《ドーナツから蟲食いを通って魔人はやってくる》45話 とある患者の話②(サチ視點)
背後に付きまとういやーなじ。どんなに忙しくても、一度ひっ付くと拭えないものだ。暗いとなって、どこまでも追い掛けてくる。それはささやかな休憩時間まで邪魔した。
小便を済ませたサチはホゥと息を吐いて、この嫌なじの元兇を斷とうと思った。午前中にスヴェンとやり合ってからずっと続いていたのである。
──どうして、あのクズ人間のせいで嫌な思いをしないといけないんだ?
本當にさっさと退院してほしい。だが、悔しそうなスヴェンの顔を思い出すと、変にが苦しくなってしまう。自分ではどうにもならないもどかしさ、絶。空虛。誰にも必要とされていない寂寞。を渇する慘めさ……拳を振り上げようとしてできなかった時のあの顔だ。
このじは既験しているぞ、とサチは気づいた。イアンだ。いつもトラブルばかり起こすあいつ。傲慢で偉そうな態度にキレても、なぜだか放っておけない。同して世話を焼いてしまう。スヴェンはあのしょうもないおバカさんに似ているところがある。
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サチの足は自然と病室へ向かっていた。まだ夕飯には早い。忙しい最中、向かうのは気になって仕様がなかったからだ。ちょっと様子を見るだけのつもりだった。
スヴェンの病室は廊下の突き當たりにある。廊下に出るなりサチは走った。の匂いがしたのだ。嫌な予的中。
「スヴェン!?」
サチはび、ドアを開け放った。
ベッドには、首からを流して倒れているスヴェンが!
サチは考えずにいた。思考は置き去りにされる。まず駆け寄り、息があることを確認した。頸脈には達していない。左手しか使えなかったのが幸いして、切りつけが淺かったのだ。だが、出は激しい。無我夢中でサチは止し、脇機にあった陶の破片を手に取った。
以前、癇癪を起こして皿を割った時の破片をスヴェンは隠し持っていたのだろう。それで、自らの首を傷つけた。
「バカ……どうして死のうだなんて……」
サチはの付いた破片を握り締める。手のひらから滴り落ちるをスヴェンの口に落とした。
どうしてそんなことをしたのか、サチは自分でもわからなかった。死にたいなら死なせてやればいいじゃないかと、心の中で呟く聲が聞こえる。
ただ、目の前に死にかけた人間がいて、放置することができなかったのだ。
サチのを飲んだスヴェンの呼吸と心拍は安定した。意識を取り戻した時の第一聲が、
「なんで助けた? この偽善者め!」
そうだ、好きなだけ罵ればいい。俺は腐った偽善者にちがいないのだから──サチはスヴェンの罵倒にを任せた。やがて、スヴェンが力盡きてふたたび眠りに落ちるまで。
食事を運びに來た下男にサチは伝言を頼んだ。この場を離れられないと先生(メグ)に伝えてくれと。
その晩、サチはスヴェンの病室に泊まった。
荒れていたスヴェンの神狀態は、夜になるとし落ち著いた。通常ならこういう場合、拘束するのだろう。ただでさえ、人手の足りない診療所だ。一人にかかりきりだなんてお人好しもいいとこだ。しかも、こんな迷患者のために。
「よかったな、人の命を助けたヒーローになれて」
こんなイヤミを言う男の隣で、サチは椅子を重ねただけの簡易ベッドに橫たわる。なぜ、こんな男を助けたのかはわからない。しかし、不思議と後悔はしてなかった。
「クソッ……ベッドが占領されて困っていたんだろ? せっかく、いなくなってやろうとしたのによ」
「それはもう聞き飽きた」
「クソガキ、おめぇは自分がいい格好したいだけの偽善者だ。だから、オレを助けたんだよ。オレのためじゃなくて、自分のために」
「そうだな。あんたのためじゃない。自分のためだ」
「後悔させてやろうか? オレはヘリオーティスだ。おまえら亜人の敵、ヘリオーティスだよぉ」
「知っていたよ」
著替えを手伝う時、スヴェンの持ちからヘリオーティスのブローチが出てきたから知っている。五芒星の上に太が描かれた……
「じゃ、なんで助けた?」
「それも聞き飽きた」
