《ドーナツから蟲食いを通って魔人はやってくる》59話 ザカリヤの怒り(サチ視點)

國境を抜け魔國へ戻り、無言で歩き続ける。澄んだ空気の雪深い森から、瘴気に覆われた荒れ地へ出てホッとするのはサチが魔人だからかもしれない。

ザカリヤが先を歩き、サチはし離れて追いかけた。近づけないのは恐ろしいほどの“怒”をザカリヤが放っていたからである。魔人の場合、怒気が瘴気という形で現化される。ザカリヤは全からシューシュー、瘴気を立ち上らせているのであった。その黒い猛毒は甲冑の隙間という隙間から吹き出し、鋼のプレートを溶かす勢いだった。

サチは激しく後悔していた。サチの提案は危険なうえに未過ぎた。最初に依頼されたとおり蟲食いを見つけ、アフラムを殺して奴隷を逃がすだけでよかったのだ。仕事として殺人するという行為が倫理に反したため、余計な提案をしてしまった。

どうせ、死んだほうがいい奴隷商人ではないか。無垢な人々、子供をさらい、奴隷として売る下劣な守銭奴。哀れな奴隷たちを逃がさなくては……

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ピタリ。前を歩く背中が止まった。ザカリヤは兜をぎ、地面にかなぐり捨てた。それを踏みつけ、荒々しく毒づく。

サチは地下で飼われていた時にじたのと同じ恐怖を抱いた。ザカリヤからは人智を超えた圧倒的な力をじる。初対面時に抱いた畏怖は正しいだったのである。ザカリヤは人間の時そうだったように、魔人のなかでもエリートなのだろう。罠を張られていたとはいえ、サチたちがまったく太刀打ちできなかったクロチャンを配下に置いているのだから。

ザカリヤが踏みつけた兜は々に砕け散り、地面にまでが空いた。ヒビはザカリヤがドシン、ドシン、踏みつけるたびに広がっていく。地面はサチのいる所まで陥沒した。その迫力は蓬萊山で見たオーガの比ではなかった。

怒りの元兇であるアッヘンベルが何をしたのかは、だいたい見當がつく。

母クラウディアを陥れる策略に加擔したのだろう。僕(しもべ)たちや母に酷いことをしたのかもしれない。エドとランドルを逃がした仲間を死に追いやったのもあいつか。端(はな)から卑怯な手でグラニエを負かそうとする奴だ。のためになんだってする。

その憎き男がかつてのザカリヤの地位──騎士団長になっていた。そして、ひざまずいているところを馬上から見下ろされたのだ。ザカリヤにとっては屈辱的だっただろう。恐怖よりなにより、英雄だった父に慘めな思いをさせてしまったことがサチはつらかった。

兜が影も形もなくなると、ザカリヤは鎧をぎ始めた。ぐと言うより剝ぐといったほうが正しいかもしれない。格好だけ著付けたから下にチェーンメイルは著ておらず、破れた下著姿になった。

通常、魔人姿のザカリヤは前開きのローブを素にまとい、ブレイズ(引)を履いているだけである。ほぼ半なのだが、今もそれに近い狀態となった。

ザカリヤはいだ鎧をまた踏みつける。ありったけの憎悪を金屑にぶつけ続けた。ザカリヤにとって、甲冑は人間社會の象徴なのかもしれなかった。

荒れ狂う父を前にサチは為すを持たず、うしろに下がった。見ているのも苦しいし、こちらまでけない気持ちになってくる。こんな父の姿は見たくなかった。

零落して、のまま自墮落に生きる。に生かされているだけのヘラヘラしたダメ男のままでよかったのだ。無駄に英雄だったころのことを思い出させてしまったから……

やるせない気持ちはへと向かう。サチは自分を責めた。

エルフたちを開放するのは俺一人でやろう──そう思い、サチは場を離れた。

気配を消し、風となる。破壊するがなくなるまでザカリヤは気づかないだろう。今のうちだ。気づいたら怒るだろうか? 怒りがサチへ向いたら? それもいいかもしれないとサチは思った。サチのせいで嫌な思いをさせてしまった。直接、怒りをぶつけてくれたほうが気は楽だ。

