《ドーナツから蟲食いを通って魔人はやってくる》86話 する乙、強し(リゲル視點)
屋に上がり、リゲルはほうきにまたがった。白い太が目にしみる。今から行けば、夕飯どきには戻れるだろうか。
──クソッ……めんどくせぇなぁ。じゃが、思い通りにはさせぬからな?
ブツブツ心の中で呟き、屋を蹴った。風がヒンヤリ気持ちいいのは行きだけである。ローズマリーの月だから、日が落ちれば一気に冷え込む。本當は、落ちる直前の太を見ずに帰りたい。健気に輝く落は夜の國の赤い月に似ている。
──あん時、ディアナを夜の國に置いてきてしまえば、よかったなぁ
過去にいたディアナを迎えに行ってしまった。理由は単に噓をつきたくなかったから。約束を守るという呪縛に囚われていた。変なところでリゲルはまじめなのだ。敵に協力したのは、単純にユゼフとの関係悪化を狙ってのことだった。
子供を生ませれば、既事実になる。一回目の逢い引きの手伝いをしたのは、ユゼフに危険を知らせるため。二回目は詳しい事を聞かずに手伝ってしまった。
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──全部、無駄じゃったな。ちくしょう……戻る時に若返らせるんじゃなかった
しかし、十歳程度の差など許容範囲だろう。逆に老いさせることもできたが、その場合は騙したみたいで目覚めが悪い。
亡命後、ディアナとユゼフの距離はギュッとまった。ユゼフの妻モーヴの死に、ディアナが関與していなかったのも大きい。ディアナの婚約者のサチは魔國に永住しそうな勢いだし、障害はなにもなくなった。
敵同士とされる前世から、二人は惹かれ合っていたのかもしれない。リゲルのはチリチリ痛んだ。
──あと一回だけ、無駄な抵抗をする。本當にあと一回だけ……
濡れた頬に冷気があたる。もがいても、する男は手にらない。彼が自分の主である限り、あきらめて忘れることさえできないのだ。
よく晴れた晝下がり。遙か向こうまで、らかそうな羊雲が段々と連なっている。どこまで続くのか。不変であり、変化し続ける空は優しい。目一杯吸い込んで、リゲルの心はまっさらになった。気持ちがいい。
たかだか、王都から王城までだと高をくくっていた。高度を上げず低空飛行し、すっかり油斷していたのである。
なにか飛んできたと気づいた時には、逆さになっていた。薄い水の空がグルリ足下にくる。リゲルは落下した。
“なにか”はほうきの柄に當たった。リゲルに當たらなかったのは、直前でよけたからだろう。本能的な行だ。折れたほうきは力を失い、重力に逆らえなくなった。
雷に打たれた衝撃に近かったかもしれない。リゲルは一瞬気を失い、地面が近づく寸前で我に返った。風の魔法で衝撃を和らげられたのは、不幸中の幸いだ。リゲルはなんとか、臓をぶちまけずに済んだ。
──くっ……息ができん
けずにいると、上から聲が聞こえた。
「あらぁ? 魔さん、生きてるぅ?」
「あの高さから落ちてかぁ?」
「たぶん、浮揚魔法を使ったんでしょ? でも、間に合わなかったみたいだな?」
かすれ聲と間延びした男の聲。リゲルは顔を上げた。
「ごきげんよう! 魔さん、お手紙渡してくれるぅ?」
目の前に冷たい碧眼があった。ディアナと同じ顔、グレースだ。そのうしろでニヤニヤしてるのは眼帯エッカルト。ヘリオーティス。
「イヤじゃ」と言おうとしたとたん、のロープに締め付けられた。弱っているところの不意打ちで、リゲルは抵抗できない。グレースは嗜的な笑みを浮かべ、指先からの糸を出す。
「魔封じのをかけた。あたいのは天界から授かった力だから特別。強力な魔道も使ってるしね。魔さんほどの実力者でも、一人で逃れるのは無理だよぉ?」
グレースは下品な素のしゃべり方に戻っている。リゲルを捕らえられたのが嬉しいのだろう。
「ボウガンでエッカルトが狙い打ちしたんだよね。あんた、油斷して低い所、飛んでるからさ。あたいの力を注したから、矢は遠くまで飛ぶ」
