《ドーナツから蟲食いを通って魔人はやってくる》38話 手も足もない(サチ視點)
(サチ)
懸命に蹴っている。それなのに肝心の足がない。腰から下は何もなく、黒い地面に変わっていた。
──どうしてだ? 確かに蹴っているのに。どうして何もないんだ? もしかして、これは幻覚か? この魔人に幻覚を見せられているのか……
サチは混した。あるはずの所に手も足もないのだ。やはり、これは夢なのかもと思った。
「どうした? 食いにこないのか? すぐの距離だぞ??」
角の主──マーコールの角の魔人は無な言葉を投げかける。微かに浮かべる笑みからは嗜がじられた。
サチはくるり、うつ伏せに戻った。あとは必死に這う。手足は空をかくようで、なんの手応えもない。それでも必死に足掻いた。ただ、生きたいという強い思いだけがサチをかしていたのである。
甲斐あってか、しずつしずつサチは前進した。角の魔人はそんなサチの様子をジッと見守る。薄笑いは真顔へと変わり、それは次第に苦悩の表へと変わっていった。を噛み、眉間に深く皺が刻まれる。目にはうっすら涙まで浮かべて……
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サチはたどり著いた時、暴力を振るわれるのかと思った。それぐらい角の魔人の顔はこわばっており、怒りに満ちていたのだ。だから、表が緩んで笑顔に変わった時はホッとした。
「えらいぞ! よくがんばった!!」
サチの頭をくしゃくしゃにで、大げさとも取れる反応を角の魔人は見せた。これでは犬に対するのと同じだ。しかし、サチにとっては角の魔人の態度より目先の食べのほうが重要だった。それこそ犬のようにかぶりつき、口の周りが汚れるのも厭わず食べた。
「意外にがんばりやさんなんだな。そうだ、名前をつけてやらなければ。何にしよう?」
サチは夢中で食べていたので、上から聲が聞こえるまで気づかなかった。顔を上げると、さっきとは打って変わり、慈に満ちた表の角の魔人が見下ろしていた。サチが犬みたいに食べている様をずっと見ていたのだ。あまりいい気持ちはしない。それに名前をつけるって……!?
「そうだ! グランディスはどうだろう? ダリウスもいいな。ファルダード……いや、やっぱりグランディスにしよう!」
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角の魔人は勝手に名前を決めてしまった。それから上機嫌でサチの口を拭う。抱きかかえ、もといた藁の上まで運んだ。
サチは困していた。この魔人はサチをペットとして飼う気でいる。ひとまず、命の危険はなくなったものの、無限大の不安は殘る。だが、今度は不安を食ってしまうほどの激痛が全を襲った。思わず、聲をもらしてしまうほどの痛みだ。サチは藁の上に伏せいた。苦しい。これなら、死んだほうが……
「痛いのか? 薬が切れたのだな。そうだ、待っていろ」
角の魔人は置いてあった袋から注を取り出し、サチの腕に刺した。
「薬が効いてくるまで、しばらくの辛抱だ」
角の魔人は優しくサチの頭をでる。さっきまでの不遜な態度が噓かと思うぐらいに優しい。本當の天使かと錯覚するほどに……
朦朧としてきて、サチは瞼を閉じた。
†† †† ††
角の魔人は一日に何回かやってきて、サチの世話をした。
餌は一日二回。餌のった皿をし離れた所に置き、そこまで這わせた。その間、角の魔人は険しい顔でサチを見守る。それはサチにとって苦行の時間だった。たどり著くと張の糸は切れ、魔人はサチを大げさに褒めた。ほとんど犬に対するのと同じである。
餌を食べ終えたあとは腰に空けたから便を取り出し排尿させ、最後に痛み止めを打つ。そして、薬が効いてきて眠ってしまうまで、慈のこもった眼差しで見守り続けるのだ。
サチは一日の大半を寢て過ごした。ただ、生きているとはこのことを言う。餌を食い、眠るだけ。死んでいる人間を無理に生かしているのと同じ。
自らの置かれた狀況を考えることもあった。この地獄のような日々は永遠に続いていくのだろうか、とか。これなら、殺されていたほうがマシだったのではないか、とか。脳裏に浮かぶのは否定的な言葉ばかりである。
恐ろしいのは“慣れ”だ。
最初は違和を覚えていたことも、難なくけれられるようになってくる。恥とじた介護も當たり前となる。角の魔人がやって來れば餌にありつけると心躍らせ、犬と同様に褒められれば嬉しくなる。だんだんと従順になり、びるようにもなっていった。