高速で魔國の汚れた空気の中を突っ切る。國境まで駆ければあっという間だ。乾ききった砂が舞うのは一瞬。トカゲや鼠のように素早く自然と同化し、サチは走り抜けることができた。ザカリヤが破壊した石垣を過ぎ、ローズと同じ香りのする森の中へと──

アッヘンベルは元居た場所にいなかった。アフラムはもう捕らえたのか、依頼主と合流はしたのか……不安は殘るものの、サチは取り決めてあった手順通りくことにした。

エルフの奴隷たちはアフラムの輸の証となる。依頼主グレンゼ卿の訴えが屆けられるまで、百日城に留め置かれるはずだ。結局は金で解決することになるだろうが。サチは百日城に忍び込み、エルフたちを開放するつもりだった。

あれだけ酷い目にあって逃げてきたというのに、正気の沙汰ではないと自分でも思う。拷問により廃人狀態になったことをザカリヤが知っていたら、絶対に反対しただろう。しかし、サチには不思議と恐怖心がないのだった。自分に危害を加えない父のことは恐怖し、待の記憶を封じた塗られた城には恐怖しない。むしろ、懐かしさや親しみすら覚える。妙な話だ。

──俺はあの城に誰よりも詳しいんだ。罪人がどこに囚えられるか、隠し通路、隠し扉、隠し部屋……気づかれないようにり込み、出て行くことだってできる。

二ヶ月の生活で勝ち得た戦績だ。城の部に通じているという自負がある。せっかくの滲むような努力で得たのだから、使える知識を使わなければもったいないではないか。それにあれは前世でサウル、サチ自が建てた城。もともとはサチのだ。尖った塔は取り壊すにしても、いつか絶対に取り返してやりたいと思っている。

下水道から城り込む。夜なら流れる下水の量もない。足場はあったりなかったり、なんならサチは壁だって歩ける。足を汚さずに行ける自信があった。顔を見られたら? 今は金髪碧眼だ。屋は薄暗いし、気づかれないだろう。

城下町は夜。トーチやランタン、蝋燭の火に彩られる。町は靜か……と思いきや、さすが大都市ということもあって、所々賑やかな音がする。盛り場は稼ぎ時だ。

綺麗に敷かれた石畳やメインストリートに據えられたガス燈は主國の城下町と同じ。建も煉瓦や石造りの上に漆喰が塗られている。デザインも似たり寄ったり。グリンデルの文化は主國とほとんど変わらなかった。主國に戻ったのかと錯覚してしまうぐらいだ。

城から一歩も出られなかったため、城下町をサチが歩くのは初めてだった。グリンデルに來た初日に馬車の中からチラッと見ただけ──いや……

サチは馬車から飛び降りたのだった。“クラウディア”と母の名をんだ年が衛兵に殺されるところだったのである。衛兵に刃を突きつけ、年を逃がしたのはいいが、あの時グラニエはカンカンだった。初日からトラブルを起こすなと。

──ジャンは生きているだろうか。

そばにいると口うるさくて、うっとうしいこともあった。嗜みから立ち居振る舞い、言との接し方……何から何まで指導される。うるさいうるさい、干渉するなと言いつつ、いないと半を奪われたみたいになってしまう。いつでもそばにいるのが當たり前で必ず守ってくれる。大切なしもべ。

──今の俺は一人ぼっちになってしまった

お目當てのマンホールは路地裏にあった。酒場の隣だから、ひとけはない。誰かが小便をしに來るぐらいだろう。

マンホールの鉄蓋と地面の隙間にチンクエディアを差し込む。見るからに派手な寶剣をマンホールの蓋開けに使うという。ささやかな罪悪。てこの原理で蓋は容易く開けられた。

サチは備え付けられた梯子に足をばした。蓋を閉めるのも忘れずに。こういう場合、暗闇でも失われない視力は助かる。闇は友達だ。真っ暗闇のなか、サチは軽快に梯子を降りた。

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