《お嬢さまと犬 契約婚のはじめかた》ひばりと律 Ⅱ (2)

律《りつ》に言ったことは噓ではなくて、大學は結構すきだ。

というか、ひばりは子どもの頃から學校がすきだった。

同世代の子がよく窮屈だという學び舎が、鹿名田《かなだ》の鳥籠で育ったひばりにはあまりに自由に思えたし、人心掌握に長けている自分が級友とうまくやれないことは一度もなかった。

適度に目立たず、同い年のの子たちのなかに自然と溶け込む。楽しかった。友人たちと最近できたケーキ屋さんの話をして、コスメとかイケメンの俳優とか、同級生の噂話とか、毒にも薬にもならないふわふわの砂糖菓子みたいなおしゃべりを楽しむ。ささやかな打算とマウントすら、クリームソーダみたいな爽やかな刺激。

「でね、ひばりちゃんも行かない? 合コン」

ひばりが通っているのは私立の子大だ。

いちおうお嬢様校というブランドがついているそこは、合コン需要もそこそこあるらしく、ときどきこの手のいをけることがある。

「うーん」とひばりはクリームがたくさん盛られたスムージーのストローをくるりと回す。學にあるカフェテリアには、同じ講義を取っている五人が集まっていた。

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「というか、わたしすきなひといるんだよね」

穏便に斷る理由を考えたすえ、婚約者がいるだと引かれそうだし、彼氏がいるだと詮索されそうだから、すきなひとがいるってことにしておいた。合コンくらい晩餐會のひとつだと思えばこなせるけど、婚約者がいるなのでおばあさまにばれると面倒くさい。

「えーっ!」

案の定、周りのの子たちは歓聲を上げて盛り上がる。

「だれだれ? わたしたちが知ってるひと?」

「ううん。馴染というか、子どもの頃からずっとすきだったから」

「わあ、どんなひと?」

「自分が正しいと思っていることをできるひと、かな」

空想の「すきなひと」をつくってもよかったのだけど、とっさに実在しない人間をつくれるほど想像力がないので、律の顔を脳裏に浮かべながら、子どもの頃からすきだったとか一部の報を捻じ曲げつつ答える。答えながら、自分はそんなことを律に対して思っていたのか、とすこし驚く。

確かに、律は自分が正しいと思っていることが、できるひとだ。周囲が正しいと言っていることではなく、自分が正しいと思うことを靜かにこなすひとだ。姉が壊れたあとも、律だけが鹿名田の屋敷までお見舞いに來てくれた。心配してくれた。つぐみだけじゃなくて、ひばりのことも。

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あのとき、鹿名田の娘としての価値が日に日になくなっていく姉に、ひばりがおびえていたあのとき。律だけがそうじゃないものを見て、そうじゃない差しで自分の行を決め、ひばりのとなりを歩いてくれた。いひばりにとって、それはどれほど心強いことだったろう。

「ひばりちゃん、そのひとのことすごくすきなんだねえ」

「……そう?」

思わず胡げな顔をすると、うんうんと友人はうなずいた。

「ことばにじるよー」

ねえ……」

「そのひとは? ひばりちゃんのことすきじゃないの?」

「すきじゃないと思うよ」

噓だー、と言う友人たちに苦笑しつつ、ストローに口をつけていると、カフェテリアにいた別のグループがにわかにめきたっているのにきづいた。

「ね、あのひと」

「すっごくイケメン……!」

「モデルさんかな?」

一點を指してちらちらと目配せを送っているの子たちの視線を何気なく追い、

「げっ」

普段の自分にあらざる素の聲が飛び出しかけた。

頭ひとつ飛び抜けた長に、黒よりもセピアに近い髪、抜けるような白い。十人が見たら九人がうつくしいという顔だ。なお、頑としてうつくしいと言わないひとりはひばりだ。いかにもファストファッションなグレーのパーカーにジーンズ、ブランドものじゃないスニーカー、機能以外に特筆すべき點がないボディバッグ。

――なんであの男がここに。

とっさに目をそらそうとしたが、相手がひばりに気づくほうが早かった。

「あれ、ひばりさん?」

(気やすく呼ぶな)

牽制するように睨んだが、葉《よう》はひばりが座る席に勝手に近づいてくる。

「ここ、ひばりさんの大學だったんだー!」

「……どうしてあなたがここにいるんですか」

できるだけ他人行儀に聞こえるように言った。カフェテリア中の子たちがかたずをのんで見守っていることにこの男はきづいているのだろうか。

「うちの學校のゼミ生がここで課外授業で、その付き添いを」

「あなたって、講師でもなんでもないですよね」

いやみを言ったのだが、葉にはとくに伝わったふうもなく、「そうなんだけど、講師のせんせーがゲジゲジに噛まれて失神しちゃって……」と冗談みたいなことをまじめに返された。

つまり代わりの引率で來たらしい。ちなみにすでに授業は終わり、現地解散で帰るところだそうだ。なら、早く帰れ。今すぐわたしの目のまえから消え失せろ。中で悪態をついてから、でもこの男が帰った先には姉がいるんだなと思ったら、むかむかしてきた。

