《ドーナツから蟲食いを通って魔人はやってくる》44話 とある患者の話①(サチ視點)

満足いく醫療の提供というのは、必要なや薬があって初めて可能となる。の消毒が不完全だと診療所が染蔓延の溫床となってしまうし、抗生剤は傷の手當てには不可欠だ。人間は細菌に弱い。いくら傷口を合して、輸したところで細菌の増を抑えなければ、死んでしまう。

だが、慌ただしくを消毒するサチにはそんな道理を考える余裕はなかった。ただ、仕事を正確に早く片付けるだけだ。ここには一分一秒を爭う患者が訪ねてくる。

真っ白な外に看護帽を被った一糸れぬ裝いの看護士たち。彼らに混じり、サチは激務に溺れた。

消毒の匂いが満ちる病室には埃一つ落ちていない。よく磨かれた床はカツカツと乾いた音を立てる。本棚やカルテはきちんと整理されているし、類も整然と並べられている。診察臺のシーツも清潔。ただ、年季のった待合室のソファーは黃ばんでいる。

掃除夫まで雇って綺麗にしていた。こういう所にも金がかかっている。メグは安定した醫療の提供において妥協しなかった。生活しているザカリヤの家とは天と地の差がある。今ではサチが掃除をしているからまともになったとはいえ、以前はひどかった。この綺麗な診療所の主があんなにも汚らしい家で生活していたとは、誰も思わないだろう。

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ベッドはいつも満杯。足りないときは併設する宿屋へ行ってもらうこともある。重傷患者が來た時は大変だ。軽傷者の手當てはサチたち看護士がやるし、患者が付に立つ時まである。野戦病院の様相を呈することも珍しくない。

その日は肩に裂傷を負ったが運び込まれ、診療所はバタバタしていた。他の看護士たちの手が埋まっていたため、サチは院患者の介助へ向かった。これは食事、排泄などの手伝い。必要あれば點滴もする。隣接する宿屋から食事の提供、配膳はしてもらえるが、家族がおらず、一人で食べるのが困難な患者は助けが必要だ。

院患者は十五人。サチは一人一人、丁寧に対応した。患者以外の排泄を手伝い、傷口のガーゼを替え、を拭いてやり……大変でも苦痛ではなかった。彼らは皆謝してくれるし、快方へ向かっている。

ただし一人だけ、厄介な患者がいた。

右手をトロールに砕された哀れな衛兵、スヴェン。角刈りのいかにも兵士といった風貌の男である。年齢はサチと同じくらいか。王國の衛兵らしく髭はばしていない。とはいえ、右手が使えない狀態なので、まばらに無髭が生えていた。

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彼が院したのは、に切り傷を負っていたからだ。トロールの鋭い爪が甲冑を切り裂いた。國境警備中のスヴェンの部隊はほぼ全滅した。スヴェンは気絶後に意識を取り戻し、自力でこの診療所に來たのである。

たどり著いたと同時に力盡きたスヴェンは瀕死の狀態であった。の三割は失われ輸。息を吹き返したのは三日後だ。

それから二週間、スヴェンは院している。來た時は重癥患者でも、今は充分元気だ。もともと、の傷は淺い。出しながら、長距離を移したのが祟っただけなのだ。もう染癥の心配もないし、通院でも構わないぐらいだった。問題は砕された右手首から先。これはメグの知り合いの義肢裝士を紹介するのだが……

部屋にるなり、サチは罵聲を浴びせられた。

「おい、クソガキ! 何をしている! 早く包帯を替えろ! 尿瓶が一杯になってるじゃないか!」

クソガキと呼びつけられるのは、見た目のせいだとサチはわかっている。スヴェンからすると、まだ子供に見えるのだろう。スヴェンの暴言はこの程度でとどまらない。サチはこれから襲ってくる憤怒を予想して、心を無にした。

