《お嬢さまと犬 契約婚のはじめかた》ひばりと律 Ⅱ (4)

ネモフィラが揺れる園をずんずん歩く。

もうほとんど走っているといってよかった。いつしか花畑を抜け、人気がない海沿いの散策路に出ていた。走るのには向いていないパンプスを履いてきたせいで足が痛い。でも、歩調を緩めることもできない。

わたしはいったい何をしているんだろう。こんなのは鹿名田《かなだ》ひばりにあらざる癡態だ。目のまえの男から尾を巻いて逃げるなんて。

「ひばり。おい」

息を切らしていると、後ろから腕をつかまれる。

離して、と手を振り払おうとして、低いヒールがわずかな段差に引っかかった。

「きゃっ」

傾いだを後ろから抱き留められる。

律は背が高い。おもいのほか大きな腕がおなかに回って、その力強さや背中から伝わる溫に肩が跳ね上がった。

「は、はなして!」

「だから、逃げるな。おまえ、いい加減にしろよ」

「はなしてってば! 律が大きいから、こわいの!」

ひしゃげた聲で訴えれば、律は息をついて、おなかに回していたほうの腕を解いた。手首はつかんだままだったけど、力は緩めてくれる。眥にじんわり涙がにじみそうになったので、を噛んで無理やりそっぽを向いた。

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「だから、そんないやそうにするな。さすがに傷つくだろうが」

「律なんてきらい。もっと傷つけばいい」

律はひばりに一度だってひどいことをしていないし、さっきだって勝手に転びかけたひばりをたすけてくれたのに、口をひらくとそんなことを言ってしまう。律がひばりを大事に扱ってくれてうれしい。追いかけてきてくれて、ほんとうはうれしくてたまらなかった。でも素直にそう伝えることはできないのだ。律はひばりの仕事相手だから。

「ひばり。ほんとうはわかってるだろ」

「……なにが」

「俺がなんでおまえにかまうのか。おまえ、ほんとうはそんな鈍じゃないよな」

頬のあたりに律の視線をじた。

目を合わせたくない。絶対目を合わせてなんかやらない。

俯いて、ひばりはこぶしを握る。

「律はわたしの仕事相手だもん……」

「おまえはそうかもしれないけど、俺にとってはずっと大事なの子だよ」

知ってる。

そんなこと知ってるよ。

わたしのこと、いつも大事にしてくれてた。

でも、そんなありきたりな言葉を聞きたいわけじゃない。

「そんなこと、べつに言わなくていいよ」

「わかってなさそうだから、言ってるんだけど」

「だって、律はねえさまのだもん。もともと、わたしのじゃないもん……」

はじめて、このひとに出會ったとき、いいなあ、と思った。

ひばりは世界でいちばんねえさまがすき。

絶対に揺るがない。ねえさまがだいすき。

でも、にばんめは律にしてもいい。

律なら、にばんめにしてあげてもいい。

そんなことを思ったのは律だけだった。

だから、ほんとうは自分が律がほしかった。

でも、世界でいちばんすきなねえさまが世界でにばんめにすきな律の婚約者になるなら、わたしはいいやって、ゆるした。ねえさまを誰にもあげたくない。でも、律ならあげてもいい。にばんめにすきな律なら。

「ねえさまから、ぜんぶ取り上げたんだもんわたし。律までもらえないよ……!」

ひばりが今持っているのは、つぐみのものだったものばかりだ。

鹿名田本家の娘としての地位と責務。周囲からの期待や稱賛。恵まれた教育環境。非の打ちどころがない婚約者。

ほんとうはこの椅子にはつぐみが座るべきだった。なのに、ぜんぶひばりが取り上げたのだ。

それをつぐみに詫びようとは思わない。だって、ひばりは自分の意志でぜんぶを取り上げた。今自分が持っているものはすべてつぐみのものだったはずだけど、と汗と泥の代償で自分のものにした。誰に何を言われたって、ひばりは悠然と微笑み返してみせるだろう。姉が座るべきだった椅子に誰よりもふさわしく座ってみせる、これがわたしだと。

だけど、律はもらえない。律とはできない。

姉と律がするはずだったを代わりにすることなんかできない。

「おまえはいったいいつまでひとりで囚われてるんだよ」

「律にはわかんないよ」

「ああ、わからないよ」

そう言って頭にのせられた律の手は大きくてあたたかくて、ぼろっと涙があふれた。

不覚だ。くやしい。わたしは誰のまえでも泣かなかった。ねえさまを突き飛ばしたあの日から、誰のまえでも弱いすがたを見せたりなんかしなかった。それをこの男は手ひとつで突き崩してしまえるのだ。