「オレは亜人野郎を何人も引っ捕らえて、支部へ連れて行った。ガキもも容赦なくだ。そこで何が行われてるか、知ってるか? 亜人野郎は豚みてぇに殺されんだよ。オレはわかっていてやったんだ」
「ゲスいな。俺のなかでもベストテンにるほどのゲスさだ」
「フン。おまえら亜人は死ぬべきだぜ。生きてるだけで空気が汚れる。おまえら、異形がいるから戦爭が絶えねぇんだよ。おまえらは人間じゃねえ、ケダモノだからな」
「あんたの思い込みにわざわざ反論する気もないよ」
「オレの両親は亜人野郎に殺された。オレが十の時さ。オレの妹は亜人野郎にレイプされて気が狂った。妹が自殺したのはオレの二十歳の誕生日だよ。その日からオレは亜人野郎をこの世から抹殺してやろうと思った」
サチはなにも返せなかった。言葉が思い浮かんでも、空虛に吸い込まれる。癒えない傷を負った者に投げる言葉はない。
「どうだ、返す言葉もねぇだろ? オレは自分のやったことを後悔しないし、それが正義だと思ってる」
サチはユゼフの暗い顔を思い出した。妻モーヴを失ったユゼフはヘリオーティスに復讐した。怪人ハウンドとして殺戮を繰り返していたのである。
──ユゼフを責めて、殺戮をやめさせたのは酷だったろうな
大切な者を奪われた痛みを他害することで一時的に癒していたのだろう。ユゼフも、スヴェンも。
スヴェンの獨白はまだ続いた。
「親戚に引き取られたオレは剣技と馬を磨いたよ。國のために働きたい。悪い奴を倒して、皆が安心して生活できる世の中にしたい、そう思ってな。でも、右手がこうなっちゃ、もう剣は握れねぇ。二度と戦えねぇんだよ! 剣と縁のないおめぇにはわからねぇだろうが。遊詩人が聲を失う。時計職人が目を失う。文筆家が言葉を失うのと同じなんだよ! 生きるを失った今のオレにはなんの価値もねぇ。婚約者がいたけど、これじゃ結婚もできねぇだろう。だから、その指ももういらねぇんだ」
サチに投げつけた指はペアリングだったのだろうか。脇機の上、起きっぱなしになっている。指の中央には大きく一字彫られていた。
スヴェンのやるせない気持ちはサチ自と重なる。サチは共し過ぎないようにした。今のスヴェンに“こうしたら?”とか、“甘えるな”とかいう言葉は句だ。そんな無意味な言葉は屆かないどころか、憎悪を募らせる。
「だから、止めるな。オレには死ぬ権利がある!」
「じゃあ、言わせてもらおう。俺にもそれを止める権利がある」
これには言い返した。もともと死ぬ権利など、人間には與えられてないのだ。生殺與奪は神の領域。なくともサチはそう思っている。
「スヴェン、自殺を認めさせたいなら、どうして自分がヘリオーティスだと明かした? 憎いからと言って、俺があんたのことを殺すと思うのか?」
「ヘリオーティスは亜人の敵だろ? ヘリオーティスの敵が亜人のようにな? 憎い敵に死んでほしいと思うのは當然のことじゃねぇか?」
「バカだな、あんたは。殺すことは報復にならない。生きるほうが、よっぽどつらかったりするんだ。今のあんたがそうじゃないか。俺は亜人を差別し、死に追いやったあんたが大嫌いだよ。だから、死にたがっているあんたを絶対に死なせやしない」
いつもの“ああ言えば、こう言う”が発したわけではなかった。言ったことは全部サチの本心だ。しかし、スヴェンの人生がすべて自業自得で片づけられないこともわかっている。同……もちがう。やはり、共……が近いかもしれない。
スヴェンは「クソが」とつぶやき、あとは何も言わなくなった。
「スヴェン、俺は母親を人間に殺されたよ。俺の母親は人間、父親は亜人だ。亜人の友達は最の人をヘリオーティスに殺された。あんたみたいに復讐していたから俺は友達を止めたんだ。あんたは友達じゃないから止めたりしない。好きにすればいいさ。ただし、敵として出會った時に容赦はしないぞ。俺にとっては人間も亜人も同じ。どっちもどっちだ」
聞いているのか、いないのか。スヴェンはサチに背を向けた。
「ああ、あと、帰る場所がないのは俺もあんたと一緒だよ」
眠りに落ちるまえ、放った一言。サチが言ったあと、スヴェンの肩がわずかに揺れた。
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