《ドーナツから蟲食いを通って魔人はやってくる》29話 クリープの特訓(イアン視點)
イアンはクリープのために、一日二時間ほどのメニューを考えた。
まずは得意なを衰えさせないためのストレッチ。難しいポージングをさせ、そこから即座に別の勢へ切り替える、という練習。例えば、を左にひねり、両手を上と下で組んだ狀態で、くるり回って片足を上げる。続けて腰を落とし両足を広げ、を地面に伏せるなど。
様々に組み合わせたポージングを流れるように別の形へと切り替えていく。的なストレッチ。これは何パターンも考え、慣れたら難易度を上げていった。
そして、筋力トレーニングはこれまで見落としがちだった手、指の筋を重點的に鍛える。逆立ち指歩きというイアンも普段からやっているメニューを取りれた。これは幹を真っ直ぐさせるのにも役立つ。
、筋トレときて最後は日替わりのメニューとなる。様々な勢からの構え、攻撃をけてからの切り返しの練習など。アスターが重點を置いていた燕返しの技法も學ばせた。
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拠點に帰れる時はこのメニューを毎日欠かさずこなし、それ以外はドゥルジ配下の魔人らを尾行する。クリープは苛酷な日々を送り続けていた。イアンとしてはこれ以上、クリープを危険な目に合わせたくなかったのだが。捜索を手伝いたくともままならず、焦燥ばかり増していった。
「だから! ちがうと言っただろ!? 何度言えばわかるんだ!」
つい口調が荒々しくなるのは、もどかしいからだ。クリープはユゼフと同様、鈍重。運面においては覚えが悪い。思うように上達しないとイアンは苛立った。
タイミングとかリズムの問題なのか。連続して斬り込む際、場面を切りりしたみたいにぎこちない。きがらかにつながらないのだ。呼吸もそうだし、足も取ってつけたようなき。不自然。
黒曜石の城があった丘の上からは廃村が見渡せる。廃村を囲う泥濘地から先は瘴気のせいで見えないのだが、それでも解放はあった。ここなら、不審者がり込んでもすぐに気づける。
イアンが地下を出て、晝間から指導するのには訳があった。
ここしばらく魔人たちは夜會(サバト)に興じていた。ドゥルジ配下の僕(しもべ)もサチの捜索を中斷し毎夜、國境を越えて遊び歩いている。魔師から召喚されれば、彼らは魔國の外へ出て遊び狂う。好きなだけし、貢ぎを食らうのだ。冬の終わり、ローズマリーの月だけに許される魔族と人間の流である。これがあるから、普段はおとなしくしているのかもしれない。
時期になると、アニュラスでは魔に屬する者ら以外、日が落ちたとたんに引きこもる。戸口を固く閉ざし、決して外へ出ない。サバトは連日連夜、丸一週間続く。
……というわけで、クリープもサチの捜索を中斷せねばならなかった。サバトの時期が終わるまで、剣技を猛特訓することにしたようだ。役割が増えたとイアンが歓喜したのは言うまでもないが、プレッシャーのほうが強かった。
魔人らの桁外れの強さを目の當たりにしては、どんな特訓も付け焼き刃としか思えないのだ。襲われた時、騙し討ちで毒攻撃をけていたとはいえ、あのグラニエすら手も足も出なかった。イアンは足がすくんで一歩もけなかったのである。サチが目の前で殺されかかっているのに怯えるだけだった。思い出すだけで自己嫌悪に陥る。
「ごめん。ちょっと言い過ぎた」
イアンはクリープに謝った。気が急いて空回り。クリープのの傷を見てからというもの、憐憫に支配されている。なんとかしてやりたい、でも何もできない。歯がゆい。
「別に謝ることではないです。ちゃんと言われたとおりにできない僕が悪いんです」
「いや、俺の教え方が悪いんだ……何かがちがう。何かが足りないんだ。でもそれが何かわからない」
イアンは頭を抱えた。敵は強大過ぎる。勇気だけでなんとかなる連中じゃない。ユゼフはいつまでたっても姿を現さないし、不安に押し潰されそうだ。
「もっと厳しくしてもいいです。イアンさんは優しすぎます」
