《【書籍化】碧玉の男裝香療師は、ふしぎな癒やしで宮廷醫になりました。(web版)》2-1 萬華宮のはぐれ者は、
「……もうちょっとくらい、泣いてもいいんだぞ」
「は? 泣きませんけど」
月英のあまりに淡々とした様子に、燕明の方が泣きそうになった。
月英が太醫院《たいいいん》で醫として働き始めて一週間。
月英は想像通り……いや、想像以上の日々を送っていた。
――歓迎されてないのは分かってたけど、まさかここまでとはね。
「おっと悪ぃ、足がったあ!」
男の聲と共に、月英の足元に積まれていた柑の皮の山が吹き飛んだ。
思わず月英の顔も引きつる。
どれだけの時間をかけてここまで剝いたと思っているのか。午前中の努力が、慘憺《さんたん》たる格好で床に散らばっていた。
背後では蹴飛ばした男と、その仲間の醫達がクスクスと笑っていた。
月英はゆるりと立ち上がると、蹴飛ばした男に向き直る。そして、男の目の前に手を差し出し、握っていたを渾の力で潰した。
「おっと悪い柑がった。くらえ目潰し柑!」
「ぶぎゃんっ!」
男は不細工な悲鳴を上げると、顔を押さえてうずくまった。その隙に月英は房《ぼう》をひょいと抜け出し逃げる。
「待てチビ! 柑がったって何だよ! 立派に『くらえ』って言ってたじゃねえか!」
背後で男が怒鳴り聲を上げていたが、構うものか。
月英は房《ぼう》の裏まで走ると、壁を背にずるずるとをついた。後頭部をグシャグシャと暴にし、ふうと空に息を吐く。
夏の空は迫ってくるような濃い青で、遠近を狂わせる巨大な道雲が綺麗な対比を描いていた。太のしは暑く、日に居てもジリジリとに迫るようだった。
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「あーしまった。柑の皮忘れた。あれ無いと油作れないんだよな」
拾い集めに戻ろうかと思ったが、まだあの男は鼻息を荒くしている事だろう。もう暫くして取りに行く事にした。
「……目立たないように、って思ってたんだけどなあ……」
その心がけは、初日で見事に破綻した。
醫になる事を了承した日、そのまま燕明達に太醫院に連れて行かれた。
挨拶を済ませ顔を上げた時、そこにあった月英を見つめる目は、全員もれなく敵意を含んでいた。
それもそうだろう。宮廷吏になるには相応の難関試験を突破しなければならないと聞く。それなのに、自分の様な家柄も見栄えもないが、唐突に皇太子の鶴の一聲でってくれば誰だって面白く思わないはずだ。
「不運ここに極まれりだわ」
そんな曰く付きの月英を、初日から男達は揶揄いの対象にした。
最初こそ月英も大人しくしていたが、それはそれで先程のように直接干渉されるだけで無意味と気付き、それからは多の反撃と逃げに徹する事にしていた。
目立たないようにする事には失敗したが、今のところだとバレる気配がないのは不幸中の幸いだった。
「ま、あの様子じゃ絶対、僕の事をだとは思ってないだろうね」
月英は醫服の元を緩め、パタパタと空気をれる。
に何重も巻いたさらしが暑くてたまらなかった。
「さて、どうしたものかねぇ」
背を當てた壁の向こうで、まだ男達の騒ぐ喧しい聲が聞こえていた。
そうして房に戻る事も出來ず月英が頭を悩ませていれば、燕明が現れたのだ。
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「もうちょっとくらい、泣いてもいいんだぞ」
「は? 泣きませんけど」
「……弟が逞しすぎる」
意味分からない事を呟きながら肩を落とす燕明。なぜか涙ぐんでさえいる。緒不安定なのか。
そんな燕明に月英は奇異の目を向けた。
「なんですか急に。僕の涙は人魚の涙じゃありませんよ。飲んでも何の効能もありませんが。飲むんなら油《せいゆ》飲んで下さい」
「それ死ぬってこの間言ってただろ」
「一本じゃ死にませんって。多分」
「不確かな報で安易に皇太子を殺そうとするなよ」
「だったら、安易にいたいけな醫を泣かせようとしないでください」
「目潰しする奴は、いたいけとは言わない」
どうやら房での一連の流れを見られていたらしい。
月英は遠慮なく舌打ちをした。
「お前……普通、俺に向かって舌打ち出來る奴なんか居ないぞ?」
燕明は顔を引きつらせていた。
引きつっていてもしいと思わせのは、やはり皇太子故の気品からか。それとも単に顔の造形が良いからなのか。どちらにせよ、燕明を変態だと認識している月英には、いくら燕明の顔の造形がしかろうと、態度と発言に些かのブレもみられない。
