめて私が――」
マクミリア祭司がナイフを握り締め、ナターシャが眠る寢室の廊下を曲がった瞬間、彼のがビクンと大きく跳ねた。同時に背中から焼けるような痛みに襲われる。痛み、なんてものではない。を無理やり引き裂かれるような激痛だ。
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「アッ……なっ……!」
ナイフを握りしめたリンベルが立っていた。先端から赤いが滴っている。
「なに……刺された……? この私が……?」
マクミリアは優秀な績を修めたからこそ祭司長を名乗っている。そんなマクミリア祭司が足音にも気付かずに刺されたという事実は彼を揺させるに十分だった。焦れば焦るほど、背中に空いた傷口からが流れていく。
「あんたなら、そうするだろうと思ったよ。ナターシャに手出しさせねえ。私が生きている限り、絶対に……」
リンベルは酷くやつれている様子だった。元々白かったがさらに青白くなり、病人のように淺い呼吸を繰り返している。刺されたのはマクミリアだというのに、リンベルのほうが今にも倒れそうだ。されど彼の瞳に宿るは強い執著心。なくとも死に瀕した者のソレではない。
の異様さにマクミリア祭司は背筋を凍らせた。排除せねば危険だ。彼の刃は間違いなく自分の首に屆き得る。
両者の間に狂気が渦巻いた。かたや神に心酔する狂信者。かたや口に出來ないを抱えて足地にまで來てしまった狂者。
「そもそも、てめえが裏切らなければ、ラバマンは死ななかったんだ。全部、てめえのせいで……」
「ならばあなたが土地神様を討てば良かったでしょう! 弱者を救えるほど世界に余裕はないのです。力不足が生んだ不利益を人のせいにしないでください!」
マクミリア祭司は背中の傷なんてお構いなしに駆け出した。逃げるのではなく、リンベルの首を狙った一閃。祭司長たる者、小娘相手に引けを取るわけにはいかない。
「吠えるじゃねえか狂信者! 仲間を売って供にしようとしたくせによ……!」
を引いて避けたリンベルは反のままに一歩踏み出し、腰を落としてマクミリアに急接近した。反的に繰り出された膝蹴りをけ流す。さらにマクミリアの突きを左腕でそらしながらナイフを振るった。
「クッ……!」
リンベルは績が悪くて破門になったのではない。むしろ同世代の中では優秀な部類であり、傭兵の訓練やイヴァンの格闘も學んでいる。銃の腕前こそ凡人であるものの、のこなしだけならば秀才と呼ばれる域に達する。
ラッシュだ。リンベルは畳み掛けた。
傷を負いながらも必死に防ぐマクミリアだが、しずつ劣に追い込まれていく。
「信仰心はおおいに結構! だが第二〇小隊を狙ったのは間違いだ! ミラノで大人しく祈っていたら良かったんだよ!」
「役目を果たさずして何が信仰ですか! するだけの人間に狩人の資格はない! あなたも使命を思い出しなさい!」
「あいにく破門済みでな!」
マクミリアの持っていたナイフが弾き飛ばされた。
その隙を見逃さずに急接近するリンベル。
「信仰なんてわからねえが、ナターシャの敵は私が殺す」
マクミリアのにナイフが突き立った。心臓にまでは屆いていない。しかし、放っておけば致命傷になりうる一撃。
リンベルが思わず確信の笑みをこぼす。この戦闘で初めてみせた隙だ。マクミリアは毆るようにしてリンベルを突き飛ばした。
「待て……ゲホッ、くそ……ゴホッ……!」
リンベルが立ち上がろうとするも、勢いよくむせてしまう。同時に吐。ヌークポウの呪いが肺を締め付けたのだ。マクミリアはとっさに逃げ出した。安全な場所なんてないが、とにかくリンベルから離れようとした。
「ハッ、ハァ……!」
リンベルと敵対した以上、第二〇小隊のもとへ逃げるのは危険だ。かといって自力でミラノ水鏡世界から帰る方法はない。しかも刺された傷口からがとめどなくあふれている。