クリープの聲が遠くで聞こえる。イアンは文字通り頭を抱え、しゃがみこんでいた。こうなると、外界からの刺激に反応しづらくなる。
どれくらいの間、そうしていただろうか。クリープの質な聲がイアンを現実に引き戻した。
「憐れみなど不要です」
この言葉はいつもの無とはちがっていた。強い怒を含んでいる。
イアンは顔を上げ、クリープを見た。いつも通り無表だ。
──これだ、この落書きみたいな顔。ただ、目があって、鼻があって口がある。人からを奪うと、ここまで味気なくなってしまうものなのか。
を傷つけられるだけでなく、心まで壊されてしまったというのか。堰を切って、イアンからが溢れ出てきた。
「どうしてだ?……どうしてサチを助けようとする? 兄弟といっても、一緒に暮らしていたわけじゃないだろう? せっかくドゥルジのもとから逃れたのだから、自由になれないのか?」
「サチはサウル王の生まれ変わりですし、グリンデルの希です」
「なんでそんな他人事みたいな口調なんだよ? おまえからは自我がじられない。なにかに縛り付けられて行しているようにしか見えないんだ。がない」
「……よくわかりませんが、はずっと前に捨てました。必要ないからです。だから、憐れみも不要です」
不要ですと言われても、一度湧いてしまった憐憫はどうにもならない。だが、敏なイアンは気づいたことがある。“憐れみ”のフレーズを繰り返す時、クリープの聲が微かに怒を含む。
──憐れまれるのは嫌なんだ
蔑みや暴力は平気でも、哀れに思われるのだけは耐えられない。まだ自尊心は殘っている。
「青い鳥の力を借りたのはそれでか?」
「ええ。國を変えるために必要なら犠牲も厭いません」
「それじゃ、シーマと同じじゃないか」
「シーマ様は恩人です。グリンデルを取り戻すために手を貸すとおっしゃいました。唯一、信頼できる方です」
そうか……とイアンは思った。クリープはシーマを慕っているから、その息子であるイアンには害を與えない。百日城から逃走する際、戻ってイアンを助けにきたのもそう。青い鳥に監された時も殺さなかった。イーオーはイアンを殺そうとしていたのに。今だって、イアンに譲歩するのはシーマの息子だからだ。シーマの……
「ふざけるなっ!! シーマはニーケを殺そうとした。王族という理由だけでい王子たちを皆殺しにした。おまえのことも利用しているだけだ! ナスターシャ王と何がちがうというんだ!!」
イアンは激高して、クリープにつかみかかった。クリープの顔はまだ変わらない。
「それで國を取り戻したとして、亡くなったおまえの母上は喜ぶのか? クラウディア王妃はそんなことをんでいるのか??」
に生きた人が王権にこだわるとは思えない。深いクラウディア王妃がむのはそんなことじゃない。會ったことがなくても、イアンにはわかる。
クラウディアの名にはさすがのクリープも反応した。ズレた眼鏡を直そうともせず、鋭くにらみ返してきた。
「母のことは言わないでください」
「言ってやるさ、何度でも。クラウディア王妃はグリンデルを取り戻すことなんか、これっぽちもんじゃいない。を失ったおまえにはわかるまいが。おまえは母親がむことと、まるで正反対のことをしてるんだよ?」
「イアンさんは母のことを何も知らないでしょう」
「知らないのはおまえのほうだよ。に生きたからこそ、サチが生まれたんじゃないか。ザカリヤとの間に」
「黙れ」
クリープが低い聲を出した。酔っ払った時ほどではないが、地が出てきた。怒を含んだ目は生きている証拠だ。まだ、本當のクリープは失われていない。イアンはひるまず、続ける。
「いーや、だまらない。そうだ、怒れよ? もっと怒れ。憎しみを募らせろ。おまえの母親はに生きた。國なんかどうでもいいんだよ」
「母を侮辱するのは許さない」
「ならば、剣を抜け! 死ぬ気で向かってこい!」
煽るだけ煽ってイアンは抜刀した。こうなったら、やり合うしかない。ゴチャゴチャ考えるのはやめだ。剣をえればわかる。今までずっとそうやってきた。
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