「突然やって來たかと思えば『泣け』などと……殿下は変態なだけでなく嗜《し》《ぎゃく》趣《しゅ》味《み》もあったんですね」
嘆息しながら首を橫に振り、燕明から一歩遠ざかる。
「待て! 違う、そういう趣味はない! というか、変態でもない!」
慌てた燕明が釈明に近付こうとするも、彼が一歩踏み出せば月英は二歩後退する。
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「なぜ逃げる!?」
「危険人と判斷しましたので」
燕明がスッと足を出せば、月英はススッと後退する。ススッと出せばススススッ。
これでは埒があかないと判斷した燕明は追う事をやめ、その場に座り込んだ。皇太子でも地面にしゃがみ込んだりするんだな、と月英はしい織りのが土に汚れるのを、勿ないと眺めていた。
「はぁ……お前と居ると調子が狂う。普段の俺はこんなんじゃないのに……」
すると燕明は、まるで貓でも呼ぶように月英に手招きをする。
「……何ですか」
警戒を全と聲で表わす月英に、燕明はもう怒る気にもならないのか、肩を揺らして苦笑した。
「大丈夫だ何もしない。ただし話がしたいだけだ」
まあ実際、太醫院の裏でどうもこうも起きやしないだろう。
月英は人一人分空けて、燕明の隣に腰を下ろした。その一人分の空間に燕明がふと笑みをらす。
「弟というより、まるで人慣れしてない野良貓だな」
「まず弟って何の事です」
燕明は宙に視線を彷徨わせると、意味深にはにかんでみせた。
――この人は、顔で困った事なんかないんだろうな。
唐突に月英は自分の視界を覆う重苦しい前髪が気になり、顔を背けてしまった。
「なあ月英。中には戻らないのか?」
見ていたのなら分かっているくせに、と思いながらも月英は律儀に答える。
「戻りたくありません。今は」
「今は、ね。そうやって同じ事があれば、お前は明日も明後日も、ずっとここでこうして隠れているのか」
「それは……」
こうやって逃げるのも限界だろう、と月英もそれはじていた。だが、だからといって自分にとれるすべなど何もなかった。
「……大丈夫です。今までも同じ様な中で生きてきたんで。それにたった三月ですし、向こうも僕の事なんかに構ってる暇はないでしょう」
我慢していれば時間など過ぎる。
それに、そうやって生きるすべしか月英は知らなかった。我慢、我慢、我慢、逃避、我慢――それが月英の人生だった。
燕明の返答がないのを不思議に思った月英が隣を見れば、なぜか燕明は目を眇め、痛々しそうな顔で月英を見ていた。
月英、と呼ぶ聲はとても息苦しそうに聞こえる。
「何が……何が大丈夫なものか……」
不意に手に溫かさをじた。
燕明の手が、の橫にあった月英の手に重ねるように置かれていた。二回りも大きい手はすっぽりと月英の手を覆い、月英はこれが本の男か、と手を払う事もせずじっとそれを眺めていた。
「確かに、ここはお前にとって居心地の良い場所ではない。だがな、何もせずその現狀に慣れるのは間違っていると、はっきり言える」
「それは、殿下が偽りのない人生を歩んできたから、そう言えるんですよ」
「偽り? どういう意味だ」
努力ではどうしようもない事など山ほどある。自分のなど、噓に噓を加えて噓で煮詰めて出來たようなものだ。そんな噓で固められた奴がどう頑張ろうと、結果も噓でしかない。
月英は燕明の問いには答えず、ははと力無く笑った。
「無理ですよ。僕は醫も何も持たない、ただの下民なん――っ!」
突然、重ねられていただけの燕明の手が、月英の手をキツく握り締めた。
「お前は、自分の持っているものに気付いてないのか?」
目を瞬かせ、燕明は驚きの表で月英を見ていた。
今度は月英が戸いの聲を上げる。
「僕が持ってるもの……ですか?」
何も持っていないからこその下民だというのに。
「あるではないか。ここに」
そう言って、懐から燕明が取り出したのは絹の手巾。そこからふわりと鼻腔を掠めた香りに月英は覚えがあった。
「これ、もしかして僕が調合した油を染み込ませてます?」
「ああ。あまりに良い香りだったんでな、こうして手巾に付けて持ち歩いてるんだ。朝議で嫌なことがあった時は、この香りで落ち著いている」
燕明は手巾を鼻に當て、深呼吸してみせる。
「柑も薫草も、神疲労を癒やす効果がありますからね」
燕明は淡々と述べる月英を、目を細くして橫目に捉える。
