《ドーナツから蟲食いを通って魔人はやってくる》109話 サチが……
(イアン)
とても靜か。
夜は多くの獣の活時間でもある。人間以外にとっては賑やかな時間だ。靜かなのはおかしい。
「……サチ??」
思案に耽っていたイアンは気づくのが遅れた。サチはピタリ、きを止めている。集中して気配を読もうとしているようだ。
気持ち悪い風が吹く。ぬるっとしていて、り気のある。冬にしては生暖かい。やはり、なんの気配もじない。異様だ。
ザザザザッ……
木の上から落ちてくるのは荒々しい気配。イザベラ。
「サチ! 魔の國のほうからなにか來るわ! 雲に覆われるまえ、チラッと見えたの。すぐにここを離れましょう!」
「様子が変です。イザベラ殿の言うとおり、ただちに移したほうがいいでしょう」
突然現れたグラニエも同調する。イアンとしてはクレセントと別れたくなかった。たしかに妙だが、魔の気配はない。このまま様子を見てもいいのではないか。しかし、この空気では、わがままが言いづらかった。
くわえて、グラニエのあとに現れたクリープの様子である。無表は無表。いつもと違うのは小刻みに揺れている。
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──震えている??
「皆さん、逃げてください。たぶん、あ(・)い(・)つ(・)です。目的は逃げた僕だ。僕を捕らえれば、追ってこないと思います」
クリープは消えりそうな聲で囁いた。靜かだからいっそう、棒読みの一言一句が耳に殘る。
「エド、そんなこと言うんじゃない。どうして、いつも自分を犠牲にするんだ? 一緒に行こう。そうでなけりゃ、俺もとどまる」
サチの意志は固かった。頭を振るクリープも頑な。兄弟の絆の深さがうかがえた。イアンの知らないところで、この二人は兄弟だったのだ。
「言い合ってる余裕はないです。すぐ行きましょう。エドアルド様もご一緒にです」
グラニエが促す。イアンも空気を読んだ。皆、深刻な顔をしてお互いを気遣っているのに、わがままは言えない。ユゼフのグリフォンがどうしてもほしいから、ここで待っていたいなんてことは……
──クッソ……ここでクレセントとお別れかぁ……帰ってから、別のグリフォンをぺぺにおねだりしてみるか。あー、でもなぁ……
イアンは一人、思い悩んだ。どうしても、あきらめきれない。
──お、よいことを思いついたぞ。うん、これで行こう!
「よし、みんな、蟲食いへ向かって走れ! 俺が殿(しんがり)を務める! 四の五の言ってる暇はないぞ。とっとと走れ!」
イアンは聲を張り上げた。そう、一番最後に殘って、大丈夫そうだったら蟲食いにるのをやめようと。我ながらよく考えた。
鬼気迫る雰囲気だったサチたちは、発破をかけるイアンにおとなしく従った。サチを先頭にイザベラ、クリープ、グラニエの順に走り出す。
グラニエだけは、なにか思うところがあったのだろう。振り返り、イアンのことを一瞥してから走り出した。
──危ない、危ない……勘がいいな、イヤミ髭は。
イアンは考えがバレるのではないかと、嫌な汗をかいた。
イアンたちが向かうのは舊シャルドン領に繋がる蟲食いだ。王都に直結する蟲食いはし遠いので、早めに降りた。舊シャルドン領の蟲食いから夜明けの城までは、馬で數時間の距離だ。
木のうろの中に蟲食いはある。特に目印もなく、地元の人間以外にはわかりづらい。ゆえにイザベラは、だいたいの當たりをつけて著地した。蟲食いまでは々走る。
走っている間、イアンはグリフォンの餌の心配をした。なにを食べるか、魔獣など飼ったことがないからユゼフに聞かねば。
──ネズミとか兎でいいかなぁ。餌代が結構かかりそうだ。ずっと魔瓶にれっぱなしも可哀想だし。連れ帰ったら、まずジャメルとティムとカオルに見せびらかそう。くくく……あいつら、羨ましがるだろうなぁ
なるべく時間を稼ぎたい。前を走るグラニエとは、だいぶ距離を置いた。だから、イアンには遠目から全員の姿が見えたのである。
グラニエの背中が止まった時、目的地に著いたのだとわかった。
その瞬間──
──え? 噓……
ドドドドドドドド!!
