《【書籍化】碧玉の男裝香療師は、ふしぎな癒やしで宮廷醫になりました。(web版)》2-2 初めての香療
付き添い役の侍である春萬里に案され、芙蓉宮の扉を叩けば、側には仄かに異國の香りを纏った人が、椅子に座っていた。
月英達が部屋へと踏みれると、れ替わるようにして侍達は出て行き、部屋には三人だけになる。
月英は、目の前で瞼を伏せて靜かに座る芙蓉宮の主――亞妃を見つめた。
薄紅の襦を纏った膝の上で、自然と重ねられた、たおやかな両手。爪先まで綺麗に揃えられた両腳。背もたれにを預けることなく、まっすぐに背筋をばして座る姿。
大きく波打った長い髪は一切の飾り気もなく、しかし、をけて控え目な鈍を放つ黒とも灰ともつかぬ髪は、それこそが寶飾品のようなしさがあった。
月英は、閉じられた瞼の下にはどのようながされているのか、と食いるように彼の顔を見つめる。
すると、背後から春萬里の「何をやっているんだ」とばかりの咳払いが聞こえた。
我に返った月英は、不躾に見過ぎてしまった、と視線を切るようにして慌てて頭を下げる。
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『し、失禮しました。はじめまして、香療師の月英と申します。今日から呈太醫の代わりに、亞妃様の調を診させていただきます』
『香療師……様?』
亞妃の杏の小さなが確かめるように呟き、そこで初めて彼は瞼を上げた。
から現れたのは、髪と同じ黒と灰が揺れる蠱的な瞳。
一見すると萬華國の民のようではあるが、しかし確かに彼は異國の香りがする人であった。
だが、亞妃の瞳が月英に向けられることはない。伏し目がちの瞳には、月英が手に持つ竹籠しか映ってはいない。
『――っあ、こ、これですか? 香療に使う道です』
視線に応えるように、月英は持っていた竹籠を、中が良く見えるように亞妃の目の前に差し出した。
亞妃は僅かに首をばして竹籠の中を覗き込んだが、特に反応を示すことはなく、再び瞼を伏せてしまう。
『香療とは、香りを使って調を整えたり、心を軽くしたりする治療の一つです。僕は今日、亞妃様の調をしでも良くするために來ました』
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月英は、竹籠を床へ置き油瓶を幾本か取り出すと、芳香浴の準備に取り掛かる。
『あ、でも調は呈太醫が診て大丈夫そうなので、僕は調子を……といったじですが』
『…………そうですか』
実に気のない返事であった。
月英は屈んだまま、見上げるようにして亞妃の様子を窺う。
確かに不調と言えるほどの悪さは見えない。どことなく覇気がないのは、食が細くなっているせいだろう。口數がないのは、元から靜かな格だからなのかもしれない。
しかし、絶対的に亞妃の様子はおかしかった。どこが、というはっきりした點は分からないが、この狀態が彼の普通であるとは、月英には思えなかった。
異國に嫁いできたことを不満に思っている様子はない。
悲嘆に暮れているわけでもない。
しかし、瞼を閉ざすという行為は、何かを拒絶しているという現れではないのか。
――でも、嫌がられてるってじはしないんだよなあ……。
亞妃の態度について思案しつつも月英の手は淀みなくき、香爐臺を組み上げる。
『亞妃様、よく眠れない、疲れが取れないなど、お困り事はありませんか?』
亞妃はゆるゆると首を橫に振った。
『では、お好きな香りはありますか?』
ピクリ、と亞妃の瞼が揺れいた。
『好きな……香り……』
緩慢なきで瞼が開き、再び蠱的な瞳が現れる。月英が足元に屈んでいたことで、伏し目がちだった亞妃の瞳と月英の視線が初めてわった。
次の瞬間、亞妃の目が大きく見開かれる。
『……っあなたの瞳……とても綺麗な空をしているのですね』
それは、亞妃が初めて見せた反応らしい反応だった。
『あ、ええ。僕には半分、異國のがっていますから』
『異國……』
亞妃は暫く月英を――というより、月英の瞳だけを――見つめた後、『そうなのですね』と、やはり視線を逸らした。
気のせいだろうか。亞妃の瞳から一瞬靜閑さが消え、溌剌とした煌めきが宿ったと思ったのだが。しかし、今、そっぽを向いている瞳には何の慨も見えない。
すると、ポツリと亞妃は言葉を発した。
『……甘く、澄んだ香りが好きですわ』
月英は『かしこまりました』と、素早く幾本か油瓶を選び出し、匂いを確認する。
『へえ、それが噂の香療ってやつ? ガキんちょのままごとみたいだな』
『ちょっと、邪魔しないでもらって良いかな』
月英の肩口からひょっこりと顔を覗かせ、手元を覗き込んでくる春萬里。その言い方には多なりの揶揄いが含まれており、月英は眉間に慍を表わして春萬里を睨んだ。
月英の一瞥に、春萬里は『へいへい』と大げさに肩をすくめ、大人しく壁際の定位置へと戻る。月英は目端でそれを確認すると、それにしても、と両手に握ったそれぞれの油瓶を眺めた。
――甘く、澄んだ、か……。
甘いと一言にいっても、柑の爽やかな甘さから山梔子の濃厚な甘さまで、その種類は多岐にわたる。しかも香りのじ方は、當人のや神狀態に左右されたりもするため、「甘いのはコレ!」というような自分勝手な選び方は出來ない。
好みの香りを処方する場合には、常に相手の様子を見ながら想を聞いて、しずつ相手が心地良いとじる香りを探していくことになるのだが。
――一先ずは、人を選ばない無難な香りからだね。
握っていた一本を竹籠に戻し、殘りを小皿に垂らす。そして香爐臺にのせ、火を燈せば、ふわりと香りが立ち上った。
月英にとっては実になじみ深い香り――「柑(オレンジ)」の香りである。
亞妃が反応を示すよりも先に、後ろの春萬里が『おお』と聲をらした。
『確かに甘いけど、すっきりする香りだな』
その聲音には先程までの揶揄いのはなかった。目を丸くして、何度も深呼吸して嘆をらす様は、実に年相応の反応である。と言っても、彼の年齢など知らないのだが。
――多分、僕と同じくらいだよな。
十八やそこらだろう。さすがに背丈は春萬里の方が高いのだが、話し方や雰囲気から、そのくらいだろうと見當を付けていた。
それより、と月英は、意識を背後から前方の亞妃へと向ける。
『亞妃様はいかがです? これは柑(オレンジ)の油の香りなのですが、どのようにじますか? 嫌いだとか、心地良いだとか……』
亞妃は大きく深呼吸し、鼻腔いっぱいに香りを吸い込んだ。そうして香りを味するかのように、靜かに目を閉じる。
次に瞼が上げられた時、亞妃は『ありがとうございます』と微笑んでいた。
月英は安堵にをで下ろした。きっとこのまま香療を続ければ、亞妃も心を開いてくれるだろうと、そう思った。
初日ということもあり、その日は、小皿に殘った油が空になったら火を消すように、とだけ言って月英達は宮を去った。春萬里は『案外、簡単に片付いたもんだ』と呑気な聲を出していたが、しかし月英は遠ざかる宮を振り返り、どうしてかに得の知れないわだかまりを覚えたのだった。
そういえば別れ際、彼はどのような顔をしていただろうか。
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