「お前はこのを特別とは考えてないようだが、このは素晴らしいと俺は思うぞ。香りで治療など誰でも出來る事ではない。油も、俺が教えてもらったものだけじゃないんだろう。すごく努力が必要なだと分かるよ」
月英の口は呆けたように丸く開いていた。
「そりゃあ、植の數だけ油はありますが……このにそんな事を言って貰ったのは初めてです」
いくら良い香りを作れたとて腹が膨れるわけではない。
誰も月英の香りや、そのに興味を示さなかった。香りを仕事としたのは花樓の時が初めてで、そこもそんなに稼ぎが良かったわけではなかった。元々『香《こう》』という手法があるのに、わざわざ月英の油を使った方法を必要とする者はいなかった。
言葉を失っていると、空いていた方の手で燕明に頭をでられた。
「を張れ、月英」
「……けど、このは」
を張って公に出來るものでもない。
――だってこれは、《《この國にあってはならない》》だから。
突然口籠ってしまった月英の頭を、燕明は優しくで続けた。
「このをどうするかは月英次第だが、努力して手にれたものを使わないのは、勿ない気もするがな。それに、ここは黙っていて居場所を得られるほど甘い場所じゃない」
「それは、よくに染みて分かってます」
「はは、だろうな」
「……元より、僕に居場所なんて……あるんでしょうか」
月英は自嘲した。
「なくとも、今お前にあるのは居場所じゃなくて、ただの場所だな」
燕明の言葉に、がズクリと痛んだ。考えないようにしてきた事を、的確な言葉で返されてしまった。
「互いを知らなければ、歩み寄る事など出來はしないさ。互いに言葉をわさねば分からぬというもの。そう最初から相手を拒もうとするな、月英」
いつも自分の居場所なんてない、と探す事も求める事も諦め、置かれた狀況にを任せていただけ。
全てただのり行き――と思っていたのに。
《お前さえ居なければ》
涙を流す事はなくなっても、悲しい事に変わりはなかった。
だが今まで一度たりとも反論も反抗もしてこなかった。自分の想いやを吐き出す――という事の一切を放棄してきた。自分に諦めていたから。『居なければ』と言われ続け、いつしか自分の中でも自分は『居ないもの』となっていた。
しかし、その言葉にいつも心を重くしていたのは、本當はその反対をんでいたからではないのか。
本當は、誰かに求められたかったのではないか。
本當は、自分を必要としてくれる場所にを置きたかったのではないか。
本當は――
「殿下、僕は……自分を諦めたくないです」
諦めたふりをして自分を納得させていた。これ以上自分が傷つかなくて済むように。
を丸めて溢す月英のその言葉は、掠《かす》れ掠《がす》れだった。
「ああ。諦めなくていい。諦める必要がどこにある」
月英は顔を上げ、燕明の漆黒の瞳を真っ直ぐに捉えた。
「僕はこのを使って、僕である事を証明したい。僕にしか出來ない事をしたいです」
満足げに燕明の口角が上がる。
「俺の助けはいるか?」
「僕はそんなに弱くないですから」
確かに、と燕明は軽妙に膝を叩いた。
「兄としては、弟にはもうちょっと甘えてしいもんなんだがね」
「さっきも言ってましたけど、その兄やら弟やらって何ですか」
「はは、実はお前の事は弟のようだなと思ってな」
あっけらかんと言う燕明に、月英が「はぁ」と間が抜けた聲を出す。
「勝手に人の家系図に混じろうとしないでください」
「だったら、お前が俺の家系図にれば萬事問題ない!」
「萬事問題しかないですよ」
本當にこんな能天気なのが次期皇帝で良いのか、と月英は心配になった。
「それじゃあ、俺も仕事へ戻ろうかな」
よっこらしょ、と年齢と顔に似合わない掛け聲と一緒に燕明は腰を上げた。それと一緒に握られていた手もスルリと解け、溫められたが外気にれヒヤリとする。
「もしかして、僕を心配して様子を見に來てくれたんですか?」
「偶然だよ」
「……下手くそ」
噓がバレバレだ。偶然でこんな、朝の端にある太醫院の房の裏になど來るものか。
しかし、燕明の素知らぬふりして「偶然」などとバレバレの噓をのたまう姿に、月英はぽこぽこと笑いが込み上げ、とうとう堪えきれず腹を抱えた。
「――ふッ、ははっ……あはははは!」
いつも淡々としていた月英が初めてをさらけ出して聲を上げて笑う姿に、燕明は眥《まなじり》が裂けそうな程大きく目を見開いて、その姿を凝視する。
あははは、と笑う気な聲が真っ青な空に吸い込まれていく。
まるでに絡む重いものから抜け出そうとするように、今まで笑えずにいた分を吐き出すように、月英は一心に笑っていた。
「――っはぁ」