「文は渡さぬ。おまえらこそ、ディアナに逆らったらマズいんじゃないか?」
「逆らったことを、誰かが告げ口しなけりゃいいだけなんだよねぇ。ねぇ、魔さん、死んでくんなぁい?」
リゲルはを粟立たせた。これは正しい恐怖だ。そのすぐあとに、リゲルは腹を思いっきり蹴られた。
「う……ぐぐぐ……」
派手な痛みに涙がにじむ。だが、涙が通じない相手だ。リゲルは歯を食いしばった。その間にローブの下をまさぐられる。
「あっ、これかな?」
グレースはリゲルのスリングから、文を取り出した。封蝋に押された印を確認し、満足そうに笑う。
「エッカルトぉ、ヤッちゃっていいよぉ」
エッカルトが腰のダガーを抜いた。リゲルは目を閉じる。萬事休す、だ。
「手紙を戻しなさい」
よく通る張りのある聲。救世主の聲でリゲルは目を開けた。
「ディアナ様にあんたたちの裏切り行為を報告するから。覚悟なさい」
助けに來たのは蛇……ではなく、イザベラだった。
「これはこれは、沒落したクレマンティ家のご息ではないですかぁ?」
「お嬢様ぁ、大丈夫ぅ? 魔さん、今魔使えないし、一対二よぉ?」
「はん?」
イザベラはズカズカ近寄ると、グレースを毆った。襟首つかんで、グーでパンチ。突然の出來事にエッカルトがうしろから取り押さえようとするも、肘打ちする。肘は見事、エッカルトの肝臓にヒットした。だが、イザベラの猛攻はこれにとどまらない。即座に対処できないエッカルトの間を蹴り上げ、頭突き。エッカルトは崩れ落ちた。
「これで、一対一ね」
鼻をダラダラ垂らすグレースに、イザベラは満面の笑顔を向ける。狀況は完全に逆転した。
「あ、あ、あんた、なんなの? こんなん、令嬢の戦い方じゃ……」
ゴチャゴチャ言っている途中で、グレースは拳を叩き込まれた。容赦ない。
「解けっ!」
ここで、ようやく魔法だ。イザベラはリゲルの拘束を解いてくれた。グレースの手から文を奪い返し、
「ファム!」
エッカルトが起き上がるまえに、今度は目くらましの魔法。
「チックショウ! クソ、どこいった??」
毒づくエッカルトの橫を通り過ぎ、イザベラはリゲルを馬の所まで引っ張った。近くに馬をつないでおいてくれたようだ。馬に相乗りし、リゲルたちはまんまと逃げおおせた。
「もう……リゲル、あなた油斷しすぎよ?」
馬の背に揺られ、安全圏についてからイザベラは口を開いた。
「わしゃ、おまえが怖い」
「助けてもらってそれ?」
「すまんすまん。だって、最強じゃろ? 拳だけで敵を威圧しおったんじゃから」
「相手からしたら、想定外だったからね。邪魔してくるからよ」
「わしのことを尾けとったんか?」
「ヘリオーティスのほうね。なーんか、怪しいなって思って」
「とにかく、助けてくれてありがとうな」
「傷の手當ては?」
「今、ユゼフのを飲む」
「まったく、便利ね」
しかし、助けてくれた弟子に対して、ヘリオーティスに対するのと同じ戦慄を覚えるとは。不可抗力でイザベラの腰に抱きついているものの、リゲルはブルルと震いした。
「どうしたの? 寒いの?」
「さっきも言ったけど、おまえがコワいんじゃよ」
「なーに、それ? ヘリオーティスごときにマゴついてるのがけないのよ。する乙は強いんですからね」
「する乙……」
「そうよ。せっかく事がうまく進みそうなのに、あいつらが茶々をれてくるのが悪いんだから。あのね、ディアナ様がユゼフとゴールインしてくれたら、サチも安心して戻ってこれるでしょ。ディアナ様の話だと平騎士としてではなく、重用してくれそうなじだし。王子の分も捨てて、しがらみもなくなったから、わたしと結婚できるのよ」
「そうか、そうじゃな……(サチの気持ちは無視か)」
「そう。だから、いくらリゲルでも邪魔したらタダじゃ置かないわよ?」
最後にまた背筋が寒くなった。
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