激しい落下音のあと、黒い幕で覆ったみたいにグラニエが見えなくなった。次に聞こえたのはイザベラの悲鳴だ。
「え? え? え? なに??」
イアンは狀況を把握できなかった。急いで駆け寄るしかない。腹の底からなにかせり上がってきて、の覚がおかしくなる。森が揺れる。木が二重に見える。背後からも正面からも、とてつもない気をじる。
これから王都に帰って、皆に元気な顔を見せる予定だった。
ジャメルを叩き起こして、朝まで飲み明かす。そのまえにアスターも心配しているだろうから、顔だけでも見せてやるか。サチの復帰祝いもしないとな──考えていたことが脳を駆け巡り、泡となって消えた。
ふざけあえる仲間と、ちょっとだけつまらない日常。いつもの世界に帰ってきたはずだった。
邪悪な──これだけ大きな気は蓬萊山のヒュドラ以來だ……否、このじは六年前の魔國。サチのを乗っ取り、ディアナを人質にユゼフを連れてこいと言った悪魔──
派手な高笑いが聞こえてきた。甲高い狂った笑い聲だ。全然、楽しい笑い聲じゃない。これはまみれの悪魔が興した時の聲、を浴びている時の聲だ。
たどり著いた時、イアンはフラフラだった。一緒に育った森が、大切な森が、に染まる。ヴィナスにあげる花を摘んだ。ユゼフやカオル、アダムと駆け回った。キャンフィとキスをした。
──もう、奪わないでくれ! なんでもするから! わがままも言わない。弱い者いじめも二度としません。ダーラやカオルをからかったりもしません……キャンフィ以外のの人にちょっかいも出しません。だから、だから……
神への祈りはかき消される。目の前は闇に塗りつぶされた。
さきほど見えた黒いもの、空から落ちてきたのはいくつもの鏃(やじり)だった。見た目は鏃だが、強い魔力をじる。足元にはついさっきまで、憎まれ口を叩いていたグラニエが目を開けたまま橫たわっていた。全には黒い鏃が針山のごとく突き刺さり、息はしていない。
數歩離れた先に黒い翼が見えた。翼の主はかな黒髪を持つか。黒髪は緩やかなウェーブを描いて腰までびている。の下半は鳥であった。
「アイロー?」
イアンが魔國で出會った魔人のに似ている。アイローはアキラが殺したはず……
振り返ったの顔はに塗れていた。顔半分がそれこそ、ヒゲでも生えたみたいに黒い。
「おや? アイローを知っているの?」
微笑む顔立ちはアイローとそっくりである。表はどことなくらかい。魔力はおそらく桁違いだろう。その笑顔の下には、白眼を剝いたサチがいた。
サチは首から肩にかけてまみれだった。魔人は背後からサチの肩をつかみ、抱え持っているのだ。サチの首には風が空き、そこからが流れ続けている。
「あ……あ……あ、あ……」
「あ??」
言葉を発せないイアンをはあざ笑った。突如、悪夢に落とされ、なにが起こったかイアンにはわからない。ここにあるのは圧倒的恐怖だけだ。ずっと揺れて見えるのは、視點も定まらないくらいに震えているからである。
「アイローはどこ行っちゃったのかしら? あの子、馬鹿だし力も弱いから、どこかで野垂れ死んでないといいんだけど」
らしい口調のあとにケタケタっと気持ち悪い笑い方をする。イアンはけなかった。今までの敵とは雰囲気が違う。漂うのは邪悪で無な殺気。醜悪過ぎる。
「あたくし、クロチャンって言うの。アイローとは姉妹なのよー。ドゥルジ様の家來。ねー、エド! 聞いてる?」
クロチャン……がんで翼を広げると、風が起こった。
イアンは瞬きせず。目を見開いたまま。尖った枝が飛んできて頬を傷つけても、微だにできなかった。
クロチャンの近くにあった木が倒される。靜寂のなか、聞こえる音は大袈裟だ。イアンはをこまらせる。音に怯える小と同じ。
黒いに濡れたクリープが木と共に倒れた。
「あー、エド死んじゃったぁ? つまんないの。でも、ついでに用事も果たせたし、よかったかしらね。ドゥルジ様も文句言わないでしょう。エドー、逃げるからよー。あんなに躾(しつけ)てもらったのに…………ねぇ、君、お名前なんて言うの? あたくし、顔も好きなの。エドの代わりに連れ帰っちゃおうかな」
「ば、ばけもの……」
「あら? 人間て口を開けば、同じことしか言わないんだもの。本當、つまらない」
舌なめずりするクロチャンの次の標的は、イアンに違いなかった。イアンは一歩下がる。人間だった時は覚的にしかわからなかった。でも今は、魔の力が手に取るようにわかる。
クロチャンの瞳が金にった時、イアンは本能的に伏せていた。
明日で三部の前編、最終話です。
後編は七月から。長い間、お付き合いいただき、ありがとうございました。
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