《ドーナツから蟲食いを通って魔人はやってくる》61話 己の無力さに絶する(サチ視點)
サチは膝をつき、へたり込んでしまった。
椅子に座るナスターシャ王は口元を扇で隠し、笑っていた。冷たい碧眼を見ればわかる。あれは悪魔の高笑いだ。
完全なる敗北。絶──
サチは目の奧がカッと熱くなるのをじた。歯をギリギリ食いしばり、握る拳を目一杯小さくする。ここで涙を流したら、それは死んでいったエルフたちのためではない。みじめで、かわいそうな自分のために流す涙だ。
──絶対に許さない
サチは、揺れるマントの下で待機するチンクエディアに手をばした。
敵は油斷している。反吐が出る解ショーを挾んだ向こう、ほんの數十キュビット先にナスターシャ王はいる。人間の視覚では捉えられない速度で走り寄り、襲いかかるのは可能だ。近くにいる護衛は間に合わないだろう。
憎い仇を討ち取れるなら、サチは死んでもいいと思った。決意を固めれば、に力が戻ってくる。これですべて終わりにする。呪われたも、汚れたも、憎悪の連鎖も……母の嘆きも……
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サチは立ち上がった。腱に力をれたら、あとは地面を弾くだけだ。心は決まった。失うは何もない。さあ──
サチが地面を蹴ることはできなかった。
衛兵に腕をがっちりとつかまれたのである。高長の格の良い衛兵だ。堅い黒檀が背中に一本っているような、よく訓練された軍人と思われる。サチが人込みの最前列に出た時から見張っていたのかもしれない。
衛兵は面頬に隠れた顔を向ける。無な鉄仮面にサチはゾッとした。たぎっていたがすぅっと引いていく。
「來るんだ」と、凄みのきいた低い聲で衛兵は言った。サチが腕を振り解こうとしても、ビクともしない。
「放せ! 俺は行くんだよ。もう放っておいてくれ!」
サチの訴えは聞き屆けられなかった。衛兵──に扮したザカリヤは、サチを人込みの中へ引きずりこんだ。そのまま人の波をい、抜け出す。城門を抜け、城下町の見える丘までサチは連れて行かれた。
人というのは集まりたがる。一ヶ所に集中している時、他は閑散とするものだ。城門を出てしばらく行くと、誰もいなくなった。
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ほんの數ヶ月前まで花が咲きれていた丘は、真っ白な雪に覆われていた。英雄の花、百日草はまだ雪の下で眠っている。ザカリヤは汚れ知らずの白い絨毯の上、サチを引きずった。
「放せったら! もう、おまえには関係ないじゃないか! に囲まれて、楽しく遊び暮らしていればいいんだよ、放っておけ!」
サチはめちゃくちゃに暴れたが、ザカリヤはじず。一度、立ち止まり、解放したかと思ったらサチを毆り倒した。そして倒れたところ、足を引っつかみ、ふたたび引きずる。
口や鼻に雪がり、呼吸困難を起こしてもサチは暴れた。雪がマントの中へ、服の隙間にもり、じかにを濡らしても……痛みや溫度もサチは何もじないのだった。
ザカリヤはその間、一言も発さず、延々とサチを引きずり続けた。決まりきったきをするオートマトンと同じ。ただ黙々と作業する。
雪の上に長い跡がつき、城の全貌が確認できるようになって、ようやくザカリヤはサチを解放した。丘の上で突然手を離されれば、転がり落ちる。サチはらかい雪の上を巖に當たるまでゴロゴロ転がり続けた。意図せず、うめき聲をあげてしまうのは恥だ。
そして、自を支えるものがなくなったとたん、不安になる。これは本能。自由は捨てられたことと同義だ。甘えていたことに気づかされる。サチはすぐには起き上がらず、雪を握り締めた。指先の覚はとうに麻痺しており、冷たさをじない。
ほどなくして、ガチャガチャ上のほうから音がし、重いが降ってきた。甲冑だ。思わぬ衝撃にサチは息を止めた。ザカリヤは甲冑をぎ、サチの上に投げ捨てているのだった。痛いし、重い。
痛みの回復とともに、これまで忘れていた健全ながサチのなかでムクムク湧き起こってきた。絶に飲まれていた“怒り”が蘇ったのである。
さっきまでのサチは別のものにかされていた。諸悪の源であるナスターシャ王を殺そうと、明確な殺意だけでいていたのだ。怒りから生まれた殺意。それとも呪縛か。それが何にせよ、不健全なものなのは明らかだろう。全の覚もも失われていたのだから。
怒鳴ろうとしても聲は出なかった。が思い通りにかない。まだはサチ以外のなにかのものだ。もがいているうちにサチは抱きかかえられた。
フワリ。足が地面を離れる。サチはザカリヤに抱えられ、上空へ飛び上がった。
急激な上昇は循環系を圧迫する。サチはが苦しくなった。冷気にやられ、目から雫がこぼれる。