「ひばりちゃん、もしかして……」

友人たちが向ける眼差しがやけに浮き立っていることにきづいて、ひばりは眉をひそめる。

「なに?」

「だから、ほら、さっき言ってた……!」

反応が鈍いひばりに焦れたふうに、友人はひばりの腕を引いて耳打ちする。

「年上の、ひばりちゃんがすきな……!」

皆まで聞かずに「絶対に、ちがう」とひばりは鋭い聲で遮った。いつものひばりにあらざる強い語気に、彼がちょっとびっくりした顔になる。

「このひとは、その……」

言いよどみ、それでも自分がずっと想っている相手と勘違いされるくらいならとしぶしぶ口をひらく。

「わたしの姉の結婚相手。そうだよね、『にいさま』?」

口にしたとたん、苦蟲をかみつぶすってこんな気分だろうと思った。

姉はずっと茨の塔のお姫さまみたいだった。

そびえ立つ壁に張りめぐらされた茨のせいで、誰もちかづけないのだ。

わたしのお姫さま。わたしだけの、茨のお姫さま。

わたしは突然現れて、いともたやすく姉をさらっていったこの男がだいきらいだ。

「それ飲んだら、とっとと帰ってくださいね」

したスムージーを葉に押しつける。

周囲が無駄に気を利かせたせいで、「にいさま」とふたりでお茶をすることになってしまったのは完全に計算外だった。といって無下に追い払うこともできない。何しろ、この男を姉の結婚相手だと紹介したのはひばりだ。

會話に聞き耳を立てられるのがいやだったので、カフェテリアを出て、すこし離れた木にあるベンチに座った。テイクアウトした二個目のスムージーにストローを挿す。葉はベンチの端にそわそわと腰掛けた。

「ええと、なんだか申し訳ないことに……」

「わかったら、外では二度とわたしに聲をかけないで」

「はい……」

しゅんとして葉はもらったスムージーを啜る。

どうしてこんな殘念な男に姉が執心しているのか、ひばりには理解しがたい。

顔だろうか。べつにわるくはないけど、律のほうがいいと思う。

不斷そうで、ばかそうで、つまらなそうな男。

いや、斷言しよう。ばかで、つまらない。ぜんぜん姉にふさわしくない。あなたなんて、拐事件がなかったら、姉の視界に一ミリだってらないような、そういう男なんだから。の程を知るといい。

とめどなく悪口が浮かんだけれど、さすがに口にはしなかった。それでも、ひばりの苛立ちだけは伝わっているのか、葉は居心地わるそうにめている。そういうびくびくした態度も姉に不釣り合いな気がして、ひばりの機嫌はますます悪くなる。

葉のことはだいきらいだけど、でもつぐみに対する過去の自分の仕打ちを思うと強くは言えなかった。おまえが言うな、と葉はたぶん言い返したりしないだろうけど、自分で思ってばつが悪くなるのがわかるから。

自分たちのすべてがくるってしまったあの事件から、もう十四年が経つ。

おばあさまに連れられて、病院から姉が暗い目をして帰ってきたとき、いひばりは姉のもとに駆けていって、「もう大丈夫だよ」と痩せてしまったつめたいを抱きしめた。だいすきな姉が戻ってきたことに安堵した。そして、この傷つき衰弱した姉を、今度はわたしが守るのだと使命すら覚えた。子どもながら、ヒロイックに酔っていたのだ。周囲から、これまで姉がしていた役割を求められることをつらいとは思わなかったし、むしろ進んで引きけすらした。

姉を守るのはわたし。わたしだから。

でもつぐみは、何年経っても、決してもとのつぐみに戻ることはなかった。

屋敷の最奧に移された部屋で、日がなぼんやりと窓の外を眺め、ひばりをはじめとする家族の呼びかけにもほとんどこたえない。それはまるで、茨の塔のお姫さまだった。棘だらけの茨で覆われた塔には誰もちかづけず、姉はひきこもった塔のなかから、誰かを待っているのだ。

そして、それはひばりではない。

『――ねえさま、調子はどう? ねえ、ひばりと外に行こうよ』

毎朝、毎夕、姉に聲をかけては無視される。

否、無視というほどの明確な意志はない。つぐみの眸はひらいてはいたが何も映してはおらず、ひばりの聲が聞こえているかどうかも怪しい。はじめは、いつかは姉もひばりの呼びかけにこたえてくれると期待していた。けれど、百日、千日と同じことを繰り返すうちに、ひばりの心はくじけ、緩慢な絶がよぎりだす。

姉はもう二度とひばりを目に映すことはないのではないか。

ひばりにわらいかけてくれた姉はどこにもいないのではないだろうか……。

それとも、ちがうのだろうか。姉はほんとうは、ひばりを恨んでいるのだろうか。おばあさまの言いつけを破り、おじさんからキャラメルをもらって拐のきっかけを作ったのはひばりだ。なかったことにして隠したひばりの罪。それを知っているから、姉はひばりからも心を閉ざしたのだろうか。考えると、たまらなくなる。

『ねえさま、ねえ、何か言って。このままだとねえさま、誰からも要らない子になっちゃうよ……!』

おばあさまたちが律とつぐみの婚約を解消して、ひばりとの婚約を新たに結ぼうとしていると知ったのは昨晩のことだ。

ひばりはショックをけた。自分が婚約することにじゃない。この數年で無いに等しくなった姉の鹿名田の娘としての価値に、決定的な烙印が押されることにおびえ、恐怖した。おばあさまと両親はもう姉を見限っている。わたしは、わたしはどうすればいい?