頼れるとしたら一人だけ。マクミリアは墓場を目指した。
「リーベ、様は、おられますか!?」
傷口を抑えながらんだ。左手があっという間に赤く濡れる。べば激痛。踏み出しても激痛。されど彼に殘された道は墓守りを頼るほかにない。
「あら、あらあら、どうしましたか。酷い有り様じゃないですか」
「お助けを、リーベ様、奴らに襲われて……!」
「仲間割れですか。人はいつまで経っても爭いをやめられないのですね。星空の下でぐらいは平和に過ごしたらいいのに、闘爭本能が冷めやらぬのでしょうか」
「どうか、お助けを……!」
他人事のように呟く墓守りをマクミリアが急かす。
「私は人の治し方を知りません。が、ちょうどいい方法があります」
「ちょうどいい?」
「はい。送り水を飲みましょう」
パン、と両手を叩いて提案した。
「あれは命の先延ばし。うまくいけば助かりますよ?」
墓守りは嬉しそうな表を浮かべた。ここが足地でなく、自分が瀕死の重傷でなければ、そのしい笑顔に見惚れていたかもしれない。だらけのマクミリアを見てなお笑えるほど彼はズレている。
「うまく、いかなければ……?」
「おや、失敗を恐れるほど余裕がおありで? あなたに選択肢はありません。さあ跪きなさい」
マクミリア祭司は本能的な危険を察した。けれては駄目だ。マクミリア祭司を見る墓守りの瞳はとても慈悲を與える者の目ではない。
「い、嫌です! 私は帰ります……!」
「その足でどうすると言うのですか?」
「え?」
マクミリア祭司は言われてから気付いた。膝から下がいつの間にか地面に埋まっている。まるで土そのものが意思を持ったかのように彼のを摑んで離さない。
ドッ、ドッ、と心臓が跳ねた。が流れすぎて頭が朦朧とし、逃げなければという焦燥ばかりが募っていく。
彼の頬に手が添えられた。墓守りの手はまるで死人のように冷たく、れた箇所から命が奪われてしまいそうだ。なすがままに顔を上げられると、リーベが覗き込むような格好になった。
「ヒッ……」
リーベはまぶたを上げていた。だが、そこにあるはずの眼球は無く、かわりに塗りつぶされたような暗闇が広がっている。
「を委ねなさい。なるようになります。ならんときも、ありますが」
落ち窪んだ瞳から黒いがボタボタと落ち、マクミリアの口に吸い込まれた。
○
呼吸を整えたリンベルが花畑に足を踏みれたとき、墓場で待っていたのはリーベだけだった。墓石の前に佇む彼は殘念そうに夜空を見上げている。リンベルは怪訝な表でリーベに尋ねた。
「あんた、ここにマクミリア祭司が來なかったか?」
「來ましたよ。彼は送り水を飲みました」
「送り水を? どうなった?」
「ふふ、どうなったと思います?」
トコトコと足元を歩いていた石蟹をリーベが抱き上げた。周囲に人影はなく、濡れた祭司服だけが落ちている。
「彼は選ばれませんでした。送り水は裏切り者を嫌います。日頃のおこないが悪かったのでしょう」
「死んだのか?」
「難しい質問ですね。生きてはいますが、マクミリア祭司という存在は死んだでしょう」
「はぁ……?」
リーベは抱き上げた石蟹の背中を優しくでた。作りのようにらかな指先だ。
はっきりとしない答えに苛立つリンベルだが、石蟹の甲羅に真新しい傷が殘っているのを見た瞬間、彼はおぞましいものを見たかのように一歩下がった。
「その蟹、まさか……」
「あら、気付きましたか?」
「……蟹鍋を食わなくて正解だったぜ」
「あれを好む住民は多いのですよ。私は食べの味なんてどうでもいいですが」
墓守りが石蟹の背中を指でなぞると、まるで傷口を隠すように小さな花がぽぽぽと咲いた。
石蟹がリンベルを見つめている。否、にらんでいる。しまいには復讐を誓うかのように両手のハサミをかかげて威嚇をするものだから、リーベが「暴れないでください」と甲羅を叩いた。
「まあいい。私の用は済んだ――ゲホッ」