視界にる闇がパッパッと変わっていき、サチは人間の燈りから遠ざかった。足元に広がるのは濃灰の雲。頭の上には澄んだ闇が広がっている。ザカリヤは無言で夜の空を飛んだ。
雲の上に上がれば、きらびやかな星空に見下ろされる。しさはサチのをえぐった。ここが星空の下でなければ、かつてのスヴェンと同じく、恨み言をブツブツ言っていたかもしれない。だが、脳に浮かび上がった無意味な言葉は霧散した。
サチが口を開いたのは、足元の雲の層が相當厚くなってからだ。安全な魔國に著いてからだった。
「ザカリヤ、俺はなんの価値もない愚か者だ。その手を離して、捨ててくれて構わない」
ザカリヤは答えなかった。サチは逞しい腕と堅い筋に守られ、空を飛んでいる狀態である。そのおかげで、寒空の上でもなんとか耐えられるのだが、非常に居心地が悪かった。例えるなら、今のサチは親鳥に守られ、空を飛ぶ弱々しい雛鳥……
「最初からあんたの言うとおり、アフラムを殺していればよかった。俺が余計なことをしたせいで、エルフたちは……」
途中、詰まっても自的な言葉は溢れてきた。
「俺は自分を曲げたくなかった。その結果がこれ。奴隷商人のゲス野郎の代わりに、三十人のエルフが死んだ。俺が正義を振りかざすと、いつも事が悪いほうへく。ジャンにもさんざん迷をかけて……ジャンは俺の家來だ。大切なしもべ……ザカリヤ、あんたがクロチャンをけしかけたせいで、離れ離れになってしまった。ジャンは死んだかもしれない。イアンやイザベラ、エドも。エドは俺の兄だよ。一緒に百日城から逃げてきたんだ。エドはたった一人の家族。エドもジャンもずっと俺を守ってくれた。ザカリヤ、あんたは俺からそれを奪ったんだ」
サチは初めてザカリヤに本心をぶちまけた。責めたところで、どうにもならないことぐらいわかっている。だが、気持ちはいくらか軽くなった。的なサチに対し、ザカリヤの返答はあっさりしていた。
「まず、三十人全員は殺されていない。エルフたちは半分に分けられ、収容されていた。半分は俺が逃がした。今頃は下水道を歩いている。夜の間に地上へ出て、こっそり主國の森へ逃げられるだろう」
それを聞いて、サチは安堵するどころか自己嫌悪に陥った。自分のせいで三十人の半分──十五人のエルフたちの命を奪ったのに、同じ數のエルフを救ったザカリヤを責めていたのだ。ザカリヤは淡々と続けた。
「おまえとおまえの仲間を襲った件については弁解をするつもりもないし、謝る気もない。俺たちのいる世界は命=金だ。弱い奴は命を金に変えられる。それだけの話だ。それと、殺されたエルフたちのことでおまえが気に病む必要はねぇよ? 全責任は俺にある。俺はおまえの思うとおりのクズだし、今言ったように全部俺のせいにすればよい」
こんなふうに言われて責任転嫁できるほど、サチはお気楽にできていなかった。ザカリヤはサチのために平然と咎(とが)を背負おうとしている。現在、自由を奪われていると同じく倫理で雁字搦めにされ、サチは反論しようにもできないのであった。
寒さのせいか、極度の張から解放されたせいか。不本意ながら、サチはザカリヤの腕の中でウトウトし始めた。それこそ本當に雛鳥だ。
サチは眠るまいと重い舌をかした。問うのは、ずっと聞けなかったことだ。
「あんたがクラウディア様に會おうとして、ナスターシャ王に見つかった。それで、口封じに彼を犯したのだと聞いた。本當にそんなことをしたのか?」
なぜこんなことを聞いたのかというと、當初サチは強されたナスターシャ王とザカリヤの子だと言われていたからである。真実はクラウディアの赤ん坊を死産と偽り、ナスターシャが奪ったのだが。
ザカリヤは問いに答えなかった。サチを抱える腕はピクリともかない。それが答えだった。聞くまでもなかった。
「俺が王妃となったクラウディア様にお會いしたのは一度きりだ」
夢見心地のなか、聞こえてきたザカリヤの聲は妙に落ち著いていた。サチを捕まえた時のドスの利いたバスではなく、らかなテノール。いつものザカリヤの聲だ。
「サチ、俺は今までおまえと同じ絶を何度も何度も味わってきた。大切な人すら守れなかったのだよ。正しいは罪。清らかであろうとすれば、周りを苦しめる……」
ザカリヤがサチをまともな名前で呼んだのは初めてだ。“サチ” と。
「だからなサチ、俺はおまえに罰を與える。しばらく家の外へは出るな。家事もしなくていい。診療所にも、タイガの所へも顔を出すな。一人、部屋に閉じこもって何もするな。でも、泣き言を言うくらいなら許そう。聞いてやるよ」
最後まで聞き終えると、サチは深い眠りに落ちた。
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