《ドーナツから蟲食いを通って魔人はやってくる》110話 ドゥルジ様の命令

(イアン)

クロチャンの瞳が金った時、イアンは本能的に伏せていた。

背中スレスレに、高速のなにかが飛んでいく。

「イツマデ……」

背後から呟き聲が聞こえた。クロチャンに気を取られ、こちらの気配をすっかり忘れていたのだ。舌打ちしたクロチャンの標的が、自分ではないことにイアンは気づいた。

「イツマデ、ごくろうだったわね。アンタの毒霧よく効いたみたい。覚鈍くなって、全員マタタビ舐めた貓みたいにフラフラして、アタクシの罠にも全然気づかなかった。なりの良い四、五人の組み合わせ。若い、グレーヘアーと一緒のエデン人みたいな顔の魔人……間違いないわよね? 今、あたくしの腕の中にいる。まさか、エドも一緒だとは思わなかったけど」

「イツマデ……」

「アンタの毒霧もアタクシの鏃も強烈なのは、一回しか出せないのが難點よね。高位の魔師+魔人がいるからって、用心してアンタと協力したけど、この様子だと一人でもイケたかも」

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「イツマデ……」

「なんでアンタを攻撃したかって? そりゃ、する乙だから。大好きなあの方が手柄を橫取りしてこいって言うから。この男の子、いただくわね。お手伝い、ありがとう。この子はあとで、ダーリンがドゥルジ様の所へ屆けると思うわ」

黒い噴煙がイアンに被さってきた。どうやら、背後の魔から噴出している。凄まじく濃度の濃い瘴気だ。イアンはむせた。

また、背中の上を高速のなにかが過ぎる。今度は背後から。

「痛ったっっ!! なにすんのよ? あんたとやり合う気はないわ。お互い、力を使い果たしてるんだし……この子は渡さないんだから!大好きな方にお渡しするんだから!」

クロチャンが怒鳴ると、風が起こった。正面から背後から、風はぶつかり合い竜巻を発生させる。黒い鏃(やじり)も木片もすべて巻き込んで、グルグル激しく回る。イアンは地面に這いつくばるしかなかった。

──早く、早く、去ってくれ

この願いは神に聞きれられた。

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長く短い時間が過ぎたあと、ふたたび靜かになる。音の奪われた世界から、戻ったことを気づかせてくれたのはツグミの鳴き聲だった。

キュッキュー……キュー……キュー……

イアンは飛び起きた。魔の気配が消えている。いつの間にか空は白み始めていた。彼らが黒雲を連れてきていたために、気づかなかったのである。

「サチ!?」

呼びかけても返事はない。連れ去られてしまったようだ。魔人がいた辺りに気配……黒い塊が揺れている。黒いのは髪?

「イザベラ!!」

イザベラは濡れた顔を上げた。はついていない。綺麗な顔だ。

「ケガは?? 大丈夫か??」

「サチが……サチが……私をかばって……」

イザベラは答える代わりに嗚咽した。肩を上下させ、顔を覆う。

見たところ、ケガはなさそうだ。おそらく、上から降ってきた鏃(やじり)から、サチが守ったのだろう。

次にイアンが視線を移したのは倒木の上、仰向けに倒れているクリープだった。顔は傷ついていないが、眼鏡が吹き飛んでいる。全に鏃が刺さっているのはグラニエと同じ。こちらも、死んでいるだろう。

と思ったのだが…… …… ……まだ、息がある??

「クリープ?」

呼びかけても、返事はない。だが、微かに呼吸しているような…… …… ……生きてる!

──こういう時はどうするんだ? 人口呼吸? 心臓マッサージ? いや、ちがう。天狗の丸薬、河膏だ……

イアンは慌てて、腰袋から丸薬を出そうとした。焦って手がうまくかない。関係ないがボロボロと落ちた。

「丸薬、丸薬……あった!」

イアンは天狗の丸薬をぐいぐいクリープの口に押し込んだ。クリープのは白く、弛緩している。押し込めても飲む気配はなかった。

そんなイアンのことを、イザベラが遠くを見る目で見ていた。

舞臺化粧はユゼフを待っている間に落としたのだろう。素顔にはまだの名殘がある。普段の憎まれ口ばかり叩く意地悪さは、生気とともに削げ落ちていた。心を無くすと、造形が際立つ。抜け殻みたいな彼はとてもしかった。

「無駄よ。そもそも、それは空腹を満たすためのものでしょう?」

「あ、そうか。じゃ、河膏を塗ろう」

「それも無駄。表面的な傷だけ治したって手遅れよ」

「じゃあ、どうすれば……」

「死ぬのを待つしかないわね。それか、なるべく苦しまないように息のを止めてやるか」

「そんな……」

わずかに隆起を繰り返すクリープの元に、イアンは視線を落とした。らかく瞼を閉じ、弛緩した口元から白い歯が見えている。全然知らない顔だった。

──あれ? こんな顔だっけ?