角の魔人は嬉々としてサチの世話をした。毎日、寢床の橫に置いてある水を取り替える。ときおり、を拭いたり、顔を剃ったり、髪を切ったりもした。
──俺はこのまま、この魔人のペットとして生きていくのだろうか
サチはそんな気もしていた。命乞いまでして助かっても、手も足もない狀態で一人では生きていけまい。
気になる仲間の安否を何度か尋ねたこともある。しかし、魔人はサチが意志を持って発言することに忌避を持った。たちまち険悪になり、ピンと張り詰めた空気へと変わる。
「かわいくない。俺は質問されるのが嫌いだと言ったろう? あんまりうるさかったら、舌をちょんぎるからな?」
そう言われてしまっては口をつぐむしかない。サチはおとなしく従った。従順であれば、角の魔人は害を為さない。むしろ、助けられている狀態ではある。不気味ではあるが。
「グランディス、俺がおまえをドゥルジに渡さなかったわけを教えてやろう」
餌を食べる間、角の魔人が一方的に話し続けることもあった。うんとすんとも言わない相手に話して楽しいかどうかは置いといて、こういう時の魔人は饒舌である。
「おまえは昔、した人によく似ているのだ。とてもしく優しい人だった。俺がするのは、あとにも先にもその方だけ。おまえにけをかけるのはそれでだ。でも、タダでとは言わないぞ。が回復したら、俺のために働いてもらう。俺はこう見えていろいろやっているのだよ。ドゥルジほど大所帯ではないが、仕事の依頼も多い。仕事容は殺しとか偵だ。娼館も経営している。けど、奴隷の売はやらない。ポリシーがあるからな。あと、おまえの痛み止めに使っている薬も売買してる。これは結構いい金になるのだ」
話を聞いていて、この魔人がドクズだということはよくわかった。闇の仕事を請け負い、金銭を得ているようだ。
「今回みたいにドゥルジの仕事をかすめ取ることも、ときどきある。あいつの手下には何人か俺のも紛れているから……しかし、今回のことでクロチャンには悪いことをした。あとで埋め合わせせねばな」
──そうか……俺はこの魔人の奴隷となって、これから手を汚して生きていく運命なのだな。けど、が回復したらって……手も足もない狀態でどうやって?
「あの……手も足もない狀態では役に立てないと思うんですが……」
つい、サチは口を挾んでしまった。ギロリ、綺麗な切れ長がこちらをにらむ。魔人は勝手に話すことを嫌う。サチは恐れて目を伏せた。
運良く魔人は怒らなかった。飛び出してきたのは耳を疑う言葉だ。
「ふふふ……それが生えてくるのだよ。時間はかかるがな。ほら、肩の下あたりを見てみろ。以前より上腕がびてきているだろう?」
サチは久しく見ないようにしていた肩の先へ視線を這わせた。見なかったのは怖かったから。わかってはいても、視覚で再認識したくなかった。見れば、またどん底へ突き落とされる。しかし、その時はちがった。絶的な無から希的な有へと変わる。
以前見た時、肩から先はスッパリ途切れていて何もなかった。それが、今は魔人の言うとおり二の腕ができ始めているではないか! どん底から這い上がれる! サチは反対側の腕も確認し、笑みをこぼした。
「本當に、本當に……治るんですね? 手も足も元通りに?」
「ああ、そうだ。それにしても……おまえ、自分ののことを何も知らないんだな。魔人なのに人間と同じようにして生きてきたのか?」
「はい。助けてくださり、ありがとうございます」
「勘違いするなよ? が元通りになったからといって、おまえを自由にしてやるつもりはない。勝手に逃げたら殺すからな?」
「でも、戦うことはあまりできません」
「騎士団にいたのだろう?」
「事務方の仕事や警邏しか経験がないので、戦えないのです」
魔人は口をあんぐり開けて、しばし呆けた。サチは言ってから後悔した。魔人の仕事を手伝いたくなかったので、つい口走ってしまったのである。使い道がなければ殺されるだけだというのに。
「あ、でも料理や掃除はできます」
そして、またもや失言。取り繕うにしても、もっと言いようがあった。しかし、魔人は怒るどころか、大笑いした。
「料理や掃除だと? くくく……覇気のない奴め。料理や掃除が得意な騎士など聞いたこともない」
サチは腹を抱えて笑う魔人の様子を無にただ眺めた。こういうことを馬鹿にされるのは慣れている。不思議なのは魔人が人間と同じ反応をするところだ。もしかして、この魔人は昔、人間だったのでは?……と思った。
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