『ねえさまってば!』

一向に反応を返さない姉に焦れて、暴に両肩を揺する。つかんだ肩はあまりに薄く、痩せた雛鳥みたいだった。ふたつ年上の姉なのに、自分より軽い。

ひばりは急にこわくなった。小學五年生の姉が、小學三年生の自分より頼りなく、ちいさいのだ。

神さま、とはじめてひばりは天に祈った。

姉を返してほしかった。わたしの姉を。

こんな緻な人形みたいじゃない、わたしのしたわたしの姉を。

『ねえ、わたしを見て! ひばりを見てよう……っ!!』

姉の肩を揺さぶって、どんどんとこぶしでを叩く。馬乗りになってするそれは、もはや一方的な暴力に近かった。つぐみはされるがままになっていて、抵抗らしい抵抗をしない。

ひばりの息が切れた頃、姉の睫がふいにふるえた。

蒼白い頬に、ぽたり、ぽたり、と水滴が落ちる。

泣いているのは姉じゃなかった。

姉の眸に映った自分のほうだった。

『……あ』

鏡のようだった眸にさざ波が立ち、姉の指先がひばりの目元にびる。細い指があふれた涙をすくうまえに、手で振り払った。

『さわらないでっ!!』

ぴしゃりと鳴った音は、何かが斷絶する音みたいだった。

『ねえさまなんかきらい! だいきらい! ねえさまなんか、あのまま戻ってこなければよかったのに!!』

薄っぺらなを突き飛ばし、長椅子から下りた。

部屋を出て、長い廊下をひとりで走る。走る。

つきあたりで足を止めると、こらえていた涙がぶわりとこみ上げた。

目元に手をあて、せわしなく肩を上下させながら、でも、どこかで祈っていた。

……追いかけてきて。

おねがい。追いかけてきて。

昔みたいにまたわたしを抱きしめて。頭をでて。

それで、あいしていると言って。あいしていると。

(おねがい)

でも、待っても、待っても、つぐみは部屋を出て、ひばりを追いかけてきてはくれなかった。床にうずくまり、聲を殺してひばりは泣いた。ひとりで、長いこと泣いた。涙が枯れるくらい。

憎かった。姉の心を奪って、それなのにこんなになっても姉のまえには現れない誰かが。そんな誰かをあいし続けている姉が。ひばりがいるのに。ひばりがいるのに、姉はもうひばりを見てはくれないのだ。

あの日、ひばりは姉に捨てられるまえに一度姉を捨てたのだと思う。

「――ねえさま、元気ですか」

とくに會話もなかったので、適當に訊いた。

実際は一週間前に姉には會っている。アプリコットと紅茶のタルトをおいしそうに食べていた。元気そうだった。聞かなくても知っている。

「うん、元気だよー。あ、今朝ね、水たまりに落ちた芋蟲を葉っぱに戻してあげてた」

「ふーん」

よくもまあ、どうでもいい話をうれしそうにできるな、と呆れる。

きのう降った雨の名殘で、このあたりにもまだ水たまりが殘っていた。合わせ鏡のように青空と葉がそこに映っている。木れ日からしたひかりが足元に落ちて、水たまりのふちが輝く。

ふと前に姉がつぶやいていた言葉を思い出した。

――お日さまのにおいって葉くんのにおいに似ている。

お日さまはにおいなんかしない。

なのに、その言葉はなんてに満ちているのだろうと、聞いたとき、ひばりは泣きたくなった。

「ねえ、教えて」

「え、はい?」

「どうしたら、そんなに姉にしてもらえるの?」

葉はぽかんとしてひばりを振り返った。

「えっ、……? ええっ?」

あわてふためかれるのが面倒くさくて、ストローを吸った。

わたしはこの男がきらいだ。ほんとうに、きらいだ。

する姉を簡単にさらっていったから。まるで苦労もしていない顔で、姉のをひとりじめしているから。でもほんとうは……そうではなくてほんとうは……こんなふうに、自分もなりたかったから。

大事なひとの肩を暴に揺さぶるんじゃなくて、暴言を投げつけるんじゃなくて、ほんとうは手を握ってあげたかった。誰よりもやさしく握ってあげたかった。きらいだなんて言いたくなかった。戻ってきてくれてうれしいと、あなたが生きてここにいてくれることにこそ価値があるのだと、言って……言ってあげたかった。

だから、何を確かめるまでもなく、ひばりができなかったこと、してあげられなかったことを、息をするように拾い上げていったこのひとに、ひばりが勝てることはない。この先も。そして、それをひばりが公然と認めることもないのだ。きっとこの先も。

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