笑聲がやむと、月英は満足したような息をつき、燕明に顔を向けた。
「本當、殿下はバカですね」
「――っば!?」
燕明が、悪口を言われたのに悪い気がしなかったのは、それを言った月英の頬が仄かに赤らみ緩んでいたから。それは、ここに來た時見た表とは雲泥だった。
月英の目元は相変わらず前髪で隠れていて、燕明からは見えない。
だが唐突に向けられた、頬を赤くした今までにないくらいの純粋なその笑みに、燕明はを締め付けられたような覚に陥った。
燕明は息がうまく出來ず、月英からフイと顔を背けてしまう。
「こ、皇太子に……バカ……などと言う奴が…………」
最後の方はすぼみして言葉にならなかった。
燕明はいたたまれない気持ちになり、月英に背を向けた。
「……俺は仕事に戻る。何かあれば……俺や藩季を頼ってくれていい」
「お気持ちだけ頂きます。でも、これは僕が人になる試練ですから」
「面白い事を言うな。お前は最初から人だというのに」
燕明が困ったように口を歪めた。しかし、月英は無言を返すだけだった。
燕明の足が月英から遠ざかる。
房の角の向こうに燕明の姿が消えようとした時、彼は視線だけを月英に返した。
「を張れ、弟。俯くな。目に映る景は、爪先よりも大空の方が気持ちいいだろう」
そう言って頭上に広がる綺麗な青空を指さし、今度こそ角の向こうに姿を消した。
「誰が弟ですか」
殘された月英は苦笑し、頭上のその綺麗な青を眺めた。
◆◆◆
「おや、どうされました? 燕明様」
藩季は何かをぶつぶつ呟きながら、一心不に執務機で筆を走らせる燕明に首を傾げた。どうやら燕明は藩季が部屋にってきたことにも気付いてない様子だった。藩季がそっと近付き聞き耳を立ててみる。
「俺は違う俺は違う俺は違う俺は違う――」
意味不明なことを呟いていた。
とうとう不眠の末に気が狂ったのかと思ったが、燕明の手元――一心不に紙に書いている文字を見て、藩季は盛大に噴き出した。
そこに書いてあったの文字は――『不男《男好きじゃない》』。
「ああ、そういえば今日は太醫院に行ったのだったか」と、藩季は一つの可能を即座に察する。
以前燕明は、國にも自分にも新しい風が必要だと言っていた。
「まさか、《《そっち》》方面の新しい風が吹くとは……」
違う扉が開きそうになっている自分の主人を、藩季は忍び笑いでもってかに眺め続けた。
【書籍化】捨てられた妃 めでたく離縁が成立したので出ていったら、竜國の王太子からの溺愛が待っていました
★ベリーズファンタジーから発売中です!★ 伯爵令嬢ロザリア・スレイドは天才魔道具開発者として、王太子であるウィルバートの婚約者に抜擢された。 しかし初対面から「地味で華がない」と冷たくあしらわれ、男爵令嬢のボニータを戀人として扱うようになってしまう。 それでも婚約は解消されることはなく結婚したが、式の當日にボニータを愛妾として召し上げて初夜なのに放置された名ばかりの王太子妃となった。 結婚して六年目の嬉しくもない記念日。 愛妾が懐妊したから離縁だと言われ、王城からも追い出されてしまう。 ショックは受けたが新天地で一人生きていくことにしたロザリア。 そんなロザリアについてきたのは、ずっとそばで支え続けてくれた専屬執事のアレスだ。 アレスから熱烈な愛の告白を受けるもついていけないロザリアは、結婚してもいいと思ったらキスで返事すると約束させられてしまう。しかも、このアレスが実は竜人國の王子だった。 そこから始まるアレスの溺愛に、ロザリアは翻弄されまくるのだった。 一方、ロザリアを手放したウィルバートたちは魔道具研究所の運営がうまくいかなくなる。また政務が追いつかないのに邪魔をするボニータから気持ちが離れつつあった。 深く深く愛される事を知って、艶やかに咲き誇る——誠実で真面目すぎる女性の物語。 ※離縁されるのは5話、溺愛甘々は9話あたりから始まります。 ※妊娠を扱ったり、たまにピンクな空気が漂うのでR15にしています。 ※カクヨム、アルファポリスにも投稿しています。 ※書籍化に伴いタイトル変更しました 【舊タイトル】愛されない妃〜愛妾が懐妊したと離縁されましたが、ずっと寄り添ってくれた専屬執事に熱烈に求婚されて気がついたら幸せでした〜 ★皆さまの応援のおかげで↓のような結果が殘せました。本當にありがとうございます(*´ー`*人) 5/5 日間ジャンル別ランキング9位 5/5 日間総合ランキング13位
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