眼鏡を取るだけで、こんなに顔が変わるものなのだろうか。長い睫厚な下、矢印形の鼻……顔のありとあらゆる特徴を、眼鏡が吸い取ってしまっていたのである。

──魔法の眼鏡か

イアンは、クリープのことがあまり好きではなかった。いつもなにを考えているかわからないし、イアンに同調もしなければ、反発もしてこない。無視や興味を持たれないことは、イアンの最も嫌うところだ。

だが、今まで“へのへのもへじ”だった顔が一つの個としてインプットされると、憐れみやら共といったが湧き上がってくる。

イアンはクリープを助けたい、と思った。

「なにか、方法はないのか? こいつが死んだら、サチだって悲しむ。回復魔法をかけてみるとかは?」

「重傷を負った直後なら、なんとかなる可能もある。でも、怪我が二次的な段階へ移行してしまったら、もう無理。表面的な傷だけ治しても、失われたは元に戻らない。循環系の異常が顕著に現れている狀態では、もう手遅れなのよ」

「でも、まだ生きてるのに……」

「……ユゼフのがあれば、なんとかなるかもしれない」

「ユゼフの??」

「あの人、エゼキエル王の生まれ変わりでしょう? そろそろ著くころじゃない? 間に合えば助かるかもしれない」

イアンは六年前の魔國での出來事を思い出した。サチのを乗っ取ったもう一人のユゼフ、エゼキエルが……

「捕虜が死にそうだと? そうか、人質に使えそうな奴か。なら、朕のを與えればよい」

アイローが死にかけたアキラを連れてきた時、そう言って乗り移っていたサチの手首を切った。その溢れたをイアンが腕(わん)でけ、アキラに與えたのだ。

アキラは見違えるように回復した。

「ちょっと、イアン? なにしてるの!?」

「見てのとおり、俺のをやるのさ」

イアンはダガーで手首を切った。勢いよく流れ落ちるは柊の実より赤い。こんなに赤くて熱いが人のもの以外であるものか、と思う。

鮮やかな赤は、さっきの鳥クロチャンと同様、クリープの顔半分を染めた。

「なにを?……窒息しちゃうわ」

「大丈夫さ。生きたいと思えば、本能に従う」

イアンの言うとおり。が口腔を濡らしたとたん、クリープはゴクゴク飲み始めた。

目を見張るイザベラにイアンは説明する。

「六年前、魔國で死にかけた俺はユゼフのを髄に流し込まれ、魔人として蘇った。俺にはユゼフのが流れてるんだよ」

「で、でも、そうだとしても眷屬だわ。高い治癒能力を有するのは特別な魔人か妖族だけよ」

「俺はユゼフの、ぺぺの眷屬じゃない。あいつの思い通りにはかない。なにより、俺のほうがぺぺより強いじゃないか。だから、ぺぺのに治癒能力があるんなら、俺のにもあるっっ!!」

滅茶苦茶な論理だとはイアン自も思う。だが──

クリープは息を吹き返した。

イアンのをひとしきり啜ったあと、クリープはむっくり起き上がり放心した。刺された傷はみるみるうちに塞がっていき、鏃がポロポロと落ちる。

塗れた顔を拭えとイザベラがハンケチを渡し、落ちていた眼鏡を拾って、クリープはようやく落ち著いたようだった。

「どうしてだ? 妖族のと魔人のの相が良かったのか……」

起き上がったクリープは、なにやらブツブツ言っているが……

「俺、すごい……クリープ、俺のおで死なずに済んだのだからな? このイアン様になにか言うことは??」

「あ……ありがとうございます」

「この命の恩人様に永遠に仕えると誓え。俺のを飲んで生き返ったから、俺の家來になるのは當然だろ?」

イアンは極まっていた。冗談ではなく本気である。

クリープは困っている様子だ。相変わらずの無表でも、ほんの小さなきをイアンは見逃さなかった。睫が揺れたり、呼吸がワンテンポ遅れる。普通だったら気づかないことにも、気づくようになってきた。慣れれば、しはが読み取れる。

「なにをまた、くだらないことを言ってるの!? サチを追いましょう。まだ間に合うかもしれないわ!」

イザベラが怒號を上げなければ、イアンはずっと余韻に浸り続けていたことだろう。自らが起こした奇跡によって、一人の人間の命を救った……まるで救世主(メシア)じゃないかと。

くわえて、寸刻前まで死んだ目をしていたイザベラが生き生きとしている。イアンの起こした奇跡が彼のことも連れ戻したのだ。

「サチはサウル王の生まれ変わり。あれぐらいで死にはしない。グリフォンに乗って追うのよ!」

イアンもクリープもうなずいた。そうして、イアン、イザベラ、クリープ……仲の悪い三人組はなんの計畫も持たず、走り出した。

敵の強さを測ったり、勝算を立てたわけではない。イアンは常にく。ただ「助けたい」という気持ちだけで、魔國へ向かったのである。

第三部前編 完

第三部前編はこれで終わりです。

後編は7月5日(水)から。21時─22時の間に投稿します。

次話以降、水、木、金の週3回更新にします。

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