「良くない咳ですね」
「気にしないでくれ。持病みたいなもんだ」
「あなたも送り水を飲んでみませんか? その持病とやらが治るかもしれませんよ?」
「ハッ、冗談はよしてくれ。先が短いのはわかっちゃいるが、命を賭けるにはちょいと無謀な博打だろ。殘りの時間をナターシャの隣で過ごせたらいいんだ」
そう言って背中を向けたリンベル。彼はのほどをわきまえていた。だが――。
「あなたが本當に求めているものが手にるかもしれませんよ」
「……あ?」
リーベの言葉に足を止める。
「あなた、ナターシャがしいのでしょう? 獨り占めをしたいほど焦がれているのでしょう?」
「……なにが言いたい?」
「送り水は命の先延ばし。いずれ訪れる終わりを後回しにしただけです。つまり、先延ばしを延長するために、ナターシャは定期的に送り水を飲まなければいけません」
當然である。ヌークポウの呪いを治したのではなく、先延ばしにしただけなのだから。
「先延ばしの間隔は次第に狹くなり、送り水がなければ生きていけず、やがてミラノ水鏡世界で暮らすことになるでしょう。まあ壽命がびていますのでずっと先の話ですが」
「それと私の願いがどう繋がるんだ?」
「ふふ、わかりませんか? 今すぐではありませんが、ナターシャは仲間と別れてミラノ水鏡世界で暮らすことになります。それは長い孤獨の時間になるでしょう。でも、仮にあなたが送り水を飲んだらどうなりますか?」
リーベは穏やかに微笑んだ。
を求めし者に慈しみを込めて。
「い(・)つ(・)か(・)こ(・)の(・)街(・)で(・)暮(・)ら(・)す(・)こ(・)と(・)に(・)な(・)っ(・)た(・)と(・)き(・)、(・)彼(・)(・)の(・)隣(・)を(・)手(・)に(・)(・)れ(・)ら(・)れ(・)る(・)の(・)で(・)す(・)よ(・)。(・)長(・)い(・)長(・)い(・)時(・)間(・)を(・)、(・)あ(・)な(・)た(・)だ(・)け(・)の(・)も(・)の(・)に(・)」
リンベルは想像した。ヌークポウで、もしくはシザーランドで過ごした大切な時間をもう一度繰り返すという夢を。迫り來る死に怯え、諦めたはずの未來を。
リンベルの疑うような表が次第にらかくなり――。
「……なるほどな」
破顔。、ここに極まれり。
リンベルはナターシャをしている。どこに行こうとも居場所がわかるように、発信付きのイヤリングを渡すほど固執している。リンベルが傭兵國でナターシャを待っていたのも、聖都ラフランから帰還する際にナターシャの居場所がわかったのも、すべてイヤリングのおかげだ。
つまり、ナターシャが船から落ちたあの日、彼が実は生きていて、月明かりの森に向かったことをリンベルは知っていたのだ。當然、その後シザーランドに向かったことも。それをアリアに伝えていれば二人は再會できたかもしれない。ディエゴだって違う道に進んでいただろう。だが彼は獨り占めをしたかった。親切心と獨占を天秤にかけた結果、後者が勝った。まさか呪いのせいで二度と會えなくなるとは夢にも思わずに。
故の後悔。獨りよがりながどいつもこいつも不幸に蹴落として、しまいには何も得られずに自分自を殺すのだ。
ナターシャがドットルを撃った夜、イヴァンと抱き合う姿を見て諦めたつもりだった。元々本心を告げるつもりはなく、當時からの異変に気がついていたため、一歩引いて見守ろうと決めていたのだ。
だが、もしも可能が殘されており、手をばしても良いと言われたら、彼はもう自分の心に噓をつくことはできない。
「どのみち短い命だ。賭けにのってやる」
「そう言ってくれると思いましたよ。さあ、こちらへどうぞ」
リンベルは決心した。あとは送り水に選ばれるかどうか。
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