くやしい。死んでしまえ。

でもそばにいて。死んでしまえと言われても離れないでそばにいて。

「律なんかきらい。あっちいってよ」

「そんなにいやなら、おまえがあちらに行けばいいだろう」

「どうせ追いかけてくる」

「逃げるおまえがわるい。ほんとうは追いかけてきてほしいくせに」

「うるさい」

その言い草に腹が立って、むっと睨みあげる。

けれど、予想外にやさしい眼差しとかちあって、の矛先がわからなくなった。

「ひばり」

低くてほろ苦い聲が耳元をくすぐる。

れても?」

「……ん」

うなずいたともいえないぶっきらぼうな聲を返すと、濡れた頬に大きな手がれた。頬に添わされる手を心地よいと思う。眥にまだ溜まった涙を拭う指先や、低溫のぬくもりも。もっとそうしてほしい。でも、自分からねだるのは嫌。

「わたしのこと、どのくらい大事?」

「……言わないとわからない?」

「わからない。言って」

「ひばりさんのほうからは言わないのか」

「言って。婚約者でしょう?」

頬にあてがわれていた手が髪に差しり、軽く上向かせられる。

れた。もう逃げられなくなって、目を閉じる。

もう逃げられない。律はずっと追いかけてきた。

だから、逃げられない。きづいてしまう。がはじまってしまう。

絶対いやだったのに、どうしてこんなにを叩くんだろう。

「律がすき」

が離れたとき、ぽろっとこぼれる涙と一緒に口にした。

ちょっとびっくりしたふうに目をみひらく男のめずらしい表に、ほんのすこし溜飲がさがって、ふふんと口端を上げる。

「世界でにばんめに」

さんざん待たせてそれか、と律は力したふうにつぶやき、指を絡めて二度目のキスをしてきた。

*…*…*

結局、律とひばりの結納は、予定どおりひばりが十九歳の誕生日を迎えたあとの夏に行った。

神前での親族だけの結納式のあと、ホテルのホールを貸し切って行われたお披目式は、総勢數百名の関係者が集まる盛大なものになった。沢のった淡い檸檬のドレスを著たひばりは、緩く巻いた髪にパールをちりばめた髪飾りをつけ、清楚ながらも華やかな裝いをしている。ひっきりなしに招待客が挨拶に來るが、ひばりは疲れたようすをちらとも見せない。

(なんだかんだで、生き生きとしているんだよな)

おなじく招待客と談笑しつつ、律はすこし離れた場所で話すひばりの橫顔を苦笑じりに見つめた。

ひばりにはもうすこしのんびりできる時間を與えてやりたかったのだけど、當の本人は律を追い越す勢いで走って行ってしまうので、そのあたりはもうあきらめた。ひばりを見失わないように律が注意していればいい話だ。

「ひばり」

客足が途絶えた隙にテラスのほうへ出ると、おなじようにホールから抜けたひばりが夜風に髪をなびかせていた。

「律」と微笑んで、腕に手を回してくる。婚約者の演技をしているのか、素で甘えてきているのかちょっとわかりづらい。あるいは本人も意識していないのか。

「疲れてないか」

「ぜんぜん。わたしを舐めないでね」

數百人の招待客の接待など、彼にはお手のものらしい。

はいはい、と軽く首をすくめ、持っていたショールをひばりの肩にかける。ひばりはんでいないらしいけれど、律がひばりを甘やかすのは律の勝手だ。

かけられたショールをを尖らせていじっていたひばりは、ふいに上目遣いに律を見つめてきた。

「ねえ、律。律はいつからわたしがすきだったの? もしかして実はロリコンだったの?」

「……おまえな」

額を弾こうとすると、蝶みたいにひばりがひらりと逃げた。すこし距離を取って、律がかけてやったショールを引き寄せつつ、歌うように続ける。

「わたしははじめて會ったときには律がすきだったよ。このひとが自分の旦那さんになればいいのにって思ったの」

「さすがに噓だろ」

「ふふん。緒」

振り返ったひばりが相好を崩す。

出會ったばかりの頃の、鈴が転がるような可憐なわらい聲だった。

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