この男の辭書に“謝”という言葉はない。サチは無言で包帯を替え、尿瓶を替える。用だけ済んだら、さっさと出て行くつもりだった。

……が、呼び止められた。

「クソガキ、まだ仕事は終わってねぇぞ? 飯を食わせろ!」

スヴェンはベッド脇のテーブルを顎でしゃくった。宿屋の下男の運んだ食事が置かれている。

「てめぇがさっさと來ねぇから冷めちまったじゃねぇか? 早く食べさせろ」

スヴェンは使えない右手を見せつけるように、振りかざす。サチは大きな溜め息を吐いた。

「スヴェンさん、あんたには左手があるだろう?」

「はん? 見てわかんねぇか? オレは右利きなんだよ。左手じゃ食べれねぇ」

「今後、あんたはずっと左手しか使えない。ずっと、誰かに食べさせてもらうつもりか?」

この一言でスヴェンは靜かになった。このスヴェンという男は常に暴言を吐くし、もう退院してもいいぐらいなのにベッドを占領するろくでなしである。

しかし、手を失ったという事実を突きつけるのは々可哀想でもあった。サチも先日まで手足を失って、絶していたのだ。みるみるうちにしょげ返って目に涙まで浮かべるもんだから、サチは可哀想になってしまった。

「今日だけだからな?」

そう言って、サチは椅子に腰掛けた。本當はこんなことをしているほど、暇ではないのだが。すっかり、おとなしくなったスヴェンの口に食事を運んでやった。

「クソガキ。おまえ、なんだって亜人なんかの所で働いてるんだ?」

「余計なお世話だ。それに俺も亜人だからな?」

「人間に化けてるのか?」

「いや、に変異がまだ現れていないだけだ。能力や五は人間とちがう」

「それはまあ、たいそうなこったな。そのうち、角やら尾やら生えてくるんだろう。ご愁傷様」

「俺は生えてきたって気にしないさ。このままずっと魔國で暮らすつもりだしな」

言ってしまってから、サチはドキリとして口をつぐんだ。ザカリヤの所にこのまま居続けるかは置いといて、國へ戻らないとはっきり意思表明してしまったのである。

心の奧で思っていても、実際口に出してしまうと重荷となる。もう永遠に戻れないのかと、寂寞が襲ってくる。

「ゴチャゴチャ言ってないで、さっさと食え」

サチはスヴェンを叱ることで、ごまかした。

それから、なぜかスヴェンはサチを指名してくるようになった。サチ以外には、決してれさせようとしないのだ。サチからしたらいい迷だった。口が悪くて傲慢なのは相変わらずだし、通院で充分対応可能なのに居座り続ける。

ある時、サチが退院を促したところ、左手に付けていた指を投げつけられた。

「これで、當分の院費になるだろ! さっさと持って行きやがれ! 亜人のドブネズミが!」

サチはキレそうになるのを必死にこらえて、指を脇機に置いた。早く出て行ってほしいのは、金の問題よりベッドの問題のほうが大きい。

「どーせ、行く所がないんだろ? だから、ズルズル居座り続けようとするんだよ」

サチの言葉に対し、スヴェンは拳を振り上げた……上げようとした。しかし、包帯でグルグル巻きにされた手首の先には何もない。それに気づいたスヴェンは腕を下げ、を噛んだ。

行く所がないのはサチもスヴェンと同じだ。その気持ちは痛いほどよくわかっている。だから、サチは言ったことを後悔した。

「ごめん、言い過ぎた」

「チッ……謝るんじゃねぇよ。テメェみてぇな亜人野郎に哀れまれるほど、落ちぶれちゃいねぇ」

「ああ、そうですかい。じゃあ、同しないから出ていけよ。あんたがベッドを占領しているせいで他の患者が迷してるんだ。まだ、ちゃんと歩けないのに退院せざるを得ない人もいる」

「ふん。どうせ、金も払えねぇ貧乏人だろ。そういう奴らが先に出て行きゃあいいんだ」

「そう、金のためにやってるんじゃないよ。だから、あんたみたいな人間以下も患者としてれてる。あんまり、言が目に余るようだったら、先生がなんと言おうが叩き出すからな?」

売り言葉に買い言葉。サチの格上、しようがない。相手が黙るまで言い返し、顔を見たくないから背を向けた。

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